【連載小説】Gone #6
翌朝、10時くらいに野島が迎えに来てくれた。
「家までそんなに遠くないけど、タクシー使うから」
「あたし、歩けるよ」
「体力温存したほうがいいから」
野島は病院の玄関で待機しているタクシーを捕まえた。
「あ、会計って…」
「気にしないでいいよ」
そう言ってそのままさっさと乗り込んでしまったので、慌てて後に続く。
本当に5分くらいで野島のアパートに着いた。タクシーの中では何も話すことが出来なかった。
久しぶりに訪れた野島の部屋は、大量の本はあるもののきちんと片付いていて、2Lのペットボトルの水やお茶が数本置いてあった。
部屋に入るとクーラーを付けた。
「ベッド使っていいよ。あと水分摂るように言われてるから、ちゃんと飲んで」
「うん、ありがと…」
病人とは言え、昨日とは裏腹な野島の態度に嬉しく思いつつ、少し戸惑う。
このままあの別れ話をがなかったことにできそうな、そんな気持ちにさえなった。
あたしは素直にベッドに寝かせてもらい、野島はコップにお茶を汲んでくれた。
「腹減ってない?」
「朝、病院でごはん出たから…大丈夫」
「消化に良さそうなもの買ってあるから、腹減ったら食べていいから」
そう言いながらコンビニの袋をテーブルの上に置いた。
いつの間に用意してくれたんだろう。涙が出そうだった。
「悪いんだけど、俺、ちょっと出ないと行けない。夕方には戻るから、休んでて」
「あ、うん…」
どこに行くの? とは訊けなかった。
「夕方の調子見て大丈夫そうだったら、バスターミナルまで送るよ」
ポキ、っと何かが折れる気がした。
あたしはここにとどまることは出来ないんだ。
昨日のことは、やはり現実なんだ。
「うん…」
「18時前には戻るから…そしたらちょっと話そ。ゆっくり休めよ」
「うん…色々ありがとう」
野島は振り返って、微笑んだ。
だめだよ、そんな笑顔されたら泣いちゃう。
行かないで行かないで…って言いたくなっちゃう。
涙を誤魔化すために、シーツを頭まで被った。
「じゃあ、行ってくるね」
顔は見てないけどアイツの声はあたたかくて、優しかった。
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クーラーの稼働音の向こうで、ミンミン蝉が鳴いている。
野島の部屋の天井を、ずーっと眺めている。古い木造アパートの木目を何かに見立てたり。
以前、見てはいけなかったメッセージカードを見つけた机の上は、きれいに片付いていた。
あの時のあたしを、後悔する。
あのメッセージを見なかったら、あんなことを言わずに済んだかな。
そしたら、今こんな風に過ごすこともなかったかな。
わからない。
あたしがもっと勉強して、親の反対を押し切る強さを持って東京の大学に来ていたら、こんなことにならなかったかな。
それも、わからない。
* * * * * * * * * *
15時近くになって、野島が買ってくれたご飯を食べなかったら、アイツ心配するよなと思い、コンビニの袋をあさってみる。
温めて食べるお粥とかスープが入っていた。
レンジを借りてチンする。
食べようとして、涙がこぼれる。
あたしのためにきっと、昨日の帰りに買い出してくれたんだろう。
そう思うと、泣けてくる。
この部屋にあるもの全てが愛しい。
アイツを感じるものは全部ぜんぶ、愛しい。
こんなに大好きなのに。
終わっていくのかな。
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夕方。玄関で物音がし、アイツが戻ってきた。
「調子はどう?」
体調は悪くなかったが、いいとも、悪いとも返事しずらかった。
「無理しなくていいんだぞ」
「うん…」
野島はテーブルの上のコンビニの袋を見て「ちょっと食べられたみたいだな」と嬉しそうに言った。
「うん、ほんとに色々ありがとう」
「今夜、帰れそうか?」
その問いには答えられなかった。
泣かないように、うつむいて目を閉じた。
「チェリン」
野島はベッドに腰掛け、あたしの頭を撫でた。
