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【連載小説】鳩のすむ家 #4 〜"Guilty"シリーズ

〜由珠子


「お祖母様、学校で弓道部に入ろうと思うのですが、入部を許可してください」

翌々日の夕食後、祖母の和室で私は正座し、お願いした。久しぶりの事だ。物心ついてからは何を言っても無駄だと諦めていたから。
祖母の眉がピクリと上がる。

「弓道?」

私は作戦通りに、クラスメイトの山科さんから、進学時に色々有利になるから一緒に始めないかと誘われた、と伝えた。

「どうして3年生からなんて意味のないタイミングで始めようなんて言うのかね、その同級生は」
「クラブは大学生も同じ道場で練習していると聞きます。そういう意味では3年生から始めてもそのまま大学で続けることが出来ます」
「お茶のお稽古があるじゃないの」
「それは金曜日、学校のクラブは水曜日です。続けられます」
「道具はどうするんだい」
「学校でほぼ全て貸してもらえます」
「そうは言っても、学校の成績がこれ以上下がることになってはいけない。お茶は淑女にとって大切な作法が身につくから特別にやらせてるんだよ。弓道までやらなくたって十分だよ」
「東先生の妹さんが弓道をやられているそうで、この前少しお話を聞いたら、とても強い集中力を養うことができるとのことです。だからそれは勉強に活かされるはずです」

しっかりと考えた作戦だ。話すことも紙に書いて練習した。その成果か、割と淀み無く言えた自分を褒めたかった。

祖母は早速、そのクラスメイトに確認を取ると言い出した。東先生とは相手が違う。祖母の知り合いではなく、私のクラスメイトだ。山科さんにある程度伝えたものの、本当にそんなことで電話を掛けてくるなんて非常識な家だと思われてしまう。

「お祖母様、やめててください。迷惑がかかります」
「迷惑なもんか。子ども同士の約束なのだから、本当かどうか確認するのは当たり前のことだよ」

何が当たり前なの。子供と言ったって、幼稚園児のままごとじゃないのよ。いえ、幼稚園児のままごとにすら他人の家族が口出しなんてしないでしょう?

しかし祖母はもう電話台の近くにある名簿を手にしている。

「山科…伊織さんでいいのかい?」

私が黙っていると、祖母は名簿をじっと眺めている。

「この名前…住所…山科さんって、N通信社で代表を務めているあの山科さんのお孫さんかね」

本当に、時の止まった家で暮らす割に、祖母は驚くほど情報ツウ・・だ。
祖母はパタンと名簿を閉じた。

「あの家の子がお前を誘ってくれたのかい…。まぁ…弓道なら別にへんてこなスポーツでもないし、学校でやるのであればおかしな輩がいるわけでもないし…」

呆れた。誘ってきた相手の家柄で良いか悪いか判断するなんて。

「その代わり…成績が少しでも下がるようなら辞めてもらうからね」

…なんと。勝ち取ることが出来た。
やってみるものだ。
もちろん自力ではなく、全て山科さんの知恵と家柄のお陰なのだが。



ただ、新学期の始まる前、それも夜に家を出ることが難しく、年度初めの開催日には行くことが出来なかった。私が初めて弓道教室に顔を出せたのは3週が過ぎた頃だった。

東先生から何となく事情を聞いていると思われた石澤さんは「社会人も多いから、みんな練習に皆勤というわけでもないのよ」と気遣ってくれた。大将は「やっと来たか」と一言だけ。

そして私は桜の彼・・・を探し…見つけた。思いかげず目が合う。
しかし鋭い目で見られたかと思うと、サッと逸らされた。ハッとする間に、稽古前の礼拝が始まる。

特に私は皆の前で紹介されるわけでもなく、大将による練習の流れの説明の後は経験者と初心者に分かれて練習が始まった。石澤さんに声を掛けられ私は彼女に教わるグループに入った。
振り向けば桜の彼は3人の初心者に対し、こちらと同じように引き方の作法のようなもの…それは『射法八節』と言う…を教えていた。最初からいきなり矢をつがえて弓を引けるわけではなく、しばらく…1ヶ月半くらいは形の練習なのだという。

40分ほどそんな練習が続くと号令がかかり、ここからは経験者を中心に実際に的に向かって引く時間だ。私はそれを見学したく、下がって座ろうとしたところ、桜の彼が近寄ってきた。

「お前、随分熱心に "やりたい" とお願いして、無理言って入れてもらっておきながら全然出てこないし、本当にやる気あるのか?」

突然冷たく言い放たれた言葉に戸惑い、声もなく見上げると、石澤さんが駆け寄ってきた。

「ちょっと野島さん。色々事情だってあるんだから、そんな咎めなくても」
「咎めてなんていませんょ。ただ拍子抜けしただけです」

そう言って桜の彼こと野島さんは弓を取ると、さっさと的前に行ってしまった。

「びっくりしたでしょう。彼はこの春から講師も兼ねて参加している人なんだけど、物怖じしないというか、ちょっと言葉に棘がある時があってね…まぁ、口の悪い人っていうのは世の中いるものだから、気にしないでいいのよ。そういう人だから」
「いえ…」

拍子抜け…?
私は彼に、期待されていたとでも?

