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【短編】闇の彼方へ

幼少期

「立ちなさい、遼太郎!」

道場に怒号が響く。

倒れているのはまだほんの子供だ。面で見えないがその顔は真っ赤で今にも泣き出しそうである。

祖父は軍人から警察官になった経緯もあってか武術に精通しており、孫の遼太郎が3歳になるやいなや、こうして近所の道場でほぼ毎日稽古をつけていた。

日常の言葉遣い、姿勢に至るまで厳しい躾を施した。
家の中では絶対に敬語を使わなければならない。来客はもちろん祖父、親戚、両親にまでも。

遼太郎の生家は西日本の片田舎にあった。
広い敷地に大きな日本家屋と庭があり、地元では名の知れた家である。
県庁所在地のある街からはバスで少々離れており、冬は時折膝まで雪が積もるほどの豪雪地帯でもある。

そんな凍てつく真冬でも祖父は容赦なく剣の稽古をつけたので、遼太郎は本当に嫌だった。

まだ小学校に上る前だった。保育園にも、幼稚園にも通わない完全家庭内保育で育つ。


「遼太郎~!」

フラフラになって家に帰ると、母親が甘い声を出して頭や顔を撫で、抱き締めてくる。

「いい子ねぇ、今日も頑張ったわねぇ。お風呂に入って汗を流して、ご飯にしましょうねぇ」

母は義父が厳しく躾をする代わりなのか否か、やや過度な愛情表現があった。
遼太郎はおそらく化粧品であろう、母親の身体から漂う独特の匂いが大嫌いだった。だからいつも顔を背ける。

道着を玄関先で脱いで、風呂の支度のために2階東南角部屋の自分の部屋に駆け上がる。

窓の下は庭で、通りを挟んだ向こうには民家の合間に小さな田畑がポツポツと点在する、のんびりとした景色が広がっていた。

そんな景色に、家の中は全くそぐわない。

祖父は勉強にもうるさかった。文武両道でなければ野島家の長男として失格だという。それが家の伝統と言えるかどうか疑問だ。父の武術の程度など知らなかったからだ。

食事の後はきちんと机に向かって勉強をしているか、それを祖父の眼の前で行わなければならない。勉強机は座卓で、常に正座して勉強することを強いられていた。
小学校入学時から成績は常にトップでなければならない、と言い聞かせられる。

祖父も母も、それぞれが独立して遼太郎に過剰な関わり方をする。

父はというと、祖父がいる間はあまり存在感がなかった。
そもそも仕事が忙しいのか否か、帰りはいつも遅く、休日は書斎に籠りがちで、ほとんど関わりがない。
まるで自分に関心がないのか、と疑う。父親なのに。

誰も遼太郎の話を聞いてはくれない。
誰もフォローなんてしてくれない。

野島遼太郎はこのような非常に窮屈な家で生まれ育った。


小学校に上がると当然ながら成績は常にトップクラスだった。

学校では初めての集団生活を経験する。
子供同士の距離感がよくわからず、当初はなかなか友だちができなかった。

家でも敬語が必須の遼太郎は学校でも堅苦しい言葉遣いだったのも、友達が出来ない原因の一端だった。

『野島、なに大人振ってるんだよ』
『僕たちのことバカにしてるのか?』

そんな風に囃し立てる。頭の良い遼太郎は言い返すが、その言い方が同級生には通じない。

『やーい、ガリ勉野郎ー』
『お前となんか遊べねぇよー』

真面目で近寄りがたい…そんな印象を与えた。

* * *

「野島くんはきちんとした言葉を使ってえらいのね」

1年生の担任は年配の女性だった。遼太郎の "子供らしくない言葉遣い" が気になっていたが、あの・・野島の家の子であると知って少々納得した。頑固爺さんがいる事では少々有名だったのだ。

「野島くんの言葉遣い、決して間違っているわけじゃないんだけど、お友達同士では普通にしゃべっていいのよ」
「普通ってどういうことでしょうか」

背筋を真っ直ぐに伸ばし直立不動の姿勢を取っている。まるで軍隊のようである。
彼にとっては今の自分が『普通』なのだ。

「野島くん、クラスのお友達が自分と話し方が違うのは、わかるでしょう?」
「わかります…」
「野島くんのお家では、確かに正しいことを教えてくれているのだけど、学校のお友達同士ではみんなと同じようにおしゃべりしていいのよ」
「それだと…怒られます」
「学校では怒らないわよ。そうだ、先生の前ではお家と同じように話して、お友達同士ではみんなと同じように話す。使い分けられたら、すごいと思うな~」

