【連載小説】奴隷と女神 #11
持ち込み料代わりなのか、西田部長はもう一杯ロックを頼み、私は氷で薄まりつつある1杯目のカルヴァドスを相変わらずチビチビと舐めた。
以降の会話は少なかったと思う。チョコレートの契りから空気が少し変わったというか。
私の酔いが程よく回ったせいもあるかもしれない…。
西田部長が2杯目を飲み終えた時、ようやく私の1杯目が飲み終わった。彼の奢りで会計をカウンターで済ませる。
スツールから下りる時、どうしたってフラつくはず。お酒も入っているのだから。
つまりこの設定は男女が距離を詰めるためにあつらえられているのだと私は思う。
まるでシナリオに描かれたように、座る時もそうしたように、西田部長は左手を私の腰にあてて支える。
床に足が着いた時、彼はその手に力を入れて自分の方に引き寄せた。
必然、身体が密着する。
「今度はハイスツールじゃなくて、ソファーシートとかがいいかもね」
西田部長はそう言った。“今度” がまた、出た。
私は額を彼のシャツの胸にぶつけ、お酒や店の空気に混じった『ENDYMION』の気怠いミドルノートを鼻から大きく吸い込んだ。
『ENDYMION』…ギリシャ神話で、全能の神ゼウスの息子。その中でも一番の美貌を持つと言われている。
その香りを纏う、男。
「歩ける?」
「…歩けます」
私の腰に手を回したまま「じゃあまた」と彼はカウンターの中のいるマスターに声を掛け、外に出た。
店を出ると真夏の夜のむっとした湿気を帯びた風が吹き、思わず顔をしかめたけれど、西田部長は飄々とした顔をしていた。
「松澤さんは思ったより大胆な人なんだね」
腰を抱いたまま西田部長は言った。
「酔ってるだけ?」
私が答えずにいると顔を近づけそう訊いた。私は首をぷるぷると横に振る。頭の中の酔いが更に回りそうになった。
「西田部長こそ…」
呟くように言うと彼はよく聞こえなかったのか、私の口元に耳を寄せた。
「何て言ったの?」
そして私の瞳を覗き込む。
「好きです」
私の言葉にはもう驚いた様子もなかった。ただ少し苦笑いを浮かべ、顔を離すと鼻から小さく息を吐いて通りを見やった。
「普段のイメージとは正反対で大胆で果敢で…すごいな松澤さんは」
「迷惑ですか? ですよね普通は」
「普通は…、ね」
「西田部長は、普通ではないですか?」
「…」
それには答えず西田部長はゆっくり腕を回し私を抱き締めた。私も彼の背中に腕を回す。お酒の力を借りて。
「松澤さん、本当に小柄で華奢だね。ちょうど頭の上に顎が乗る。身長いくつ?」
「…153cmです」
へぇー、と言って私の頭をポンポンと2回撫で、また身体に腕を回す。
「…後悔しないの?」
「何をですか?」
「僕がどういう人かわかってるでしょ」
「はい。でも後悔はしません。最初から後悔するなんて人もいません。むしろ西田部長が普通の方なら、ここで私を突き放すべきです」
西田部長はあはは、と笑う。
けれどその腕はむしろ力が込められた。
「そりゃそうだ。やっぱり松澤さんは面白いし、意外にしっかりしているよね」
「意外で、すみませんでした」
恥ずかしくて強がった言い方になってしまう。私はこんなに歳上の人にでも、甘えるのが苦手なんだと実感した。
そもそもこんな歳上の人と恋に落ちたことなんて今までなかったし。
再び顔が近づき、私の瞳を覗き込む。
「僕は松澤さんと同じ干支だよ? 一廻りも上なんだけど、いいの?」
「…歳は関係ないです。歳より気にしないといけないことが多いですから」
「本当に後悔しない?」
「…しつこいですよ…」
彼は笑顔を浮かべ私の顎を持ち上げた。思わず目を閉じる。
でも何も起こらない。
あれ、と思って目を開けた時だった。唇が重なったのは。
目が合う。
ほんのりと甘いリンゴの香りが漂う。
「ん…」
彼の左手が私の後頭部をつかむ。まるで逃げられなくするように。
柔らかい唇、なめらかな舌。なんて酔わせるキスなんだろう。
今度はお酒のせいだけじゃなく、脚がガクガクしだした。それでまた彼は私の腰を抱く。
唇を離すと彼は私の頭を自分の胸に押し当てるように抱え込んで言った。
「僕はタクシーで家まで帰るから、先に松澤さんの家の方まで廻ってもらおう」
まさか、ここで幕が引かれるとは。
「駅から10分と言ったらそこそこあるし、住宅街の夜道は返って危ない。もしものことがあったらと思うと僕も気がかりだから」
「…寄っていきますか」
「いや、帰るよ」
私は唇を噛み締めた。
「そこまで下心があると思った?」
「いえ、そんなことは…」
「全くないとも、言えないけど」
「え…?」
「冗談だよ」
「…冗談なんですか」
顔を離し挑発的に西田部長を見上げると、しばらくの間私を見下ろし、フッと微笑むと再びキスをした。
長い、長い間。
#12へつづく
※官能表現ありますのでご了承ください…