【連載小説】あなたに出逢いたかった #45
パパの左肩の傷…幼い頃、私を守るために出来たと妄想したのが、いつの間にかそうだと思い込んだ傷。
稜央さんがつけた…?
「僕の中の狂気が、あの人から受け継いだものなのかと思うと…それさえも愛しく思ったんだ。それはずっと後になってからのことだけど…」
梨沙は声に出来なかった。ただ動揺で目を見開き、唇を振るわせながら彼を凝視していた。
稜央も申し訳無さそうに目を逸らす。
「あんまり話すと怒られるね。あの人に僕と話するなって言われているんだもんね」
「…」
「今日は突然呼び出してごめん。そろそろ…」
「どうしてですか?」
稜央が伝票を持って立ち上がろうとすると、梨沙は声を震わせて言った。
「一歩間違えたら左胸…死んでたかもしれないですよね」
稜央は圧倒され、思わず「ごめん」と口走っていた。そんな謝り方、愚かすぎるだろ、と思いながら。
「それにさっきから」
梨沙の眉間には皺が寄っている。
「パパのこと "あの人" って。他人みたいに。どうしてなんですか? 同じ血が流れていることが嬉しいって言ってたのに、すごくよそよそしい。矛盾してませんか。もう会わないとか。パパと…何があったんですか!?」
「それは…」
君の前でさすがにまだ "父さん" なんて呼びにくいんだよ、わかるだろ。
しかし稜央は言葉を呑んだ。
「ごめん梨沙ちゃん。余計なこと言い過ぎた。あの人…君のお父さんからきちんと話を聞いて、その上で僕に言いたいことがあったら話してくれ」
「稜央さんのお父さんでもあります…!」
「僕は梨沙ちゃんと…本当はもっと…たくさん話したいんだ。まだもう少し待たないといけないみたいだけれど、それでも堂々とその機会が得られるだろうと思っているんだ。僕たちが出逢ったことは…何の罪もない。いや、君のお母さんは不快に思うかもしれないけど…でもさ…」
「…」
「でも僕らは生まれ、出逢った。そんな予定も意図もなかったのに、だ。だから…」
それでも梨沙は何も言わず、唇を噛み締め、眉間に皺を寄せて睨みつけた目からは今にも涙が零れそうだった。
稜央は「ごめん」と再び言い、伝票を持って立ち去った。
窓の外は雲間から青空が覗き、陽の光が窓ガラスの雨粒を輝かせていた。
***
2日後、梨沙が夏期講習から戻ると、遼太郎と蓮が京都から帰ってきていた。リビングにはお土産のお菓子…亀屋良長の『御池煎餅』に、鍵善良房の『甘露竹』(水羊羹)など、京銘菓が並べられ、夏希も交えて談笑していた。
「よぉ梨沙、ただいま。お土産、梨沙が八ツ橋苦手なの、蓮がちゃんと憶えててさ、助かったよ」
入口で呆然と立ち尽くす梨沙に遼太郎はそう言って笑った。蓮はツンと澄まし「お父さん、お土産本当に適当に済ませようとするんだもん。僕だってせっかく夏の京都なんだから、夏しか買えないお菓子の方がいいって思ったし」と言うとそっぽを向いた。
しかし梨沙は黙って遼太郎に近づくと、静かに抱きついた。
「…梨沙」
側にいた蓮も目を丸くしたが、すぐに逸す。
"稜央さんが、あの傷をつけた"
どうしてなのかはわからない。
そして "あの人" と呼ぶよそよそしさ。
パパと稜央さんは、良くない関係なのかもしれない。
だから…だから…話もするなと。
どうして?
悲しい。
そんなの、悲しい。
パパのこと、心から尊敬して慕ってくれる人がいてくれると思ったのに。
梨沙はじっとしたまま遼太郎の身体を離さなかった。遼太郎は困った様子で夏希を見るが、彼女も首を横に振る。
「梨沙、どうした? 黙ったままじゃわからないだろ」
「お姉ちゃん、お父さんが3日も家を空けたから寂しかったーとか言うんでしょ」
蓮の揶揄にも梨沙は何とも言わなかった。ただ遼太郎の胸に鼻を擦り付けるように顔を埋める。
怖い。怖かった。
もしかしたら、この世からいなくなっていたかもしれない。
勝手に英雄視し、誇り高く思っていたあの傷の現実を生々しく知って、怖かった。
稜央さんが、つけた。どうして?
