あなたがそばにいれば #10
Arisa
ぽかりと空いた野島次長の席を見ては、小さなため息が出てしまう。
1月末から10日間の日程で次長はドイツに出張へ出た。
その間、部付スタッフの私と飯嶌優吾さんは、目の回るような忙しさに追われた。
「やばいっすよ前田さん。部長また無茶振りして来ました」
「普段は一旦次長の元にそう言った案件は入りますからね。部長は野島次長なしでは動けないも同然です」
私たちはふふふっと笑った。
「僕だったら次長の仕事辛いなー。こんなにイレギュラーが入ってくるとパニクリそうですよ」
「野島次長と一緒に考えるなんて、飯嶌さん随分ご立派になったんですね」
さーせん、と舌を出す飯嶌さん。
私の皮肉は飯嶌さんにとっては挨拶代わりのようなもの。
思えば彼が配属されたお陰で、私はずいぶんと助かっている。
野島次長が営業から引っ張ってきたとあって当初は過大な期待がかかり、更に初めは彼自身も戸惑いがあってパフォーマンスは思わしくなかった。
けれど野島次長は彼に手厚く指導した。私も細かなサポートをした。
元々素直で頭も良い飯嶌さんは、吸収力は高かった。
とあるプロジェクトが完了する頃には、要領はあまり良くないけれど、周囲に配慮が出来、自分を主張しすぎず中和させることのできる…ファシリテーションスキルの高い社員に育っていた。
「前田さん、なんか手伝いましょうか。翻訳系以外で」
ニコニコと人懐っこい笑顔で、彼は彼なりに私に気を遣ってくれている。
* * *
飯嶌さんは私が野島次長のことを好きなことに気付いている。
もちろん妻子ある人を好きになった事を他言したことはないけれど、同じ部署で次長と飯嶌さんと私の3人で動くこともよくあり「観察力」も次長に買われた飯嶌さんは、私の想いを察していた
一度面と向かって
『いいと思うんです。好きになるのって自由だし。まぁご家族に悪影響を及ぼすのはだめですけど…。次長は魅力的な人だし、好きになるのは自然な事ですよ』
と言い出したことがあった。
私は即否定したものの、彼の言葉は嬉しかった。
救いだった。
私を否定しない人がいてくれる。
飯嶌さんは野島次長とプライベートでも何故か仲良しで、奥様のこともよく知っているはずなのに。
私は私、と言ってくれる。
野島次長が呼び寄せた飯嶌さんは、色んな意味で特別な同僚だ。
「大丈夫です。飯嶌さんはキャパを空けておいてください。部長からどんどん無茶振りが下りて来ますよ。それに次長からだって現地からオーダー来ますからね。翻訳後は飯嶌さんに回しますから」
「ふわぁー、勘弁してくれぇー」
飯嶌さんは仰け反りながらも楽しそうだった。
クスクス笑いながらも、頭の片隅で日本とドイツの時差を計算して、今頃彼は何をしているだろう、と考える。
* * * * * * * * * * *
怒涛の日々が過ぎていく。
次長一人いないだけでこんなにも山積されるかと目が回りそうだった。
私も飯嶌さんも毎日遅くまで残業せざるを得なかった。
その日も時計は20時近くを差していた。
ふぅ、とため息をついた時に、内線が鳴った。こんな時間に何だろう、と思った。
「はい、企画営業部、前田です」
『総務の佐藤です。野島次長宛に外線が入っているのですが』
「わかりました。繋いでください」
転送された外線相手が名乗ると、私は要件も訊かずに思わず「お待ちください」と保留を押した。
「飯嶌さん…ごめんなさい。電話代わってもらっていいですか。野島次長の奥様からです」
「へ? 奥さん? あ、はい。出ます」
咄嗟だった。咄嗟に拒絶反応が出た。
会話を聞きたくないと思ったけれど、向かいの席の飯嶌さんが少し慌てた様子だったので、私にも緊張が走った。
「え、事故…? そんなニュースはこちらに入ってきていないですよ」
電話の様子から野島次長の電話をコールしてみるが、呼び出し音は鳴らなかった。
ニュースサイトを素早く検索し、ドイツでの事故のニュースを探す。
何件か該当し、その中でも新しくて比較的規模の大きな事故のニュースをチェックした。
時間帯、場所からして野島次長は関係ない。そもそもこちらにそんな話も来ていない。
ドイツで会議に出席しているメンバーに、野島次長が出席されているか確認メッセージを送った。
電話を切った飯嶌さんは時計を見つめていた。
「次長と連絡取れなくて、ドイツで事故があったってニュースを観たから心配して奥さんが掛けてきたんですよ」
「飯嶌さんごめんなさい、咄嗟に代わってもらってしまって。何度か家に遊びに行ったと聞いていたので、飯嶌さんに出てもらった方が良いかと思いました」
「いえいえ。僕が出て良かったです。奥さんかなり動揺してたみたいだから。あ、次長に連絡しないと」
「今、会議参加メンバーに次長が出席されているか確認してほしいとメッセージを送っておきました」
「さすが前田さん、マジ仕事早いっすよね。僕も次長宛に家に連絡してとメッセージ入れておきます」
数分後、メッセージの相手から "Of course." の返事が届いた。
私は事故のニュースよりも、別の理由で指先が震えていた。
彼の "妻" という存在をありありと感じたから。
家族として安否を気遣う存在を。
「前田さん」
飯嶌さんに声を掛けられ、ハッと顔を上げる。
「あ、次長はちゃんと会議に出られていると返事来ました」
「良かった。多分スマホどっかに忘れたんですね。次長もあぁ見えても結構抜けてるところありますからね。それより…」
「それより…なんですか?」
「そろそろ上がって飯食いに行きません? あ、いつものことながら下心はないですよ。僕には彼女がいますので!」
飯嶌さんが私を食事に誘う時は決まってこの台詞だ。
そして私を気遣う時だけ、誘ってくる。自分の都合ではない。
皮肉なのか、そういった気遣いを飯嶌さんに教えたのは、野島次長だ。
「わかってます。毎回同じこと言わなくていいです。嫌味ですか?」
飯嶌さんは「そんな嫌味だなんて~」とニヤニヤしている。
「何、食べに行きましょうか? 家系ラーメンはダメですけど、出来る限り飯嶌さんにお付き合いします」
「よーし! 明日できることは今日やらずに、とっとと行きましょう!」
そんなこと言って明日の朝、大抵テンパってしまうくせに…。
思わず笑ってしまう。
"ありがとう、飯嶌さん"
心の中でお礼を言った。
#11へつづく
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