遼太郎の目線に合わせて膝を落とし、先生は微笑みかけた。遼太郎は俯き、拳を握りしめている。
年配の女性は母親を連想させて、軽い嫌悪感と妙な緊張を憶えた。

それに教師の言葉通りに大声を出して笑ったり騒いだり、はしゃいだりしていることがバレたら祖父に怒られそうだった。張り倒されると思った。
いつもどこかで祖父が自分を監視しているのではないかと思った。

「僕もう帰らないと…稽古に遅れると怒られます」

そう言って遼太郎は駆け足で去ってしまった。

けれども遼太郎は学校内の様子まで逐一祖父が監視している若くではないと悟ると、比較的すぐに家と教師、友達同士での言葉遣いや態度を柔軟に変えることを習得する。
子供というのは単純で、きっかけがあれば手のひらを返すように態度を変える。

本当の意味で頭の良い子なんだな、と担任教師は思ったが、極端な家庭環境が彼へ及ぼす影響を恐れていた。


小学生ながらも整った顔立ちの遼太郎は、一度クラスメイトに受け入れられれば頭は良いし潔いし、姿勢も美しく弁も立ったので女子からは人気者になり、一部の男子は妬みもしたが、一目置かれる存在となった。

学校は楽しい、居心地がいい。
家は窮屈、息が詰まる。

みんなと話すうちに、自分の家がいかに風変わりなのかを知り、嫌気が差した。ゲームや友達同士で秘密基地を作ったなどの話をする友達が心底羨ましかった。そんな遊びに加わって帰りが遅くなった時は、祖父から木刀で "折檻" を受けた。
そしてそれを父も母も黙って見過ごす。

「どうして俺はあんな家に生まれたんだ…」

遼太郎が一生抱えることになるこの思いは、こうして生まれた。



弟隆次の誕生

遼太郎が4年生の時に弟が生まれる。それが隆次だ。
実に10も離れていることになる。

遼太郎もこれで少しは家族の関心が自分から削がれるのではないかと期待をしたのだが、まだ生まれたばかりなので剣の稽古をさせられるわけもなく、祖父の厳しい躾は続いた。
むしろより一層 “長男として” 堂々とすべしと、より厳しくなったくらいだ。

母は当時としてはやや高齢の出産だったため、生まれて間もなくベビーシッターを雇った。自身は働きに行くわけでもないのに、である。

そして母は隆次に対してとんでもないことを言った。

「なんだかこの子、かわいくない。あやしても笑わないし、目も合わさない」

そういって最低限以外のことは全てベビーシッターに任せ、相変わらず遼太郎にべったりだった。

さすがにおかしいと遼太郎は思う。

剣友会に、自分のことをよく面倒見てくれる大学生がいた。彼にそのことを相談する。

「遼太郎、お前がやらなきゃいけないことは2つ。1つはお前がマザコンにならないこと」
「マザコンって何ですか?」
「マザー・コンプレックスの略だよ。母ちゃんが一番、母ちゃんがいないと生きていけない、母ちゃん大好き、って状態だよ」
「それ、僕じゃなくて母の方だと思うんですけど」
「うん、だからお前はそうなるなよ。母ちゃんが子供離れ出来なくて悲惨になるケースもあるからな。あと1つ。お前が弟を可愛がって守ってやること」
「僕が?」
「お前以外に誰が居るんだよ。たった一人のお兄ちゃんだろ。父ちゃんも母ちゃんも弟にあんま構わないんだろ? だったらお前がやれよって話だから。お前もすぐ大人になるんだから」

その大学生は、遼太郎の家の事情を多少聞きかじっていた。遼太郎が幼い頃からどんな躾を受けてきたのかを。

「家では教わってこなかったことを弟に教えてやれ。お前が経験してきた嫌なことや辛いことは弟にさせちゃいけない」

遼太郎は大学生を見上げた。自分は誰も助けてくれなかったのに。

弟はずるい。そう思った。
全てが陰気で、憂鬱だった。


遼太郎が小学校6年の時に祖父が亡くなった。
心の中で万歳、と叫んだ。
もうこれで剣の稽古をしなくて済む、木刀で叩かれなくて済む、と。

遼太郎は剣がどうしても好きになれなかった。竹刀の叩き合う乾いた音が苦手でもあった。道着も重いし、汗臭い。
そして祖父に叱られる時は木刀で容赦なく叩かれた。
刀はちょっとしたトラウマだ。