私だって、1回目から参加したかった。皆と足並み揃えて練習したかった。
悔しい。

私は彼の、あいも変わらず美しい立ちを、唇を噛み締めて睨むように見つめた。


21時までには帰らなければならないため、20時半で練習が終わったら急いで出なければならない。
けれどその日は、残って練習を続けようとしている彼を見ていたら、足が動いた。

「あの」

振り向いた彼の表情は特に意に介すわけでもなく冷淡だった。練習中もずっと仏像のような表情をしたままだし、それに初めて見かけた日も…桜の木を見上げて睨みつけていた…闇の中の悪魔…。普通の顔をしているところを見たことがない。石澤さんの言うように "そういう人" なんだな、と実感する。

けれど私は挫けなかった。妙な “熱さ” が身体を支配しているような気持ちだった。

「私、やる気あります」

彼は一瞬目を見開いたが、またすぐに細められた。

「だから、拍子抜けした、なんて言われて、心外です」

自分でもこんな事を言うなんて思ってもみなかった。
いつも自分の気持ちなんて話せない、聞き役にしか回れない、いるのかいないのかわからない存在の私が。
ましてや若い男性と話をする機会など、人生を通してほぼほぼなかったこの私が。

道場ここに来ると山科さんや、東先生の顔が浮かぶ。私の背中を押してくれるような。それに家族の目の届かない私の『聖域』のような気持ち。だからか。

彼は面食らったような顔をした後、プッと吹き出した。
笑った顔を、初めて見た。

「負けず嫌いなんだな」
「…」

そうなのだろうか。むしろ負けっぱなしで、今まで勝てると思ったことなんて無かった気がする。

「これからはちゃんと来れられるのか?」
「その…つもりです…」

スッと彼が一歩踏み寄った。今まで経験したことのない異性との距離だったから、思わず一歩下がった。

「俺のこと怖がってる?」
「いえ…」
「まぁいい。来週からちゃんと来いよ。上手くなりたいんだったら」

はい、と答える代わりに彼を見上げた。もう冷たい顔はしていなかった。
が、彼の頭越しに見えた壁にかかった時計を見て青ざめた。そんな私の様子を見て彼は振り返る。

「もうすぐ9時だな…って、あれ?」

私は一目散に道場を飛び出した。


***


以降、私はきちんと道場に通った。石澤さんの気遣いは続き、桜の彼…野島さんに教わることはなかった。経験者の立ちの時間になれば彼の引く姿を見て、21時には家に着くようにダッシュして帰る。高校生でもあるしと、片付けは大目に見てもらえた。

弓道は楽しかった。一つ一つの所作を意識すると確かに無心になれる気がした。無理やり習わされているお茶とは、頭の中、身体中に巡るものが全然違うことを知った。
的前に立つようにもなったがなかなか中らず、太鼓のような快音が響くことはなかった。まぐれでも、中らないものなのだ。

道場通いをきっかけに、3年でクラスは離れてしまったものの、山科さんとは益々仲良くなった。彼女は「弓道もいいけれど薙刀もカッコいいわよね。脛を打つ時に "おスネー!" なんて掛け声があるのよ。面白いでしょう? 由珠子さんが弓道なら、私は薙刀を始めようかしら。そうしたらわたくしたち "ブドジョ" ね!」なんて言う。
ブドジョと聞いても字面が何も思い浮かばなかった。

山科さんこそ面白い。

試験前は仕方なく稽古を休んだが、幸い家族には気づかれずに夏が訪れた。
ただ、ここでひとつ問題が発生する。夏休み中はどう通うか、だ。
学校は休み。クラブ活動はあったとしても、わざわざ同じ水曜の夜にだけ行くのは不自然だと、不安になった。

それについても山科さんに相談すると「特別な講師の先生が、その曜日のその時間だけしか学校に来られない、ということにしてはどうかしら?」と提案してきた。うまく騙せるだろうか?


