【連載小説】奴隷と女神 #18
気がつけば年の瀬になり、響介さんとの付き合いも3ヶ月になろうとしていた。
恋が始まる前からそうだったが、その間の私に罪の意識はなく、奥様に対しては顔も知らない相手というのは無に等しいようなものだった。
とんだ倫理観の欠如だ。
「小桃李、今日空いてる?」
同期の環が、もうすぐ定時というタイミングで総務の受付にやって来た。
「うん、空いてるよ」
「ちょっと飲みに行かない?」
「いいよ!志帆にも声掛けた?」
「志帆は今日はちょっと都合つかないみたい。年末に向けてシステムは何かと忙しいみたいよ。たまにはサシで、どう?」
「そっか…。うん、わかった。何時頃上がる?」
「ベルサッサOKよ!」
そう言って環はウインクした。
「じゃあ急いで片付けなきゃ! 1階ロビー待ち合わせにしよ!」
そうして私たちは終業後連れ立って会社を出た。
「どこ行く?」
「そうね、銀座とか出ない?」
環の提案にドキリとする。ついこの間、西田さんと会った場所だからだ。
「銀座? いいけど、行きたい店でもあるの?」
平静を装って言うと環は「まぁたまにはいいかなと思って」と答えた。
私たちは銀座までメトロで移動し『IJ』というワインビストロの店に入った。
この前響介さんと行った『Ahill』が偶然近い場所にあったので、ドキドキした。
このお店ではワインボトルをセラーから自分で選んで持っていくシステムになっている。
初っ端からラングドックのピノ・ノワールで乾杯し、シャリュキトリー(お肉の惣菜)に生ハムサラダ、グラタン・ドーフィノワ(ジャガイモのグラタン)、そしてこの店目玉の子羊のハンバーグなどを頼み、最近の環の恋活情報や仕事の愚痴など他愛もなく話していた。
お酒も進んでメインのハンバーグを "めちゃめちゃ美味しい!" とはしゃぎながら食べ、ひと段落ついた時、ちょっと言いにくそうに上目遣いで環が切り出した。
「あのさ小桃李、最近、西田部長と仲良くしてたり、する?」
どくん、と心臓が跳ね上がる。
「えっ…なんで? そんなこと、ないけど…」
私の様子を少し伺った後、また少し言いにくそうに口を開く。
「実はあたし、見ちゃったんだ。この前銀座で合コンがあったの。その帰りに小桃李が西田部長と『Ahill』から出てくるとこ…」
環は店の名前まで出した。まさか、見られていたなんて。
『Ahill』が近かったのは偶然ではないのか。
「わざわざこんなとこまで? と思ったし、あんないい店、ちょっと寄ってこうか、じゃ行かないと思うし、何より…」
「何より…、何?」
環は一呼吸置いて、また上目遣いになった。
「小桃李、普段と全員違う黒いワンピース着て、髪もメイクもバッチリ決めてて雰囲気全然違ったし、2人ともすごく親しげだった。側から見たら上司と部下っていうより恋人同士だって思うくらい。その後2人してタクシー乗り込んで、どこかへ消えちゃったし」
緊張で身体の芯が一気に冷たくなった気がした。外食の時は手を繋いだり腕を組んだりしないように配慮していたのに。
あの日は確かに…店を出た後の私たちの距離は近かった。
「ね、西田部長とは全然仕事で絡みなんかない人じゃない。どうして2人であんないいお店に行ったの? 小桃李も会社にあんなワンピ着て来ないでしょ? あれだけめかし込んだ理由って何?」
「…」
どう答えようか迷っていると、環がきっぱりとした口調で続けた。
「小桃李、不倫はだめだよ。得るものなんか何もない。時間の無駄だよ」
「違う! 不倫なんかしてない!」
「じゃあ、あの時はどういう経緯があったの?」
「それは…」
それには咄嗟に何も答えられず、私は俯くしかなかった。
研修会の打ち上げで、と言ったって、どうして2人で、となってしまう。
「小桃李、恋愛は素晴らしいものだよ。それは確か。でもね、相手が既婚者だったら話は別。裏切り行為だからね。小桃李も西田部長も、彼の奥さんを裏切ってるんだよ。わかるよね?」
「だから不倫なんかしてないってば!!」
声が震え、涙が溢れ出す。白状したようなものだった。
環はため息をつく。
「じゃあどうして泣いているの?」
「…」
「西田部長のこと、庇うつもり?」
首を横に振る。
「かばうも何も…何も悪いことしてない…」
「たまたま2人であのお店に行った、っていうのね?」
私は頷くことも出来ず俯いたまま涙を止められない。環のため息が漏れ聞こえる。
「私の誤解だって言うなら、謝るわ」
「…」
「でも、もし」
環が私に顔をぐっと近づける。今までも見たことがない真剣な表情だ。あの環が、こんな顔をするなんて。
「もし、西田部長が小桃李に手を出していて、小桃李を泣かせるようなことがあったら、あたし、本っ当に許さないから。小桃李は友達だから全力でかばうけど、西田部長のことは絶対許さないからね。彼がそういう男で被害者がいるってみんなに言いふらして、会社にいられないようにしてやるんだから」
「環…」
そして環も泣きそうな顔になる。
「不倫は誰も幸せになれない。誰かが必ず泣く。最終的には愛人側が泣くだけだから。捨てられて泣き寝入りするのは愛人の方だから。西田部長と何でもないっていうのなら、何かが始まってしまう前にあたしからそう忠告しておく」
店を出た後、環は私の肩に手を添えた。
「見なかったことにするから。その代わり、絶対にもう2人で会ったりしないで」
私は黙って "嘘をついて" 頷くしかなかった。
#19へつづく
【紹介したお店:IJ】