剣がずっと好きになれずにいた中、TVで観た弓道に憧れた。
同じ袴を身につける武道でも弓道は静かで、重たい面や胴を着けなくて済む。
弓を引くゆったりと、かつ堂々とした動きが良いなと思った。
何より、痛めつけられずに済むと思った。

入学予定の中学校に弓道部があることを知ると、念のため父親に相談したところ、あっさりと了承してくれた。
祖父のいなくなった今、武道に関してこだわりなど父にはないようだ。
とにかく成績は常にトップを守って、東大にでも進んで官僚に、自分のように政治の道に進んでくれれば良いと告げた。

遼太郎は思う。
親父は祖父の受け売り。父親のくせに何も出来ない。何も教えてくれない。何も与えない。
ただ『伝統』という体裁を守るためのオウムだ、と。

こんな男に絶対になるもんか、と思う。


一方、弟の隆次は2歳になっても言葉をあまり発することがなく、呼びかけても反応を見せないので、母はよく癇癪を起こしていた。
ベタベタに接する自分への態度とあまりにも違うことに遼太郎はショックを憶えたが、それが反動ともなった。

いつか剣友会で大学生に言われた言葉を再度思い出す。

『お前が経験してきた嫌なことや辛いことは弟にさせちゃいけない』

隆次は声に出せないだけなのではないか。
助けを求めたくても、表すことが出来ないのではないか。

あの頃と自分と重なり、胸が苦しくなった。祖父はもういないのに。
俺がもう一人いてもどうしようもない。
俺が隆次の心を開放してやるのだ。

そして俺で止めるのだ。この家のくだらないしきたりを。


そうして入った中学ですぐに弓道部の門を叩き、遼太郎はのめり込んでいった。

無心になること。
これまでに経験したことのない静寂。
竹刀のぶつかり合う弾けた音と違い、矢が的を射る音は短く乾いていて、爽快だ。

全てが遼太郎にとって心地良かった。

まだ的前に立つことは出来ないが、早く上手くなって早く的前に立ちたいと思い、猛練習した。
だから家の庭でちょっとした練習が出来るようにと両親に頼んで巻藁を設置してもらい、休日に家で巻藁矢を打ったり素引きに勤しんだ。練習時には全身鏡も置いて、射形のチェックも欠かさない。

武術は形でもある。美しくあるべきだ。
祖父は厳しかったが、父と違って教えてくれたこともたくさんある。
弓道の美しさにも惚れた遼太郎は、その射形にもこだわりを持った。

3歳になった隆次は遼太郎のそばに来るようになり、縁側でよくそんな練習姿を眺めたていた。
その手元ではよく数字のパズルを解いていた。隆次は幼い頃から数字に強い関心を持ち、後に年齢相応を超える能力を発揮していくこととなる。

そんな隆次の『才能』を最初に見極めたのも両親ではなく、遼太郎だった。



中学時代

家に対する嫌悪に反して、遼太郎は中学に上がっても成績優秀をキープし、両親を満足させた。
でもそれは決して両親のためなんかではない。

後に「よくグレなかったな」とよく冗談を言われた。

グレたら何かと親の世話になる可能性がある。
そんなのはごめんだ。

俺は自分の力で自由になるんだ。何も言わせるつもりはない。
その為には備えなくてはならないことがある。心身は比較的鍛えられてきた。
あとは頭だ。誰にも頼らず、自分で判断し責任を取る力を付けるんだ。

それで俺は自由になるんだ。
誰も俺を縛れないように。

高校受験からその先の将来を考え始めた時、遼太郎はそう固く心に誓ったのだ。

中学はひたすら勉強と部活、ただそれだけ。
そのため目立つような生徒ではなかった。ガリ勉。よく言えば硬派。
その実は目的達成のための余計な感情の排除とも言えた。

真っ直ぐで芯のある瞳を持つ端正な顔立ちは益々美しくなったが、取り付く島を与えない遼太郎に、蔭で涙する女子生徒もいた。


中学3年、10月に行われた体育祭。

間もなく受験を控えるため、来月の文化祭と共に3年生の最後の大きなイベントであった。だからクラスの団結力は高まり、盛り上がりを見せていた。

けれど遼太郎は本気を出さなかった。惰性での参加。頑張るのは今じゃない、と。
部活対抗リレーでも本当は選手に選ばれたのだが、遼太郎は辞退した。
観覧席でぼんやりと、いろんな部活が走るのを観ていた。文化系の部活は滑稽だと思いながら。

