Your scent is a felony #2-2. Miss Dior
「じゃ、お先に」
今日の野島次長はいつもより帰りが遅かった。
彼にはまだ小さい娘さんと息子さんがおり、特に娘さんの相手をするのが大好きなんですよ、と以前飯嶌さんが教えてくれた。
飯嶌さんは多少デリカシーがないところもあるけれど、たまに次長のプライベートな話題を挙げて、彼なりに私に気遣ってくれているのだと感じる。
帰っていく次長の背中をぼんやり見送っていると、飯嶌さんに声をかけられた。
「どうしました?」
「あ、いえ、何でもないです…」
「前田さん、今日も残業ですか? 結構溜まってるんですか? 僕に出来ることあったら何か手伝いましょうか」
大きなプロジェクトでチームリーダーを経験した彼は、ひと回りもふた回りも成長したなと思う。
「大丈夫です。ありがとうございます。飯嶌さんこそ、何か溜まっていませんか?」
「僕が溜め込んでいるのは皮下脂肪です!」
「…面白くないです。飯嶌さんちっとも太ってませんよ。むしろ細身な方じゃないですか」
「実はですね、見えないところがスゴイんですよ! いやマジで笑えない。これがアラサーかなーなんて」
私が大げさに呆れた顔を向けると、飯嶌さんはそれでもニヤニヤと笑う。
憎めない ”男の子“ だな、と思う。
「でも僕、もうちょっとしたら帰ります。今日は彼女とご飯食べに行くんですけど、彼女の方が今は忙しくて…。あぁ、こんな風に彼女と美味しいご飯を食べちゃうから脂肪が増えるんですけど…。前田さん本当に大丈夫ですか?」
「はいはい、おのろけご馳走さまです。それで私も太っちゃいそう。私も少ししたら帰ります」
テヘッと舌を出し、飯嶌さんは10分ほどして ”それではお先に失礼します!“ と元気に敬礼して帰っていった。
ふと次長の席に目を向ける。
"今日もあのお店に行ってみようかな…"
次長への想いが抑えられないほど湧き上がってしまった時、ぼんやりと想いを馳せられるあの店は気持ちの収拾をつけるのに良い場所だと思った。
客層は少し切ない気持ちになるけれど、店の人は一人の私を適当に放っておいてくれる。
私も片付けをして、オフィスを後にした。
* * *
ガラス戸越しに中を伺い、それほど混んではいないようだったので、ドアを開け中に入った。
店員さんが声をかけてきて、一人であることを告げようとしたときに、背後から声をかけられた。
「前田…」
L字になっているカウンターの隅にいたのは、野島次長だった。
私は驚き "すみません!" と謝ってそのまま店を出ようとした。
すると次長が「待って」と私を呼び止めた。
「次長がいらしているなんて知りませんでした。お邪魔してはいけないので、他にします」
「邪魔じゃないよ。前田の方こそせっかく来たのに」
「ですが…」
「逆に俺がいるのが気まずいなら、俺はもう帰るから」
「いえ、そんな…!」
席に着くか迷っていると店員さんが声を掛けてきた。
「こんばんは」
この前私が一人で来た時もいた人だ。彼は瞬時に私を認識したようだったが、軽く微笑んだだけで多くは語らなかった。
飯嶌さんの言うように次長はここによく来ることを証明するかのように、店員さんは次長に親しげに話しかけた。
「野島さん、ずいぶんお美しいお知り合いがいるじゃないですか」
「同僚だよ」
部下ではなく同僚、と言った。次長らしいなと思う。
「ちょうどお隣が空いてますし、ご一緒されますか?」
店員に促され、次長も自分の隣の椅子を引いた。
「じゃあ…本当にお邪魔でないのなら」
彼の隣に座る時、まだアルコールも入っていないのに脚が震えてしまう。
店員さんが私に飲み物をどうするか尋ねてきた。
ふと見ると次長の前にはワインボトルが1本ある。
「次長は…お一人でボトルなんですか?」
次長が照れ臭そうに頷くと、店員さんが
「野島さんはいつもそうですよ。ちょっとしたフルーツとかチーズだけで1本空けてっちゃう。男っぷりがいいんですよ」
と言い、さらに次長は照れた。
「もし良かったらこれ、どう?」
手元のボトルを指して次長が言った。私は黙って頷く。
店員さんがグラスと、オリーブの小皿を持ってきてくれた。
