【連載小説】あなたに出逢いたかった #38
「えっ…」
ハンドルを握る手のひらが汗でじんわりと湿っていった。梨沙はすがるような目で稜央を見つめている。
「わかってます。私が女子高生で稜央さんとは歳が離れていますし、まだたった3回会っただけで私が一方的だってこと。でも…」
「…でも、なに」
梨沙は小さくため息をついてから、言った。
「今までずっと好きだった人がいたって言いましたよね。その人とは絶対に報われないとも。今まで他の男の人なんて全然目に入ってこなかったのに、稜央さんだけは違ったんです。このところお話してきて、あんなに私のこと否定しないで受け入れてくれる人も、今までほとんどいなかったんです」
「その好きだった人って…前に話していた『籠』の人?」
梨沙は黙って頷いた。稜央はゴクリと唾を飲み込む。
「正直に言います。『籠』の人って…」
「梨沙ちゃん」
稜央は梨沙の言葉を遮った。
「僕自身も梨沙ちゃんを大切にしたいと思っている。でも」
梨沙はハッとして稜央の顔を見つめた。
「でも…?」
「そこにはなんと言うか…肉体の匂いがしないと言うか…精神的な繋がりであることを求めているんだ。わかりやすく言えば僕は梨沙ちゃんのことを妹のように思っている。梨沙ちゃんは若すぎるし…いや、大人になったら変わるかって言うとそうではないんだけど…」
「稜央さん」
「僕は悩む君に対して手を差し伸べたかもしれないけど、そういう意味では君に指一本触れるつもりはないんだ」
梨沙の顔が歪んだ時、彼女の手にあったスマホが鳴った。そして画面を見るなり唇を噛み締めた。
「…電話、出なよ」
梨沙は恐る恐る通話をタップする。漏れ聞こえる声に稜央は耳を塞ぎたくなる。
うん、と小さく返事をして梨沙は電話を切った。
「…お父さん?」
「はい、あと10分で戻ってこいって。駅の改札で待ってるからって」
あと10分。車だから間に合うものの、駅前に付ける事はできない。そう思いながら稜央はエンジンをかけ、右折を繰り返して商店街まで戻った。その間2人は無言だった。
「ここでいい? 駅まではちょっと…」
そう言って稜央はドーナツ屋の少し手前で車を停めた。
「僕は酷いやつだよな」
前を向いたまま鋭い目で吐き捨てるように言った稜央を、梨沙は驚いて見つめた。
「どうしてですか」
「君に気を持たせるようなことして」
「…それって…」
もうお終いだよってことを言ってますか。
けれど梨沙は言えなかった。
「早く行かないと。怒られるんでしょ、パパに」
名残惜しそうな顔をしたまま梨沙は車を降り、ドアを閉めようとしたところで
「梨沙ちゃん」
稜央がやはり前を向いたまま、呼び止める。
「僕は卑怯だ。でも…放っておけなかったのも事実だ。僕自身どうしたらいいのかわからない」
梨沙は唇を噛み締め、バンっと力強くドアを閉めると駅へ向かって走り去った。
深い息を吐きながら稜央はシートにもたれ込んだ。
*
"僕は梨沙ちゃんのことを妹のように思ってる。"
皮肉なことに、それは言葉の通りだ。
梨沙は、ずっと好きな人がいたけれど、その人とは報われない、と言った。
その人に対する想いは激情的だ。そう、いたずらをされてボロボロにされてもいいと思うほど、危険な想い。
いけないことだと教えられた。だから抜け出さなければならなかった。それで稜央に助けを求め、稜央は衝動的に手を差し伸べた。父とその娘、2人への関心、そして、実の妹としての関心…。
けれど稜央が余計なことをしたせいで『籠』から出ようとした梨沙を、前にも進めない、後にも戻れない袋小路へ追いやった。
結局梨沙は、窒息して息絶えるのか。
そして、卑怯者の自分も…。
やっぱり俺は、あなたの息子ですよね。あまりにも皮肉なほど。
*
明るく白い空から雪が再びチラつき始めた。梨沙は小走りで駅に向かう。
遼太郎は長い弓を手にし、駅の外に出てくる所だった。