だって茶道部なんか、ヤカン持って走らされるんだぜ。せめて茶筅くらいにしてやればいいのに、どういう嫌がらせなんだよ。

その中で目に止まった女子生徒がいた。

「あれ、あの子は…」

それは陸上部の子だった。陸上部はもともとハンデが課せられ、かなり後のスタートラインから走るのだが、その女子生徒は恐ろしい速さで追い上げた。
腰まで伸びているかという長い髪をポニーテールにして、本当に馬の尻尾のように軽やかに風になびかせ、疾走していた。

彼女を見かけたことがある。
夏休み、夜遅くまで学校の弓道場で練習をしていた時だった。

全身ずぶ濡れの女の子が2人、真っ暗な校庭を横切っていた。
ぎょっとした。

しかしそのうちの1人が「野島くん」と声を挙げる。クラスメイトの佐藤三香だった。

『しーっ。内緒ね!』

佐藤三香はそう言って、一緒にずぶ濡れになっていた女の子と笑いながら校門の外へ走り去った。

その佐藤三香の隣にいた子だ。

「あいつ脚、速ぇんだな…」

何だってあの日はホラーかと思うようないでたちだったのだろうと思ったが、夏休み中のことだから次の日にはすっかり忘れ、今の今まで思い出すこともなかった(後で佐藤三香に訊いたところ、プールに忍び込んで遊んでいたとの事だった。水着もなしに…?)。

しかもリレーのその場面ですら結局その時だけで、体育祭の翌日にはやはりすっかり忘れてしまうのだが、その彼女が後の遼太郎の人生に大きな影を落とすことになるとは、夢にも思わなかった。



高校時代、隆次との交流と初恋、進路

高校は県内随一の進学校に進む。ここまでは親の描いたレール通りと言える。
ここまで来れば、あとは自力でやっていける。高校を出ればもう子供じゃない。親の力なんか頼らず生きていける。
あと少しの辛抱だ、と遼太郎は自分に言い聞かせた。

隆次も来年小学校へ上がるまでになった。
遼太郎の時は完全家庭内保育だったが、隆次は保育園に入れられていた。そのために母は "なんちゃってパート" に出ていた。

遼太郎と違って集団生活を培う場があったはずだが、隆次は保育士の手をよく焼いた。一緒に歌をうたうことも絵を描くことも、おもちゃで遊ぶこともしない。たまに園児と遊んでいるかと思えばすぐに喧嘩になり、相手が大声で泣き出してしまう。

『隆次くんは問題児です』

そんな風に言われた母はプライドが傷つけられ激怒した。それをまた隆次にぶつけるのだから、たちが悪い。
親はバカだなと遼太郎は思う。自分が同じ腹で産んだ子供に対してこの態度の違い。
父の無関心。
なんて狂った家なんだ、と。

遼太郎はいつも隆次の自分の部屋にかくまうようになる。
そこで隆次の数学の才能にも気づく事となる。

バレンタインの時は学校で大量に貰ってきたチョコレートを隆次と山分けした。隆次は普段お菓子に興味を示さなかったが、遼太郎の持ってきたチョコレートは少しづつかじった。

「旨いか?」

遼太郎が訊いても、ちっとも美味しそうな顔なんてせずに黙々とチョコをかじる隆次。

それでも遼太郎は笑顔を浮かべて隆次の頭をそっと撫でる。
幼い頃は触れようとすると極端に避けたのだが、もう大人しく撫でられるようになった。

こうして隆次の頭を撫でるのは家族では遼太郎だけである。

家では弟思い。

高校では、片思い。


入学式で見かけた桜色の髪の子…あの子は紛れもない同じ中学から来た、あの体育祭でポニーテールをなびかせて走っていた…あの夏休みの夜ずぶ濡れで校庭を横切って、笑って走り去った…川嶋桜子だった。

『何だあいつ…今度は金髪かよ…』

きれいにブリーチし桜色に染めた髪に度肝を抜かれたが、改めて見ると非常に細くて長い手脚をしていて、さらさらと髪をなびかせさっそうと歩く姿に…一目惚れをしたのだった。

その桜子がまさか、弓道部に入ってくる。
向こうも同じ中学出身だと、どうやら遼太郎のことを知っているようだった。

普段はどこかつまらなそうに、不満を抱えているかのようにちょっと愛想なくスカしているイメージなのだが、話をすると明るくて元気で、笑うと頬が丸く盛り上がり、非常に愛らしかった。

