見出し画像

【連載】運命の扉 宿命の旋律 #50

Rhapsody - 狂詩曲 -


遼太郎は、部下の飯島優吾と前田有紗から長女の出産祝いでもらった抱っこ紐を付け、蓮を胸に抱いて歩いていた。

新聞配達員もまだ通る前ような夜明け前。
東の空に薄く朱鷺とき色が差し始める。
残暑とはいえ、日の出前の澄んだ空気は凛とさせた。

遼太郎は蓮の顔を覗き込んだ。

“俺と夏希の子供。
俺に似ているって?
彼女に似てくれないと困るんだよな”

途中で尻ポケットに挿したスマホが震える。
案の定、夏希からだった。

出ようか少し迷ったが、今年の始めのドイツ出張の際に彼女のPTSDがぶり返したこともあり、出た。

気分転換に蓮と散歩に出ているだけだから心配しなくていいと告げ、電話を切った。


始発の電車に乗り込む。

遼太郎は愛おしそうに蓮の額や頬をそっと撫でる。
その目は落ち窪んでいたが、表情は憑き物が取れたように清らかで、まるで菩薩のようだった。

乗り継ぎを経て1時間と少し移動し、とある学園都市に出た。
通勤通学の人たちが駅に向かい歩く姿はまだまばらだった。

遼太郎は蓮を抱いてのんびりと歩いた。
朝日が背後から照らし、舗道に影を伸ばす。
通り沿いの街路樹の緑を眩しそうに見上げたり、家々の窓の向こうを想像しているかのように微笑んだり。
まるで仕事前にちょっと近所を散歩する、平凡な、幸せそうな親子そのものだった。

しかし目的の場所が近づくといつしか菩薩の表情は消え、その目は冷たく、光を失う。

とあるマンション近くの公園に入り、遼太郎はカバンからある物を出し、眺める。

刃先が汚れている。おそらく自分の血痕であろうと遼太郎は思う。

それは一昨日、稜央が落としていったナイフだった。
それを右手で逆手に持ち、静かに佇んだ。

「蓮、お前珍しく大人しいじゃないか。どうしたんだ?」

遼太郎は胸の中の息子に声を掛ける。あどけない瞳で蓮は遼太郎を見つめている。
小さな口を開いて、何か言いたげだ。

そんな蓮の丸々とした頬に遼太郎はキスをする。

俺と夏希の、子供。
俺の血を分けた、子供。

遼太郎は刃先を蓮の背中に近づけ、微かに口角を上げた。
しかしすぐに厳しい表情に戻る。
ナイフを下ろし逆手に持ったまま公園を出て、マンションのオートロックのインターホンで、目当ての部屋番号を呼び出す。

女性の声で応答があり、入口が開いた。

3階まで階段で上がり、部屋の前に立つと勝手に玄関のドアが開く。
その隙間から、怯えた顔をした萌花が覗いた。

「朝早くにすまないな」

萌花は無言でドアを手で押さえて中に入るように促す。
すれ違い様に遼太郎の右手に握られたナイフを見て、萌花は小さく叫び声を挙げた。

「心配するな。バカなことはしない。これは君の彼氏の忘れ物で、返そうとしているだけだ。それと悪いんだが」

そう言って遼太郎は萌花をドアの外へ押しやった。

「君はちょっと散歩でもして来てくれないか?」

そう言って遼太郎はドアを閉めドアチェーンをかけた。

「野島さん…! 話が違います!!」

ドアの向こうで萌花は稜央の名前も叫んだ。

遼太郎が部屋に入るとベッドの上で上半身を起こした稜央がいた。
その顔は驚愕で青ざめている。

「お目覚めか」

遼太郎は微笑んで抱いている子供の前にナイフをかざした。

「見覚えあるだろう? お前の忘れ物だよ」

そしてナイフを稜央に向かって投げつけ、稜央は慌てて飛び退けた。

「この子は俺の息子で、2ヶ月前に生まれたばかりだ」

遼太郎は蓮を抱き締めながら言う。
稜央は遼太郎の落ち窪んだ目と笑顔に狂気を感じ、怯んだ。

「奥さんと娘は…どうしたんだ…」

稜央がそう言うと遼太郎は急に血相を変えた。

「お前、俺の妻に会いに行ったな…娘もその時いたのか。あれほど接触するなと言ったのに。お前は馬鹿なのか?」

ものすごい形相だった。
頬の傷が尚さら畏怖を感じさせた。

「お前…狂ってるだろ…」
「生まれつきだよ」

するとまた表情を変え、上から見下ろすように遼太郎は嗤った。ころころと変わる遼太郎の表情に稜央はこれまでに感じたことのない恐怖を感じた。

「俺を殺りたいか? どうする?」

ゆっくりと近づく遼太郎に、稜央はベッドの上ながらも首を横に振りながら後退りする。
遼太郎は再びベッドの上のナイフを手にした。

「や…やめて…」
「お前、偉そうなこと言っておきながら、自分が不利な状況になると子供みたいに情けなくなるな。同じ血を分けていたとしてもこの子はそんな情けない奴にならないで欲しいよ」