そうして、もしかしたら失っていたかもしれないという思いは、遼太郎の代わりなんてどんな相手だろうと出来ないと言うことを益々自覚した。
この人を失ったら、私も終わる。
この人なしで生きてなんて、いけるわけない。
「ほら、梨沙。無事帰ってきたから」
遼太郎は両手で梨沙の顔を挟んで身体から離すと、テーブルの上の筒缶に入った『御池煎餅』を一枚取った。煎餅といっても軽い口あたりで、京都らしい、素朴ながら上品なお菓子だ。
それを咥え、ぱりっと口元で半分に割った。そしておどけるように笑顔を浮かべ梨沙を見た。
「うわ、これ煎餅とか言っておきながら、フワフワだし口の中で溶けてなくなるぞ」
蓮も夏希も缶に手を伸ばし頬張った。唇を噛み締めたままの梨沙に、遼太郎は残り半分の煎餅を彼女の口元に運んだ。
梨沙は唇でそれを挟み、そっと口の中に入れると、本当に溶けるように甘さが広がり、やがて消えた。
*
その夜、梨沙はタブレットに絵を描いた。
真っ白なシャツがはだけた左胸から、無数の真紅の薔薇の花びらを零す、遼太郎の絵。その表情は、慟哭。
そのタブレットを手にして2階にある遼太郎の寝室を訪れた。
「梨沙…」
夜遅いせいもあるが、遼太郎の部屋も照明は自分の部屋同様にいつも暗めで、窓際のフロアライトと、ベッドサイドのミニテーブルライト、2つのフランク・ロイド・ライトが淡く温かく灯る。
「今夜、一緒にいてくれない?」
「…さっきから様子がおかしいな。何があったんだよ」
後ろ手に静かに扉を閉め、梨沙はタブレットを胸に抱いてベッドの上に腰を下ろした。遼太郎はドアの側で腕を組んで立ったままだ。
「私ね、ついこの間、稜央さんに会ったの」
遼太郎の眉間に寄った皺が、ライトの灯りで陰影を作る。
「どうして会った?」
「稜央さんが、仕事でこっちの方に来ていたんだって。それで、連絡が来て」
「…何を話した?」
梨沙はタブレットを胸に抱き締めて言った。
「パパの肩の傷…稜央さんが付けたって」
遼太郎は更に厳しい表情になり、顔を背けた。
「一歩間違えたら心臓じゃない? パパ、死んでたかもしれないじゃない。ね、どうして?」
それでも硬い表情で立ち尽くしたままの遼太郎に、梨沙は続けた。
「だって稜央さんはパパの…」
言いかけて止める。遼太郎はゆっくりと梨沙の隣に腰を下ろした。
「あいつ…本当に馬鹿なんだよな」
「えっ…?」
「馬鹿なんだよ、あいつは」
しかしその横顔は決して怒りも蔑みもなかった。むしろできの悪さを返って愛しく思うような、そんな諦めたような優しさが漂った。
ふーっと息を吐き、遼太郎は笑みを浮かべる。
「そんなことを言いにわざわざ梨沙に連絡取ってきたのか?」
「そのことだけじゃないけど…」
「この傷は俺が自分でやったんだよ」
「えっ…?」
遼太郎は逆手でナイフを持つかのように、左肩に向けて掻き切る仕草をした。
「どうして…?」
遼太郎は梨沙を見、笑った。泣き顔のようにも見えた。
「あいつは自分のせいだと今でも思ってるのか。違うって何度も言ってるのに。わからずやだな。だから馬鹿だっていうんだ」
「パパ…」
遼太郎は梨沙の頭を抱き寄せ、胸に抱え込む。ゴトっと手にしていたタブレットが床に落ちた。
梨沙の頬に触れる遼太郎のシャツの下には、その傷跡がある。
ギュッとシャツを摑む。熱い肌と、力強く脈打つ血の流れを感じた。遼太郎の大きな手のひらで頭を撫でられると、温かさと悲しさが同時に湧き上がってくる。
稜央さんのせいじゃ、なかった…?
「ね、どうしてそんなことしたの?」
「…梨沙、ずっと考えてるのか。そうだよな…。ごめんな。受験の大事な時期なのに、こんな話…」
梨沙は首を横に振った。
「ずっと考えているわけじゃない。受験勉強のことは心配しないで。そんなことでパパに迷惑かけたくないの」
遼太郎は鼻から大きく息を吸い込んだ。梨沙の頭皮からシャンプーの残り香なのか、甘い香りがした。
「パパ。私、ドイツの大学に進学したいって言ったら、反対する? ママのことも考えろよって、言う?」
遼太郎は驚いて梨沙の顔を覗き込んだ。
「本気で言ってるのか?」
「離れた方が、いいのかなって」
「さすがに俺のそばに居づらくなるとでも?」
「そうじゃない、そんなことは絶対にない」
梨沙は握りしめる拳に力を込めた。
「離れた方が、私も含めてみんなが落ち着くんじゃないかなって思って」
「そんな事考えているのか。そんなに気にしているのか」
遼太郎の胸の中で梨沙は目を閉じる。彼は小さな声で「ごめん」と謝った。
「本当に謝らないで。心配もしないで。パパを困らせることしたくない。それでね、ひとつお願いがあるの」
「…どんな?」
「パパの秘密を話してくれるっていう日、私の誕生日にして欲しいの。あと2ヶ月。それでも準備は足りない? 私はもう出来てる」
遼太郎は暫時考え、やがてため息と共に「わかった」と答えた。梨沙は両腕を彼の身体に回し、強く抱き締めた。
「嬉しい。ずっと前から早く大人になりたかったし、話をしてくれるならすごくすごく大きな意味を持った大事な日になる。誕生日を楽しみにしてる」
遼太郎は梨沙を強く抱き締め返した。
この温もり。
まだ言葉もおぼつかない小さな頃から、私はこの温もりに包まれてきた。
この匂いに癒されてきた。
この腕に守られてきた。
大人になるって、普通はここから飛び立つことだと思うけど…私は…。
このまま、蛹のまま、この腕に包まれて冷たくなってもいい。
もし羽化したとしても、ずっとそばを羽ばたいているだろう。うるさいと手であしらわれても。
遠くへ羽ばたいて傷つくのなら、その手によって、傷つき朽ちる方がいい。
#46へつづく