【連載】運命の扉 宿命の旋律 #18
Variation - 変奏曲 -
自宅に戻った萌花は部屋で一人、下腹部に残る稜央の名残を感じながら、今日起こったことを考えていた。
稜央のことは大好きだった。
大好きな彼とだったら、今日のことは嬉しいはずだった。
でも。
このざわつく感情をどう表現したら良いかわからなかった。
次に会う時もいつもと同じように会えるのだろうか?
稜央は今、何を考えているだろう、と思った。
今日のことも部屋で一人、何かの曲を弾いて吐き出しているのだろうか。
* * *
「ただいま」
「お兄ちゃんおかえりなさい」
陽菜がいつものように脚に纏わりついてくる。
「お兄ちゃん遊んでー」
稜央は「だめ」と言って、自分の部屋に閉じこもった。
「おにぃちゃぁん!」
いつものやりとり。いつもの光景。
稜央は部屋に散らばる譜面をかき分け、大の字に寝転んで天井を睨み、不完全に終わったSEXのことを考えていた。
好きだったらしてもいいじゃないか。
俺の近くにいるといつもあんなに嬉しそうにしているんだから、萌花だって喜ぶはずだ、と思った。
だからあれほど拒むとは思っていなかった。
学校だから?
でも他に自分たちが交われる場所なんてない。
ホテルに行くお金なんてないし、お互いの家なんてもっと無理だし。
夏休みでただでさえ人がいない時期の学校なのだから、都合が良いと思った。
初めてだから痛みや辛さは仕方ないかもしれない。
自分も初めてだったから下手くそだったと思う。
でもそれはお互い様だと思った。
萌花が初めてであることのサインが自分自身にベットリとついて、正直少し慄いた。
不完全で終わった行為の後の萌花はずっとつらそうな、悲しそうな顔をしていて、稜央はどうしていいかわからなかった。
一人で帰りたい、と言って去っていたのが、悲しかった。
* * *
次の日。
毎日萌花から届くメッセージが稜央の元に届かなかった。
萌花は何と送っていいかわからなかった。
稜央は仲良くなってからメッセージが届かなかったことが初めてだったから戸惑った。
けれど自分から送ることもせず、音楽室に行けば萌花がやって来るかもしれないと思い、一人で学校に行きピアノの前に座ったが、彼女は来なかった。
稜央はラヴェルの『なき王女のためのパヴァーヌ』を弾いた。
ついこの前萌花の前で弾いた、兄を亡くした萌花のことを想って練習した曲だった。
次の日も同じ曲を弾いた。
夏休みが終わる残り4日間、毎日同じ曲を弾いて萌花を待っていた。
しかし彼女が来ることはなかった。
* * *
新学期になり、それでも連絡をよこさない萌花が気になって、稜央は彼女の教室まで足を運んだ。
休み時間、開いた後方のドアから中を覗くと、すぐに萌花の姿を確認した。
いつもなら目が合うと嬉しそうにはにかんで、ちょっとごめん、と周りに断ってこちらに来てくれるのに。
その日は目が合うと、すぐに逸らされた。
稜央はショックだった。
もう彼女は俺のものじゃない、と思い、走ってその場を去った。
萌花はあの日以来の稜央の姿に驚き、つい目を逸らしてしまったが、向き直ると既にそこに稜央の姿はなかった。
悲しかった。
自分がこんな態度のままではだめだ、と思うけれど、どう接したらいいのだろうか。
そしてそのことは誰にも相談出来なかった。
* * *
稜央は音楽室の前まで来ていた。壁に手を置き上がる息を抑えようにも、どうやら別の理由で息が苦しいようだった。
萌花が自分を拒否している。
どうして? あんなに俺のこと、大好きだって言ってたじゃないか。
夏休み中に過ごした甘い時間を思い出す。
萌花の、目を閉じてウットリと聴き入る美しく長いまつ毛。
聴き終えて感想を話している時の、高揚した頬と潤んだように輝く瞳。
そして同じその場所で、身体を重ねたこと…。
「萌花…」
稜央にとっても萌花の存在はあまりにも大きくなっていた。
自分の人生にあんなにも優しく穏やかで、眩しいほど輝く時間をくれた人なんていなかった。
母親のような優しさ、妹のような無邪気さ。自分の周囲にいた女性の全てを持ち、それ以上の魅力を彼女は持ち、与えてくれた。
「もえ…か…」
涙が出ていることに驚いた。
俺ってこんなことで泣くの?
学校でいじめられた時だって、継父にボコボコにされた時だって、泣いたりしなかったのに。
ずっと家で一人で母親の帰りを待っている時だって、寂しかったけれど、ここまでの気持ちにはならなかった。
ピアノを弾くことで本来癒された心も、この音楽室で萌花のために聴かせた曲たちが彼女の姿と共に甦り、胸を苦しくさせた。
稜央は壁伝いにズルズルと泣き崩れた。
* * *
萌花はその日の夜、稜央にメッセージを送った。
ただ
と呼びかけただけのメッセージ。
既読がすぐについたが、返事がなかなか来ない。
「どうしたんだろう…」
萌花は稜央と話をしなければ、と思った。
今日の稜央の態度もあったから、早めにメッセージを入れて準備しておこうと思った。
2通目のメッセージを送った。
しかし今度は深夜近くになっても既読がつかない。
萌花も眠れぬ夜を過ごした。
* * *
萌花はとても緊張して翌朝を迎えた。
登校し、わざと稜央のクラスの前を通って来たけれど、彼はまだ来ていないようだった。
そうメッセージを打ったが、昨夜送ったのも合わせて既読はつかなかった。
不安が一気に胸を襲う。
心臓が壊れるんじゃないかと思うほど強く脈打った。
* * *
昼休みに稜央の教室まで行ったが、やはり彼の姿はなかった。
恐る恐る、クラスの人に訊いてみると、彼女は萌花をジロリと睨め回して
「川嶋くんなら今日は来てないよ」
と言った。
「え、休み…?」
「あなた、川嶋くんの彼女?」
彼女がそう言い放つと、周りにいた数人が一斉に萌花を見た。好奇心の目だった。
「あ、休みならいいです。ごめんなさい」
萌花は逃げるように走り去った。
あんな風な目で見られるのは、その対象が "川嶋稜央の" 彼女だからではあり、陰鬱で愛想も協調性もない、そんな男の彼女だったからだ。
彼女じゃない?
うそ、いるの? 誰? どんな物好き?
密やかにそんな会話が稜央のクラスメイトの間では囁かれていたのだった。
萌花は午後の授業も上の空で、不安ばかりが高まった。
送ったメッセージを何度も眺めるが、既読はつかない。
「川越! 授業中にスマホ見るな!」
教師の声が教室に響き、萌花は跳び上がる。
「すみません!」
萌花は罰としてスマホを取り上げられ、放課後の課題を課せられてしまった。
放課後に自席で課題に取り組んでいると、クラスメイトが寄ってきた。
「授業中にそんなに熱心にスマホ見るなんて…何かあった?」
「川嶋くんとケンカとか?」
自分から稜央と付き合っていることは結衣以外には話していなかったが、目撃情報などから噂にはなっていた。
みんな萌花があの川嶋稜央と付き合っていることに関心があった。
「違う。関係ない。この課題終わらないと帰れないから、集中させて」
萌花は少し苛立ってクラスメイトを追い返した。
帰りに稜央の家に寄ってみよう、と考えていた。
#19へつづく