初めて抱く想いに、どうしたら良いかわからない。
小学生の頃からあれだけ女子から人気があったのに、相手にしてこなかった。そして肝心の桜子は自分にはあまり関心がないようだった。

遼太郎に近づくそれまでの女子たちとは違って、桜子は少々男勝りで言葉遣いも荒かった。幼少の頃から家が厳しかった遼太郎にとってはそれも度肝を抜かれたが…。

それは新鮮でもあった。自分の中に新しい風が吹くのを感じたのだ。

同じ弓道部員としては対等に話が出来ることが嬉しかった。女の子と付き合ったことのない遼太郎は、好きだなんて言ってこの関係が崩れるのも恐れた。

そして、自分の中で膨れていく気持ちを正しく発散させることが出来なかった。

だから全く違う環境へ、今いる世界と完全に切り離した世界へ逃げ込み、そこで発散する。
切り離すことしか出来なかった。
痛みを伴わないためにはそうするしか無かった。

そうした思考と行動が、遼太郎自身を苦しめていくのに。
もっと痛い思いをするというのに。

遼太郎は桜子への思いを別の女性で発散した。
本気の子を相手にする前の練習のつもりとでも言うべきか。

それがどれだけ桜子を傷つけたのかも知らずに。

そう、桜子も遼太郎の事が好きだということに気付いた時は…もう遅かった。

2人には「卒業」そして「別々の進路」が待っていた。


「進学は京大か東大で」

そんな圧力を掛けられていた遼太郎だが、それに答えるつもりは全くなかった。
成績的には問題ない。滑り止めの私大は…当初は両親から「必要ないだろう」と言われていたが、万が一の時、浪人を取るのかと訊いたら条件付きで受験を許可された。要は私大でもトップクラスであること。ただし場合に寄っては浪人してでも再度受験しろ、と。
場合によっては、というのは、その時の父親の気分である。

遼太郎は鼻でせせら笑う。もうお前らの思い通りになんかならない。
大学なんてどこだっていい。学歴なんか関係ない、実力で勝負する世界に俺は行くのだから。

そこで俺はのし上がる。全てをバランス良く備えた人材が最も優秀なんだと思い知らせてやる。親父のようにはならない。

遼太郎の進路は同時に弟を一人ぼっちにさせることでもあった。
東京へ出ることは決めていたからだ。
多少の心苦しさはあった。
けれども隆次も生きている。すぐに大人になる。
そうしたら隆次だって人生を決められる。俺が近くにいないからといって一生牢屋に閉じ込められるわけじゃない。

俺は故郷を捨てる。戻るつもりはない。
長男だから?
知った事か。こんなつまらない家の伝統なんて、俺がぶち壊してやるよ。



そしていま

"家" のことを思う時、遼太郎はいつも陰鬱な気持ちになる。
生家を思い出すとなぜかいつも真冬で、雪に閉ざされている。あるいは夜。

竹刀の音が響く。
母のけたたましい声が響く。自分を猫撫で声で褒める、または隆次をヒステリックに叱責する。

耳を塞いで俯く。

弟の隆次は後にASD(自閉症スペクトラム)と診断される。
それは遺伝である可能性が高いとも知る。

遺伝。
であれば俺だって。遼太郎は思う。

大学上京時に、そんな家に隆次を残した時、隆次が向けた目。
上京後の遠距離恋愛で、別れを告げた時に桜子が見せた目。

あの時の俺の取った行動は。
俺の中で生じていた感情は。

"遺伝の成果" は隆次の抱えるものよりも恐ろしいと思う。
俺の中にあるのは…狂気だと。

そしていま、遼太郎は結婚し、娘も息子もいる。
あれほど断ち切りたかった家の因縁は "野島" の名と共にしっかりと受け継がれている。

妻は弟以外、身寄りのない女だった。
であれば、自分の家を捨てて彼女の家に入ればいい。全て上手くいく。

しかし彼女はそれを拒んだ。

自分には弟がいる。あなたは長男じゃない?

どうでもいいだろうそんなこと。

だめよ。

そして、愛しい女性を前にした時表れたのは、どうしようもない本能というべきか。
支配欲、または征服欲か。

遼太郎を苦しめる彼の子供が生まれた。
因縁は続いていく。

闇の中を通ってきた遼太郎のその先の闇。

ただ断ち切ること。
それだけ。

狂気を抱え、遼太郎は闇の彼方を見つめる。
その瞳に光は宿るのか。




END

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