そうして腕の中の子供の顔をしばらく見つめると、突然語り出した

「この息子が生まれた時、俺はただ恐ろしかった。男の子は欲しくなかった。俺は数年前、地元に帰った時に高校の近くで学生服の後ろ姿を見かけた。あの頃の…昔の俺が今の俺の前を歩いている感覚だった。タイムトラベラーみたいにな。久々に訪れた場所でノスタルジーに浸ってしまったのかと思っていた。でも、違ったんだよ」

稜央は言葉も発せず震えながら聞いていた。

「あの時俺は桜子…お前の母親に会おうとしていた。別れてもう20年近く経つというのに、彼女は俺の夢によく出て来たんだ…あの頃と変わらない透き通るような肌を晒して、長い髪をなびかせて、俺のことをじっと見つめているんだ…そして何も言わずに涙を流すんだよ。堪らないだろう? 首を絞められるよりつらかった。
俺は今の妻と結婚することが決まっていた。だから桜子にもう俺のことを解放して欲しい一心で会いに行った…その時に…桜子に会う前に学生服が現れた。その少年が誰か…。桜子は否定したから俺も打ち消そうとした。確かなものは何もない。どうしようもないだろう…」
「何…なに言ってる…?」

稜央がそう言うと、それまで沈鬱だった遼太郎の表情が再び一変する。

「やっぱり馬鹿だな、お前は」

遼太郎は刃先を稜央の鼻先に近づけた。

「学生服の後ろ姿はお前だったんだよ! 桜子の次はお前の幻が俺に…お…恐ろしいほど…」

目の前に突きつけられたナイフに稜央が慄いたその時、腕の中の蓮が泣き出した。弾かれたように遼太郎は我に帰る。

そして玄関から萌花の声がした。鍵を持っていたのだ。開けたドアの隙間から稜央の名前を呼んでいる。

遼太郎がその声に振り返った隙に、稜央は遼太郎を押し退けて玄関へ向かった。

「萌花!」

チェーンを外し、萌花を中に入れると、彼女はしがみついてきた。

「稜央くん…! 稜央くん…大丈夫?」

稜央は萌花を抱きしめ頭を撫でながら「大丈夫だよ」と答えた。

「子供の泣き声が聞こえたから…すごく怖くなって…」
「大丈夫…大丈夫だよ…」

振り向くと左腕で子供を抱え、右手にナイフを持った遼太郎が立っていた。
稜央は萌花を庇うように自分の背後にやり、身構えた。

しかし遼太郎は力が抜けたようにナイフを落とすと、唇を噛み締めた。
目には涙を浮かべていた。

茫然とする2人をすり抜け、遼太郎は出て行こうとする。

「待って!」

呼び止めたのは、萌花だった。

「恨みあったままは…やめて…」

萌花の言葉に稜央もハッとした。

「野島さん。稜央くんは苦しんで来ました。大切なお母さんがあなたのことで…稜央くんを生んだことで苦しんでいることに苦しんで来ました。あなたはせめて、その苦しみに対して償う必要があると思います!」

萌花の張った声に遼太郎は力なく振り向き、萌花を見、稜央を見た。
空虚な目からは涙が落ちた。

遼太郎の腕の中の子供、蓮は力強く泣き続けていた。

すっかり虚無になった遼太郎が出ていこうとすると、萌花が腕を掴んで引き止めた。
力なく振り返る彼に、萌花は自分のスマホを差し出す。

「稜央くんのお母さんと繋がっています…」

すると遼太郎の目が見開き、恐怖に歪んだ。
稜央も驚いて声を失っている。

「話してください。稜央くんのお母さんはあなたと話をすると言っています。赤ちゃんは私が預かりますから」

萌花は紐を解いて遼太郎の腕からそっと蓮を抱き取ると、スマホを渡した。

スマホに耳を押し当てた遼太郎は言葉を発することなく、やがて膝から崩れ落ちた。

萌花の腕の中では、蓮が泣き続けていた。



#51へつづく

※ヘッダー画像はゆゆさん(Twitter:@hrmy801)の許可をいただき使用しています。

いいなと思ったら応援しよう!