その日の夜、練習開始前の神前礼拝で野島さんの姿がなかった。「お仕事なんじゃない?」と石澤さんは気にもとめていない様子だったが、遅れて現れた彼は顔に湿布や絆創膏を貼っていて驚いた。おばさまたちに囲まれ「あれまぁ、いい男が台無しだよ」「まさか、お酒飲みすぎて喧嘩したんじゃないだろうねぇ」「遼ちゃん、モテそうだからね。派手な痴話喧嘩でもしたんでしょう。気をつけなさい」などとからかわれていた。
りょうちゃん…?

「お嬢、どうしたんだよ、浮かない顔して」

突如、野島さんに話し掛けられた。彼に教わることはなく、せいぜい挨拶くらいしか交わしていなかったから驚いた。
それに "お嬢" なんて呼ぶではないか。

「お嬢って呼ぶの、辞めてください。私には福永由珠子という名前がありますので」

彼は少々面食らったような顔をした。私は少しだけ "してやったり" な気分になる。

「それは失礼、福永由珠子さん」
「フルネームで呼ばなくても結構です。野島さんこそ、どうなさったのですか、その顔」
「ちょっと犬の相手をしてやってね」

意外な答えだった。

「犬、お好きなんですか?」
「別に、好きでも嫌いでもない。犬によるかな。お前…福永は犬飼ってそう。クリクリした小さい犬に服着せたり…もしくは熊くらい大きいの連れて河原を散歩したり」
「飼っていないです。動物は飼ったこと…」

なかった。犬も猫も、飼いたいと言ったところで一蹴されて終わった。家にいるのは時代遅れの、機械仕掛けの鳩だけだ。

「ないんだ、意外」
「どうしてですか」
「お嬢様の家には犬がいるイメージだからな」
「私、お嬢様なんかではありません。誰がそんなことを言ったのですか?」
「福永の家は厳しいから早めに帰らないといけないし、練習に来られない日があると」

そんな話を彼にしたのは石澤さんかもしれない。でもそれだけでお嬢様なんて呼ぶのは彼の過大解釈だ。それも呆れるほど古めかしいステレオタイプで。
…最も古めかしい家なのは合っているから、あながちでもないのか。

「で、話戻すけど、どうしてそんな、今にも死にそうな顔してる?」
「私、死にそうな顔なんてしていません」
「してたよ。じゃなきゃ声なんか掛けないよ」

意外と見られているのだ、と感じた。本当の事を話そうか迷った。ここへは学校のクラブ活動と偽って参加しているのです。そうでもしないと家から出してもらえないからです…なんて言ったら、彼だったら笑うか、バカバカしいと言って相手にしないか、どちらかだろう。やめた。

「…私、これでも高校3年生なので」
「受験の悩みか」
「まあ…そんなところです」

嘘をついた。
何だかこの頃、嘘ばかりついている。

「こんなところで遊んでないでお勉強なさい、とでも言われたか」
「そういう事ではないのですが…まぁ…練習は来づらくなるかもしれないと思っています」
「まぁ頑張れとしか言えないな」
「せめて8月は稽古が夜でなくて、日中であったら良いのになと思います」
「そうか、今は夏休みか。学生は暇だからな。あ、福永はお受験で忙しいのか。俺は土曜日だったら昼間、たまにここで引いてることもあるけど」
「え…そうなのですか」
「たまにね。鍵を借りてさ。何人か引いてることもあるし、俺1人の時もある」

そうなんだ…。
でも野島さんしかいないとなると…。

「来るか?」
「…はい?」
「土曜の昼間、練習しに」

心臓が大きく跳ね上がり、カッと身体の中心で爆発した何かが全身に広がっていくのを感じた。そのすぐ後、額に汗が滲み出す。
こんな身体の反応は初めてだった。

「…え…でも…」
「昼間の方が都合いいんだろ? 基本自主練だから勝手にどうぞと言いたいところだけど…お前初心者だからな。教えてやるよ」

この場合…なんと答えたら…。
野島さんと2人きりになるかもしれない…? そんなこと…もしもバレたら…。
それにこの人とだなんて、正直怖い。

「…それは…結構です。お邪魔することになりますし…」
「あっそ。ならいい」

野島さんはくるりと背を向けた。でも…でも。

「あ…」

私の声に黙って振り向く。怪訝な目つきだ。

「お前、構ってちゃんか」
「…どういう事でしょうか」
「まぁいい。土曜日、俺は午前中だったらほぼいるから。勝手にしろ」






#5へつづく

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