Your scent is a felony #2-3. Miss Dior
それで、猫の話。
「…猫はまだ…踏ん切りがつかなくて。仕事の間は部屋でぼっちにさせてしまいますし、命を預かる責任も重くなりますし…」
「確かにそうだな」
そう言って次長は胸のポケットからスマホを取り出し、少し操作をすると画面を私に向けた。
「義理の弟の飼い猫なんだけど」
画面には丸々とした顔のロシアンブルーの猫が写っていた。
「えぇ…、かわいい…!」
思わず叫んで見入ると、次長は別の写真も見せてくれた。
それは私服の次長がその猫を抱いて、幸せそうな顔をしている写真だった。
そんなの、反則だ。ずるすぎる…。
「ロドリーグって言うんだ。厳つい名前だろう? 義理の弟のセンスはなかなかなんだよな。俺はロドリゲスって呼んでるんだけど」
次長の呼び方のセンスも負けずになかなかだと思いつつ、私は写真に見惚れていた。
「まぁ、命を預かる重さはあるけど、でも家族が出来る感じがあっていいものだぞ。あ、この猫はいつもうちにいるわけじゃなくて、義理の弟が出張とか旅行とかで家を空ける時に、うちをペットホテル代わりにしていくんだけど、俺もコイツには多少やられてるよ。だって俺のことついて回るんだよ? かわいいだろう? たぶんオヤツ目当てなんだろうけどさ」
猫の話をする次長は、普段見せない砕けた笑みを浮かべていた。
溶けそうになる。
あなたについて回る猫になりたいな、と本気で思ってしまう。
この写真のように抱き上げられ、頬を寄せて抱き締めてくれるのを夢見る猫に。
そんな風にしばらく飲みながら猫の話していると、ボトルが空いてしまった。
「前田が次の1本選んでくれない?」
「1本、ですか」
「いけるよな?」
ちょうどお肉のお皿が運ばれたところに、ボトルも追加注文する。シラーとグルナッシュのブレンド。
「野島さん、ソロじゃないと食事も頼んでくれるんで、なるべく一人で来るなってお願いしてるんですよ」
「ひどいこと言うでしょ、この人」
店員さんと次長のやりとりを幸せな気分で聞く。
お店への貢献のために、次長は飯嶌さんをこの店に連れて来たのかな。
赤身の肉はややレアで、次長が一口サイズにナイフを入れ差し出してくれた。フリットも付いてきた。夜の大敵だけれど、今は目を瞑る。
「男性なのにそこまで甲斐がいしいと、さすがヨーロッパ仕込みだなって感じですね」
次長は再び照れ臭そうに笑う。
男の人ってこういう時、少年のような顔になる。それを見ながらカットしてくれた一口を頬張る。
「…美味しい。このお肉、本当に美味しいですね」
「だろ」
次長も一口食べる。
食事を共にすることは危険だな、と思う。特に男女においては。
関係を深めるきっかけはまず食事からだし、ここで好みが合えば加速出来る。
だからといって、そもそも合わない人との食事なんて楽しくもなんともない。
そんなことを考えていると、次長が私をじっと見つめた。
「な、何ですか?」
「いや…前も思ったけど、そうやって美味そうに食べるのになと思って」
私は目をそらし、澄まして答える。
「どうせ私は次長の好みの、普段から健康的で幸せそうによく食べる女性ではありませんよ」
その時次長は、わずかに瞳を揺らした。
こういう時だ。
彼の中に、もしかしたら私と同じ気持ちがあるのではないか、と錯覚してしまう時は。
その目は動揺に似ているから。
どうして、動揺する必要があるの?