「この髪型も髪の色も、悪くないな」
「…」
「…ちゃんと、話さないとな」
話したくない。あたしにとっては、いい話じゃないことはわかっていた。
うつむいて黙ったままでいたから、野島も察したんだろう。こう話しだした。
「俺ね、チェリンのこと大好きなままなんだよ。高校の時から今まで、それはずっと変わることはなかった。確かに最近は前ほど連絡取り合ったり、会う機会も少なくなったけど、チェリンのこと飽きたとか嫌いになったわけじゃない。俺の気持ちはずーっと変わらないんだ。会えなくても、声が聞けなくても、チェリンの存在が俺に自信を与えてくれるし、常に愛しさで満たされていたんだ。だからこそ俺は、今すべきことを優先することが出来た」
「…」
「でもチェリンは違う」
野島の表情は厳しくなった。
「求めるものが違う。俺はチェリンに相応しくない。俺は身勝手だから、チェリンの望みを叶えられない。だから、チェリンは別の人を選んだ方がいい」
「どうして? 好きなら一緒にいようよ。あたしワガママ言わないように我慢するから」
「俺に合わせて無理するなんておかしい。我慢して付き合うなんて、絶対うまく行かなくなる。好きなだけじゃだめなこともあるんだ」
「わかんないよ。どうして同じ気持ちなのに一緒にいられないの? やっぱり距離のせい? あたしが東京出てきたら解決する?」
野島は黙って首を横に振った。
「きっとまた同じことを繰り返す。チェリンは辛い思いする。俺じゃだめなんだ。もっといいやつが絶対いるから」
「いない! 野島よりいいやつなんて一生出て来ない! 他のやつなんか好きになれない、なりたくない!」
あたしは大声で泣き喚く。
それでも野島は困った顔をしたまま、態度を変えることはなかった。
「そんなに新しい彼女が好き? あたしなんか足元にも及ばない? 新しい彼女はこんなワガママ言ったり泣き喚いたりしない、いい子なのかな」
「チェリン、それは違うよ」
強い口調とは裏腹に穏やかな表情で言った。
「彼女…Linaって言うんだけど。ドイツと日本のハーフで。彼女、俺がどれくらいチェリンのこと好きか、知ってるんだ」
「え…?」
「それでも彼女、全然挫けないっていうか気にしないっていうか、あっちの血が入ってると強いのかなって思ったりしたんだけど」
「…」
「チェリンより好きかって訊かれたら、正直わからない。チェリンに対して抱いている気持ちは彼女にはない。ただ…」
「ただ…?」
「彼女と俺は同じ方を向いてる。目指すものがお互いの刺激になっている。だからなるべく一緒にいたいと思ってるんだ」
あたしは大きなため息を一つ、ついた。
「こういう身勝手な俺だから、大事な大事なチェリンは、俺のものになっちゃいけない。チェリンはこの先、絶対苦しむ。俺はチェリンの理想通りには、生きていけない」
ひっく。
もう涙も流しきって、嗚咽ばかり出てくる。
「わかった…。あたし…帰る。今夜のバスで、帰る」
「チェリン…」
携帯を取り出し、時間と予約状況を調べ出すと、野島は「無理しなくていいよ。身体が万全でないなら、まだ休んでいっていいから」と言った。
おかしいよ。
今さらそんな言葉かけるなんて。
やっぱり野島の言う通り、このまま付き合っていたら、あたしは野島に振り回されて、ボロボロになっちゃうかもしれない。
そう、思い込もうとした。
「22:25のバスがある」
「チェリン…」
「ここから一人で行くから。送ってくれなくていいから」
起き上がって荷物をまとめようとしたけれど、目が回ったように頭がふわふわして、立ちくらんだ。
「ほんとに無理しないで」
「寝過ぎただけ。大丈夫だから」
それでも立ち上がろうとするあたしを、野島は抱きしめた。
「ねぇ…ずるくない? そんなことするの…ずるいよ」
そこであたしはハッとした。
野島の身体が、震えていた。
「俺もつらい。こんなにチェリンのこと好きなのに…でもだめなんだ…」
野島も、泣いていた。
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最終話へ続く