【連載】運命の扉 宿命の旋律 #11
Duo - 二重奏 -
"じゃあ、また明日な“
稜央の言葉を何度も頭の中で反芻し、ぼんやりしてしまう。
補講4日目にしてもあまり意味がないように感じた。
終わってすぐに走って音楽室へ向かう。
上がる息を抑え、音楽室のドアを開ける。
聴こえてきたのは昨日と同じ、ショパンの『幻想即興曲』だった。
稜央は萌花をチラリと見やったが、構わず弾き続けた。
萌花は後ろの方にあった椅子を引っ張ってきて、少し離れた場所に置いて座った。
今日は初めてじっくりと、それこそ腰を据えて稜央がピアノを弾く姿を見た。
昨日と同じく、黒いシャツを着ている。
譜面はない。暗譜しているのだ。
細くて長い指が軽やかに鍵盤の上を滑る。
力強く叩く時には揺れる前髪が美しかった。
始終目を閉じて弾いているが、時折顔を上げて、眉間に皺を寄せながらも恍惚とした表情を浮かべるのを見てゾクゾクした。
恐ろしいほどの魅力だった。
曲が終わった時に萌花が小さく拍手をすると、稜央は顔を背けた。照れているのかもしれない。
稜央は骨伝導のイヤホンを頭に着けるとグリーグの『ピアノ協奏曲イ短調Op.16』を弾き始める。
あ、と萌花は小さく声を挙げた。
どうして今、この曲を弾いているのだろう、と。
だってこの曲は、まさに萌花が "今ここにいる" きっかけとなった曲だから。
大胆なイントロ部分を弾く姿を間近で初めて見たが、やはり鳥肌が立ってしまった。
目を閉じて弾くのは、きっと頭の中で譜面が流れているせいだろう。
二日続けて彼の弾くピアノを聴いて、どの曲にも共通した透明感があり、清々しささえ感じた。
広大に暖かく広がるかと思えば、剣山のように鋭くなる時もある。素人の萌花にも、その表現力は充分に伝わった。
そして曲のエンディングの、稲妻のような激しさと雄大さを兼ね備えた音色を響かせる稜央のテクニックに舌を巻いた。
言葉もなく小さく拍手を送る萌花に、稜央はしばしピアノ前で放心していた。
「川嶋くん…本当にピアノ上手なんだね…。小さい頃から習ってるの?」
「ピアノのレッスンに通っていたのか、という意味だったら、通ったことはない」
「えっ…じゃあ…どうやってそこまで?」
「俺の家は金が無いからピアノなんて習わせてもらえなかった」
「…」
「だいたい耳コピだ。後は小学校の音楽室で弾かせてもらってた。そこで音楽の先生が少し教えてくれた」
「そう…だったんだ」
稜央はピアノの前から離れず、うつむき加減のままポツポツと話した。
「川嶋くんは一番好きなものはピアノなの?」
「一番好きなもの…? そういうの意識したことない」
「…」
何となくキャッチボールが出来ていないもどかしさがあった。
萌花が何を言ったら良いか迷っていると、稜央から切り出してきた。やはり視線は鍵盤の上に置かれたままだったが。
「川越は中学の時に音楽鑑賞クラブに入ってたって言ってたっけ。そこではどんなもの聴いてたの」
いつかそんな話を一方的にしたかな、という記憶がうっすらあるだけで、まさかそれを稜央が憶えているとは思わなかった。
「クラシック。有名なやつばかり。教科書に載っているようなやつ。たまにピアノ好きな子が自分でCD持ってきて、ショパンとかリストとか流してた。あ、川嶋くんがよく弾いているグリーグのピアノ協奏曲も、そこで聴いたの」
稜央はふーん、と関心があるともないとも言えない返事をした。
「川嶋くんはよくグリーグ弾いてるよね。どうしてそれを選んでよく弾いているの? 初めてここで川嶋くんを見かけた時もその曲弾いてたから」
「俺の内側に共鳴したんだ、あの曲は」
萌花はその言葉に感動した。
彼の内側に共鳴したものがあの曲なのか、と。
「他にはどんな曲を…?」
「子供の頃からバッハは好きだ。やはり音楽の神だけある。気持ちを整えたい時は必ず弾く。ショパンだったらさっきの『幻想即興曲』や『スケルツォ第2番』とか」
「難しい曲ばかりね…マイナーコードも多いんだね」
「根暗だからな、俺」
そう言って自嘲気味に笑った。
萌花は慌てて否定するが、稜央は既に無表情に戻っていた。
「今でも学校でしか弾かないの? ピアノ」
「母親が小学校6年生の時に買ってくれた電子ピアノがあるから家ではそれを弾く。でもグランドピアノには敵わない」
「今は独学ってこと?」
「たまに小学校に行って先生と話したり教えてもらったりしてる。あ、俺がここの高校選んだのはただ家から近かったから、だから小学校にも寄りやすいから」
家から近いという理由だけで、県内随一の進学校に来られるものなのだろうか?
レベルがあまりにも違うすぎる人なんだということを実感した。
「すごいな川嶋くん。本当にめちゃくちゃ頭がいいんだ…。ピアノも上手だし…神様は才能を与えるのが不平等だな、私なんて…」
そう言いかけたところで、稜央は急に萌花を真っ直ぐに見つめて言った。
「私なんてとか、落ちこぼれだからとか、邪魔者だよねとか、そういう風に自分を卑下する言い方、やめたほうがいいよ」
萌花は驚いた。
プツっと風船に針を刺したように、涙が溢れ出した。
「…男の前で泣くのも、やめた方がいいと思うけど」
それでも萌花は涙が止まらず、両手で顔を覆いながら、ごめん、ごめんなさいと謝った。
稜央はため息をついてピアノから離れ、萌花の腕を摑んだ。
「行こう」
そのまま萌花の腕を引いて音楽室を出た。
萌花は驚きのあまりに声も出なかった。
#12へつづく