【連載】運命の扉 宿命の旋律 #14
Carol - 頌歌 -
「お兄ちゃんおかえりなさーい」
いつもの陽菜の出迎え。
「稜央、おかえり。終業式の割には遅かったね。どっか寄ってたの?」
母親の桜子もキッチンから声をかけてくる。曖昧に答えを濁すと桜子は言った。
「すぐご飯だよ。着替えて来なさい」
稜央は「はーい」と返事をして自分の部屋のドアを閉めた。
桜子はコートのせいで稜央が制服でないことに気づいていないようだった。
心臓がまだ激しく高鳴っている。
全力で走ったから、だけではない。
”川嶋くんのこと、好きになってもいい?”
萌花の言葉がずっと反芻される。
どうしてこんな俺なんかを?
今までどこでも気味悪がられて煙たがられてきたのに。
川越萌花...クラスでも相当かわいい方だと思う。
というか、彼女の周りにはいつも人がいるし、クラスの男子も萌花のことを見ている奴はいることを知っている。
そう、あいつ…千田悠人も彼女を狙っていた。
なのに、そんな彼女がどうして俺を。
ただ稜央も、萌花が小学校5年生の時に兄が自殺をしたという話を聞いてから、妙な連帯感というか親近感で心が動いたのには間違いなかった。
“俺がこの家で継父にボコボコにされている時、彼女は部屋で兄貴が首を吊って死んでいるのを発見した”
この狭い地方都市の片隅で、少年と少女は同じ年に残酷な体験をした。
それが高校生になって、出逢った。
稜央はその思いが、今まで自分の中で流れてこなかったメロディのイメージが沸き起こるのを感じてた。
それがこの前練習を始めたラヴェルの『なき王女のためのパヴァーヌ』だ。
これまでバッハやグリーグなど硬派な曲が多かったが、萌花のことが浮かぶとなぜかラヴェルになる。
清らかで凛としていてどこか密やかな哀しみを持つラヴェルのピアノ曲は、萌花のイメージに合っている気がした。
本棚にある、教師からもらった膨大な楽譜の中から他のラヴェルの譜面を見つけ、よし、と思った時に桜子の怒号が聞こえた。
「稜央! ご飯冷めちゃうよ! 陽菜におかず取られちゃうよ!」
はーい、と返事をし、やれやれ、と思いながら部屋を出た。
* * *
冬休みに入り、稜央は部屋でいくつかの楽譜とにらめっこしていた。
ラヴェルのピアノ曲はどれも清らかな透明感があって、ますます萌花のイメージにぴったりだと思った。
『高雅で感傷的なワルツ』を聴いてみても、『クープランの墓』を聴いてみても、ラヴェルの持つ根底の世界観や表現が彼女に通じているように思えた。
またラヴェル自身がグリーグの影響を受けている*と話しているとされており、そんな繋がりにも稜央は奇跡的なものを感じていた。ラヴェルのピアノ曲を何曲か練習しながら、これまでにない透き通るような気持ちが稜央の中を流れるのを感じ、また戸惑ったりした。
「俺…なんか…おかしい。今までこんなことなかった…」
* * *
クリスマスがやって来た。
たまたま街へ出た稜央は道行く恋人同士を見て、この前駅のロータリーで萌花が肩を寄せてきた時のことを思い出し、思わず左腕をさすった。
誰かと浮かれるクリスマスなんて今まで夢見たことも想像したこともなかったけれど、萌花と並んで歩く自分を想像してみて驚き、苦笑した。
冬休み中は学校に立ち入れないため、音楽室に行くことは出来ない。
だから彼女に会う手段はないのだけれど、会えなくて良かったと思っている。
もし会っていたらまたどうしていいかわからず、決して萌花が喜ぶような態度は取れなかったと思う。
稜央は内側で沸き起こるメロディに胸を抑え、早く家に戻って練習しようと思った。
とりあえず『なき王女のためのパヴァーヌ』は完璧に仕上げようと。
* * *
その頃、家では陽菜がフライドチキンが食べたいとごねている。
「はいはい、じゃあ買いに行こうか。お兄ちゃんはまだ戻ってこないのかしら」
そして桜子は思い出す。一年前のクリスマス・イブを。
あの日も陽菜を連れて買い物に行く途中だった。
小雪のちらつく寒い日だった。
あまりにも懐かしく、狂おしい相手が、まさか目の前に現れるとは別れた日から全く想像しなかった。
彼は地元には戻ってこないだろうと思っていたし、ましてや自分の前に現れることなどは考えもしなかった。
見間違えではない。すぐにわかった。
今までも、そしてこれからも、恐らく一生愛するその人を。
彼は自身の結婚を告げ、そして桜子に謝った。
桜子は彼の中でとっくに消えたと思っていた自分の存在が、彼を今日まで苦しめるほど残っていたことに驚き、満たされ、そして切なくなった。
今はもう、彼は家庭を持っている。
再び、愛しい人の姿は封印しなくてはいけなかった。
ため息をつく。
「しょうがないな。陽菜、遅くならないうちに買い物に行こうか」
はしゃぐ陽菜にコートを着せ、外に出た。
低く真っ白な曇天に凍てつく空気が、去年と全く同じように感じられて戸惑った。
あり得ないけれど、振り向いたらまたいるのではないかと思ってしまうような。
「ママ、今年はあの人来る?」
陽菜は道すがら訊き、桜子はドキリとする。
「あの人って誰よ?」
桜子は怖い顔をしたのかもしれない。陽菜はしばらく黙り、そのうちに「サンタさん」と言った。
桜子はため息をついて「いい子にしてたら来るよ」と言った。
そして桜子は振り向く。
そこにはただ人気のない林道が耳鳴りがするほどの静けさをもって、時が止まったかのように続いているだけだった。
#15へつづく