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【連載小説】鳩のすむ家 #7 〜"Guilty"シリーズ

~由珠子


向こうから歩いて来るのは…野島さんだ。
隣には小柄な女性がいた。

彼女。
そんな言葉が浮かぶ。あんな人でも、付き合うような女性がいるのだ。

凝視していた私に向こうも気付き、はっと足を止めた。

「福永…どうしてこんなところに?」

咄嗟に私は逃げた。

「おい、待て!」

それでも逃げた。背後で女性が「野島くん!? どこ行くの!?」と叫んでいる。
彼女が怒っている。私は構わず逃げた。

しばらく走るが、すぐに追いつかれる。腕を掴まれた私は思わず叫ぶ。
さっき叩かれた腕と、男の人の手がこんなにも強くて熱くて…そんな事初めてで…びっくりして。

「騒ぐな! 怪しまれるだろ」
「やめてください、痛いです」

眉を顰めた野島さんは真顔になって私の袖を捲り上げた。

「お前、この痣…」

なぜ、勘付いたのだろう。

隙を見て再度逃れようとしたが、瞬時に腕を引っぱられ、私はすっぽりとその腕の中に収まってしまった。
こんなに冷たい夜なのに、野島さんの身体は熱かった。それと大人の男の人の匂い…大人と形容するならこういう匂いなのかと…鼓動と…。五感に一気に頭に叩き込まれる。

何よりこんな状況に最大限に混乱した。

「はっ…離してください…」
「逃げないと約束するなら離してやる」

野島さんが耳元で言うものだから息遣いがはっきりとわかり、心臓が…あり得ないくらいに速く打って…本当に死んでしまうと思った。

「お願いです…離して…死んでしまう…」

涙目になった私に彼は驚いて身体を離した。かなり動揺しているようだった。

「な、泣くことないだろ!? それに死ぬだとか大袈裟な」

解放され、色々溢れ出して涙が止まらなくなり、野島さんは益々慌てふためいた。

「ちょっと…とりあえずこっちに…」

行き交う人たちが怪訝な顔をして私たちを見ているからか、野島さんは私を脇道に誘導した。濃紺地にレモン色のラインが入ったハンカチを差し出されたが、首を振って断った。ただ自分もハンカチさえ持って来ていなかった。

「改めて訊く。どうしてこんな所にいる? もう21時過ぎてる。門限過ぎてるだろ。それにその痣…よく見たら顔も腫れてるな。只事じゃないよな」

それでも嗚咽で何も答えられずにいると、今度は私の肩にそっと手を添え歩き出した。

「恋人を…放っておいてよろしいのでしょうか」
「今そんなことどうだっていい。そもそもそんな相手じゃない。ご安心を」
「…私をどうするおつもりですか」
「家まで送るんだよ。やましいことなんか考えていないから安心しろ。まぁ俺が信用されているのかはわからないけど。流石に女子高生に手を出すつもりはない」
「家は…嫌です。帰りたくないです。帰れません」
「どうして…。あ…」

野島さんは目を見開く。

「お前、まさか、その痣…」

私は首を横に振った。激しく振った。痣に触れて欲しくない。しかし彼は私の手首を引いた。腕、ではなく手首を。

「来い」
「どこへですか。家は嫌です」
「警察だよ」
「警察?」

私は慌てて彼を制止した。

「そんな大袈裟な…。それに警察なんか行ったら…今頃家でも届け出ているかもしれません。そうしたら…家に連れ戻される…そうしたら…」

震えてその先が言えなくなった時。

「おかしいと思ってたんだ、お前の家。そういう事だったのか」
「そういう事とは…、どういう事でしょうか」
「親父か? 母親か? 兄弟はいたんだっけか。いずれにしても家の人間だろ、その痣、やったのは」
「えっ…」

何故家の人がやったと…? 私は何も言っていない…はずだ。

「理由は何だかわからないけど、叩かれるか殴られるかして、家を飛び出した。そんなとこだろ」
「…」
「福永、これは場合によっては立派な虐待だ。家出の捜索願でも出ているのなら、返って都合がいい。とりあえずお前の家の近くまで戻ろう。そこから最寄りの交番だ」
「いや…」

怯える私に、思いがけず野島さんは穏やかな表情と声で「大丈夫」と言い、ポンポンと肩を叩いた。
そしてタクシーを拾うとスポーツセンターの住所を告げた。
この人…冷たい人だと思っていた…なのに。