彼はポツリと言った。
「我慢している前田を見るのは…辛くなるんだ。だからと言って俺は…」
「我慢なんてしていません。だから次長は辛くなる必要なんてありません」
泣き出したい気持ちを抑えてそう告げると、彼は寂しそうに微笑んだ。
* * *
ボトルを2人で2本空け、酔いも回っていた。
中盤からずっと、私と次長の波長が妙に合っているのを感じていた。おそらく彼も同じように感じているだろう、ということも。
それは私にとってあまりにも強い喜びだ。
店を出て、駅まで並んで歩く。
「今日は突然お邪魔をする形になってしまいましたが、とても楽しかったです」
「うん、俺も」
野島次長は私のことを穏やかな目で見下ろす。
「散々飯嶌さんに、次長に連れて行ってもらった~って自慢されていたので、明日は私が自慢してやります」
次長は笑った。
その笑顔に、酔っているせいもあって抱き締めてしまいたくなる。
「また、飲みに行けませんか?」
いつもなら言えない言葉も、言ってしまう。酔っているから。
「いいよ、いつでも。声かけてくれれば」
「ありがとうございます」
「その代わり、俺と飲みに行くと食わされるぞ。それでもいいのか?」
「次長だってお一人の時は全然食べないって、お店の人も言ってたじゃありませんか。どうして私がいると食べさせられるんですか? お店のため?」
私は少し愉快な気持ちになって訊くと、彼は前を向いたまま言った。
「幸せそうな顔するからだよ」
「えっ…?」
「まぁ女性だからスタイルには気を遣うにしても、普段は好きな食べ物は我慢しているし、みんなとつるんだりすることもあまりしないし…本当はあんな風に解放すると幸せそうなのに。でも普段は頭のてっぺんから足の先まで気を許さない。それが息苦しそうに見える。違うか?」
「…」
俯く私にも、柔らかな声で語りかけた。
「どうしてそこまで自分を甘やかさないんだ? 今までどんなことが…そんな風な自分を作ったんだ」
「…甘やかしすぎてますよ。現に私は奥様がいるのに次長を…」
「それは甘やかしているとは言わない」
少し語調が強くなったことに私は少し驚いて顔を上げた。
もっと驚いたのは、次長の顔が悲しみを帯びていたことだった。
「…ごめん。嫌なら話さなくていい」
「嫌ではないです。でも…」
涙を堪えた。
ここで涙を見せたら卑怯だと思ったし、何より次長が困ると思った。
解放して食べたり話したりすることが幸せなのではなく、あなたを前にしたら全てが幸せになるんです。
でもそんな事を言ったって。
彼を困らせたくない。
彼を苦しませたくない。
ではなぜ私は今、ここに存在しているのだろうか。
なぜ私は彼への想いを、彼のために断ち切ることが出来ないのか。
次長は小さくため息をつき歩き出す。その少し後をついて歩いた。
振り向きがちに彼は言う。
「話す気になったらいつでも言ってくれ」
「…ありがとうございます。でも本当にそんな話をして…私のことを知ってどうするんですか? 次長は私の気持ちを知っていて、私は今以上次長に気持ちを抱いてはいけないことくらい、お互い百も承知のはずです。なのにどうして、そこまでするんですか…」
「…」
私はとにかく泣かないように目を閉じて言った。
「わかりません。自分でもどうしたいかわかりません。もうずっとです。ただあなたを困らせたり苦しめたりは絶対したくない。それだけは確かです。そうすると私が我慢する他ありません」
「やっぱり我慢してるんじゃないか」
「我慢しなかったら…あなたを苦しめるだけですよ? どうしてそんな事ができますか?」
あなたを愛しているのに。
その言葉を飲み込む。
次長は悔しそうに唇を結び、所在に困ったように拳を握った。
* * *
明かりのない部屋のドアを開ける。
冷たいひとりの、部屋。
着替える前にシャワーを浴び、ベットに倒れ込んで次長と過ごした時間をなぞる。
表情も、声も、仕草も。全て細かくなぞる。
スマホを開き、次長とのチャットを開く。
「ネコちゃん…」
かわいいかわいい、と何度も言っていたら、猫の写真を送ってくれた。
次長が一緒に写っている写真もすごくすごく欲しくて、ついそれも送ってくれませんかとお願いしたら、苦笑いしつつも、くれた。
宝物がひとつ、できた。
猫の名前は確か…ロドリゲスだったかな…本当の名前は何だったっけ。
公園かどこかで猫を抱く次長の姿は、普段の姿とはまた違って、この上なくリラックスして、愛に溢れた笑顔で猫に頬を寄せていた。
「いいな…ロドリゲス…」
猫の名前を声に出してみて思わず吹き出す。ロドリゲスだなんて。
そしてベッドに潜り込んでスマホの中の写真をいつまでも眺める。
この猫のように私が彼の胸に抱かれているのを想像する。
いい歳の私が何を考えているのかとおかしくなる。
けれど、とにかく一人の夜は自由だから。
誰にも何も邪魔されずに、愛する人を独り占めが出来るから。
抱き締めて眠ったって、構わない。
#2-4へつづく