Your scent is a felony #2-5. Miss Dior
次長は2杯目を日向燗で頼んでいた。ほんのりした温かみと、芳醇な香りが立つ。
先に私に注いでくれた。そのまま自分で注ごうとするので、私が徳利を奪う。次長は楽しそうに笑った。
再び杯を合わせ、口に運ぶ。
「…美味しいです」
心からそう思って言うと彼は微笑んで、自分も一口運んだ。私はその表情に注視した。
思った以上の憂いは感じず、安心した。
「前田は…兄弟はいるのか?」
「私、一人っ子なんです」
「そうか…じゃあそれこそご両親は一人暮らしの前田を心配してるんじゃないのか?」
「そうですね…。実家の両親は結婚をせっついてお見合い話をいくつも持って来るのですが、乗り気にはなれなくて…足が遠のいてしまいます」
「そうか…」
次長は少し言いにくそうにし、お猪口に施された模様を見つめたまま訊いた。
「斎藤とは…どうだ?」
斎藤さん…次長の古くからの部下で、次長の協力の元、私に告白してきた人。
「良い方です。月に1、2度食事に行きますよ」
そう言うと次長は小さく苦笑いをして言った。
「アイツもなかなか辛抱強いな。本気なんだな」
私は何とも答えずお猪口のお酒を飲み干すと、すぐに注いでくれた。
「むしろその気もないのに返って失礼かとも思います」
「その気は全くないのか?」
その言葉に少し詰まる。
「その…好きになる気持ちって、思わぬところから湧き上がるものではありませんか? 斎藤さんは良い人を超えられなくて…そうなると恋愛は難しい気がしています」
「好きになる手前から始められることもあるんじゃないか?」
私はやはり答えられず、黙って鮑の塩辛を口に運ぶ。
「前田は恋愛体質なんだな」
「そうです」
「自分から好きにならなければ幸せになれない、とは言えないと俺は思うよ」
わかってます…ありきたりの慰めの言葉はもう何度も聞いてきましたから。
でも私はそれが出来ないから、今もこうして暗い泉の底で、小さな空気の泡を吐きながら光が差すのをただ待っているんです。
来ないかもしれない朝の光を、ただ待ちわびているのです。自分から浮き出ることが出来ないくせに。他力本願なんです。だからいつまでもこうしているのかも。
そんな言葉が胸にこみ上げる。
あなたの前ではどんな言葉も、壊れてバラバラになって、硝子の欠片のように私の胸に積もっていく。
今まではそうだったのに、今夜は…。
「幸せな恋なんて…私、したことありません」
「前田…」
「ごめんなさい、言い間違えました。幸せです。好きな人がいれば、それだけで。それは今は斎藤さんではありません。次長もご存知なように」
我ながら攻撃的だな、と思う。もう酔ったのだろうか。
その時、彼の胸ポケットにあるスマホが振動し、彼はそれを取り出し画面を見た。
けれどすぐに胸ポケに戻した。
「奥様からではないのですか?」
そう言うと彼はサッと瞳を翳らせる。
「知りたくもないこと、どうして訊く?」
「…」
「俺の口から家族の話を聞きたいのか? それでまた我慢して、自分を苦しめて…幸せから遠ざかるのか? 」
「ごめんなさい…」
「あ、いや…すまない…俺の方こそ…言い過ぎた」
お互い自分の猪口に視線を落とした。
「私は…相手がどんなに私を愛してくれていなくても、私以外の人を愛していても、私はその人のことを心から愛することができて、本当に幸せです」
俯いた私の左手首を、次長は摑んだ。驚いて顔を上げると、彼は唇を噛み締め、泣き出しそうな顔をしていた。
「前田、でもそれは本当の幸せじゃない…」
「本当のって何ですか? 本当の幸せを手に入れることが全てなんですか? 私の幸せを自分で決めるのはいけませんか?」
彼は手を離し黙りこんでしまった。
「…ごめんなさい。酔いが回ったのかな。私、おかしなことばかり言ってますね」
それでも彼は何も言わない。
いけない言葉を言ってしまったと思った。硝子の言葉は彼に向かって投げつけられた。
「全部忘れてください。私が今言ったこと、全て聞かなかったことにしてください」
「いや…」
どうして今夜はこんな空気になったのだろう、と思った。
「今日は予定より早めにお会いできたから、早めに解散した方が良いですかね。私、今日はちょっとおかしいですし。このままだと次長を困らせることしか言わなそうで…楽しすぎて酔ったみたいです。本当にごめんなさい」
「謝らなくていい」
「ごめんなさい…」
思わず涙を零してしまった。やはり酔っている。
また次長にお酒が入ると泣き上戸だと思われてしまう。
お酒が入るといつも泣くわけじゃない。
あなただからなの。
ずるいよね、私。
#2-6(最終話)へつづく