後部座席で並んで座る。私はひたすら窓の外に目を向けた。隣から控え目な声が飛んでくる。

「俺も子供の頃、似たような経験をしているんだ」

ぎょっとして思わず、彼を見た。

「子供の頃、祖父からよく折檻を受けた。木刀で叩かれたんだよ。剣術の稽古と称していたが、今思えば虐待とは紙一重だったな。でも昔の話、しかもド田舎の片隅だったから、当たり前と言うか、逃げ場もないと言うか」
「…」
「両親は祖父のそういった行為に口は出さなかった。母親は的外れな甘やかし方ばかりして、稽古後の俺を労いはしたが、辞めていいなんて言われた事は一度もない。親父は “家の長男である” というステータスだけが大事で、両親共に俺がどんな事を考えて何を望んでいるかなんて、全く関心がなかった。奴らの理想の長男をでっち上げるのに必死でね。田舎の面倒くさい家というのは本当にくだらない。そんな環境で俺は育った」

呆然と、彼を見つめた。

「どうだ、似てないか? お前と」

正直、驚いた。野島さんにそんな過去があったとは。

「それで…野島さんはどうされたのですか?」
祖父じいさんは中学に上がる前亡くなって、折檻からは解放された。けれど両親は相変わらず。そうそう、剣術なんて二度とやりたくなくて、中学で弓道を始めたのがきっかけだよ。面と向かって戦わなくていいだろう? それで大学に上がる前…それもちょうどお前と同い年の頃だ。俺は家を出て東京に来た」
「家を出た…」
「そうだ。親が行けと命じた大学はわざと落として、勝手に私大に進んだ。勘当同然だ。仕送りは断り、奨学金とバイトでなんとか生活していた。それでも生活は苦しくて、途中でヒモみたいなこともしてたけど。奨学金は今もなお死に物狂いで働きながら絶賛返済中ってわけだ」
「家の方は何とも仰らなかったのですか」
「言ってたよ、色々。全部無視したけど」
「…」
「だからお前も家を出たらいい。高校を卒業すればもう親の力なんて借りずに生きていけるだろ」

家を飛び出した時、私は思った。
あの家に泥を塗ってやる、と。

でも今野島さんの話を聞いて少し冷静になり、急に怖気付いてきた。家を離れて奨学金とバイトで大学生活を送る…相当なお金が掛かるはずだ。家に泥を塗った所で、今の自分にそれが出来るとは思えない。
結局私は、あの家に帰るしかない…鳩以下なのだ。

「野島さんは男性だからそれも出来たのではないでしょうか」
「何だよ、男だの女だの関係あるかよ」
「…ある、と思います」
「ないね」

私は唇を噛んだ。
でも…私はあの家に閉じ込められるのは、やっぱり嫌だった。
山科さんのような奔放さも、東先生や石澤さんのように好きな事をする時間も、あの家にいたら得る事が出来ない。
一体どうしたら…。

「祖母です…」
「えっ?」
「父も母も…見て見ぬ振りです」

膝の上で拳を握る。

「なんだ、マジで似てるじゃないか」
「…でも私は…野島さんのようには生きられません…」

ふぅっと、ため息が聞こえたかと思うと。

「決めつけるなよ。鳥籠を壊せ、福永」
「鳥籠…」

鳩のすむ家。
古ぼけた黒い家に閉じ込められて、時間になったら無機質に出てきて、また引っ込む。そして私の眠りを妨げる。一生、一生…。

「具体的には、どうしたらいいですか。あの家を出たいです。具体的にはまず、何からしたらいいですか。教えてください!」

また涙が溢れてくる。スッと、再びハンカチが差し出された。受け取れずにいると、頬に押し付けられた。
瞼に当てると、さっき嗅いだ、野島さんの匂いがした。

「簡単だ。帰らなければいい。まぁそのためには、別の帰る場所を見つけないといけないけどな」
「そんな場所…私にはないです。野宿、ホームレスになるしかないです」
「まぁまぁ、少し考えたらいいんだ」

やがてタクシーが停車する。いつものスポーツセンターの前だ。私が先に降り、お金を払って野島さんが続く。

私たちはスポーツセンター近くの交番に行ってみたが『パトロール中』の札が下がっていて誰もいなかった。

「不在か…。家はここから、どれくらいだ?」
「本当に行くのですか?」
「とりあえずな。家を出るにしたって多少の荷物は必要だろ」
「一緒にいる所を家の人に見られたら…野島さんも酷い目にあってしまいます」

そう言うとあろう事か彼は「上等じゃないか」とニヤリと笑みを浮かべた。

「彼氏の振りでもしてやろうか」
「そんな事したら2人とも火炙りの刑に処せられます」
「面白いな。今時そんな事するのなら尚更見てみたいね」
「野島さん…おかしいです」
「…そうだよ、俺はおかしい。やっと気付いたか」
「…」

野島さんは再び、穏やかな表情と声で言った。

「大丈夫だから」





#8へつづく












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