「…どうした。顔色が悪いぞ。何かあったか?」
梨沙は何も答えず俯いた。
「梨沙」
「何もない。友達と会えて良かった」
硬い表情のままの梨沙に遼太郎は訝しみながら、ドーナツ屋の方を見やった。
梨沙があの店に滞在していない事を知っている。彼のスマホは娘の位置情報を捉えることが出来るからだ。
けれどそれについてはおくびにも出さず言った。
「懐かしいな。あのドーナツ屋、俺もよく行ってたんだ。部活の帰りとか買い食いしたんだよ」
ハッとし梨沙は遼太郎を見上げた。
「そうなの?」
「梨沙は何を食べた?」
突然訊かれしどろもどろになったが、夏に買った事を思い出し「キャラメル…かかったやつ」と答えると、遼太郎は目を細めた。
脳裏に、桜子が頬いっぱいにしてドーナツを頬張る姿が映し出される。
そんなことまで鮮明に思い出すのか、と遼太郎は愕然とした。
しかし思い出はもう葬った。昨夜。
燃え尽きた灰は土に還る。
遼太郎は「じゃあ行くぞ」と声を掛け、駅舎に入ろうとする前に空を見上げて言った。
「また降って来たな。酷くならなきゃいいが」
梨沙は俯いたまま口を利かなかった。
***
東京に戻ってからも、稜央とのやり取りは途絶えたままだった。
『君には指一本触れるつもりはないんだ』
それは梨沙がいつも康佑に使っていた言葉。そう…肉体の匂いを遠ざけるために、心も突き放すために使っていた言葉。
康佑のことを思い出す。彼からもまた、新年の挨拶メッセージが届いていたが、スルーしていた。
私は彼を弄んだも同じ。それでも彼は協力的だった。こんな自分のために一生懸命一緒になって稜央を探してくれた。ワガママな自分から離れていく人はこれまでたくさんたくさんいたのに。
自分も、どんなことがっても稜央に食い下がりたい、という思いがあった。つまりそれは、康佑と同じことなのだ。決して振り向くことなんかないというのに。
どうしてこうもうまく行かないのだろう。
康佑だって相手が自分ではなかったら、絶対いい彼氏になっていたはず。その彼女は、幸せ者のはず。
精神的な繋がりとは何だろう。
梨沙はまだ稚すぎて肉体の繋がりも知らないのに、それを超えた世界なぞ知る由もない。好きな人とは誰よりも近くにいて、寄り添って、隙間もないほどくっつく。それが幸せだと思っていた。
精神的な繋がり、そんなものが満たされるのかどうかなんて想像も付かなかった。
以前遼太郎にも『身体さえ繋がればいいのか』と問われたことがある。わからない。未だ何も知っていない、始まってもいないのに、終わっていくことばかりだ。
康佑にそう返信したが、すぐに既読は付かない。
梨沙はすっかり自信を失くしていた。
***
冬休みも明けた昼下がり、メッセージを着信した。ドイツ旅行から帰って来たという陽菜からだった。気まずい思いにかられる。
それは良かったです、と素っ気ない返信をした後、思い直してすぐに『写真は無いんですか?』と追加で送った。
やがて陽菜から数枚の写真が送られてくる。ノイシュバンシュタイン城、ケルンのクリスマスマーケット…。
はしゃぐ女性2人の姿が写っている写真があった。これが陽菜と母親なのだろう。2人共黒いロングコートを着てニット帽を被り、寒いためか更に顔の半分をニットのマフラーで覆っているが、まるで仲の良い姉妹のようだった。
稜央が陽菜より10歳上なのだから、相当若いお母さんなんだな、と思い尋ねた。
56歳…遼太郎と同い年である。そうだ、以前父の歳を訊かれてそのままにしていた。
同じ地元、同い年。どこかですれ違っているかもしれない。もしかして同級生だったりして。
そういえば…稜央や陽菜の苗字を聞いていなかった。
いや…横浜のイベントで稜央は側にいた友人に名前を呼ばれていた。
確か…確か…何て呼ばれていたっけ…。
あの時は色々動揺していて流してしまったけれど、何か引っかかった気がする…。
#39へつづく