私がボトルを手に取ろうとすると、次長がそれを制した。
「ヨーロッパでは女性が注ぐなんて、男性の恥なんだぞ」
そう言いながら私のグラスに、紫がかった美しいルージュを注ぎ、自分のグラスにも継ぎ足した。
「でもここは日本です」
「そんなの粋じゃないだろ。じゃ、乾杯」
静かにグラスを合わせる。私は手までさえも震えていた。
私が入社したばかりの頃、外回りの帰りに一緒にお茶したり飲みに行ったことはあった。
年季の入った渋い喫茶店だったり、落ち着いた雰囲気の居酒屋を次長がチョイスしてくれたっけ。
そう、あの時「前田がなんと言おうと俺は唐揚げを食う!」と言って、結局一緒に食べて…すごく美味しかったことを思い出した。
また2人で飲みに行きたい、と強く思ったけれど、口にすることは出来なかった。
だからこんな風にカウンターに並んで座ってワイングラスを傾けるなんて夢のようだった。
「このワイン、美味しいですね」
「Syrah、一番好きなんだ」
「こういう少し甘みを感じつつどっしりとした感じ、私も好きです」
「前田はこの店、知ってたのか?」
「実は…飯嶌さんが話していたんです。次長のお気に入りの店に連れて行ってもらったんですぅーって、デレデレした顔して」
飯嶌さんの口調を少しマネして言うと、次長は笑った。
「そうそう。優吾のやつ、俺の好きな店に連れてけって。俺と2人の時は、会社でいつも行くような雑多な居酒屋は嫌だとか言うんだよ」
「どういうことなんですかね?」
「まぁ優吾とはよく腹割った話をするから、こういう自分のテリトリー感がある店は返って良かったかもしれないけどな」
「そうだったんですか」
次長の横顔は穏やかで、優しい目をしていた。
私は腹割った話の相手になる飯嶌さんが、心底羨ましかった。私が男に生まれれば良かった、と思う瞬間。
「それで…私も気になって、来てみました」
おずおずと正直に伝えると、彼もフッと笑みを浮かべる。
「このお店はどうやって知ったんですか? 会社には近いですけど、少し奥まっていて目立ちませんよね」
私の問に次長は微かに戸惑いの色を浮かべた。聞いてはまずいことだったかな、と瞬時に不安になる。
彼は "行きずりで、たまたま見つけた" と答えた。
後で1人で訪れた際に店員さんとの何気ない会話で偶然知ってしまったのだが、行きずりでたまたま見つけたのは正解だけど、奥様と最初のデートで使った店だという。
そういう情報を次長は、私に隠してくれる。
野島次長は私の気持ちを知っている。
私のことを恋の対象にしないことも、明言している。
それなのに。
「こういうお店見つけられるのってすごいなって思います」
「うん…。これもつまんでいいよ。あと前田が頼みたいものがあれば何でも」
そう言って自分の前に置かれていたパルミジャーノ・レジャーノの皿を間に置き、メニューを手渡してくれた。
「これだけでも十分ですよ」
「相変わらず、本当に食べないな。じゃあ、いじわるしていい?」
「えっ、なんですか?」
「肉、食べてもらおうかな、と」
そう言ってニヤっと笑う。
その表情があまりにもかわいらしくて…。
「お好きにどうぞ」
澄ましたフリして言うと、本当に注文していた。
「赤身だから安心して。俺、ここで食べて赤身の旨さに目覚めたんだ」
それでもさりげなく私を気遣う。
グッと、胸が詰まりそうになる。
「…次長は今日は、お一人でゆっくりされているんですね」
「うん、今日は家族がちょっと出かけているんだ。帰っても俺一人だから」
「そうでしたか…」
「前田は猫飼いたいって話はどうなってるんだ? 一向にGood&Newで猫の話題が出てこないけど」
私に家庭の話をしないように気遣ってくれる。だからそんな方向に話が行きそうになると、彼は話題を変える。
普通、見せつけそうなのに。
不倫なんてしないよ、君は相手にしないよって言うのなら、普通は家庭円満を見せつけて、警戒線を張るものでしょう?
けれど彼はそんなことはしない。
本当に私の気持ちに対して否定も肯定もしない。
そんな優しさがたまらなく愛おしく、締め付けられるほどつらい。
むしろもう、優しさとは言えないよね。
#2-3へつづく