【短編】It’s a perfect world
ドイツ人男性に囲まれている、小柄な一人の男。
いや、彼自身が決して小柄なわけではない。どうしたって大柄なドイツ人に囲まれたら日本人は小さく見えるだろう。
彼は腕を組み上目遣いでやや口をへの字に曲げ、そんなドイツ人たちの話に耳を傾けている。身体は小さく見えるが、態度は決して小さくない。
話が一通り終わると彼は口角をわずかに上げ、
「OK. Lege gleich los.(すぐに取り掛かろう)」と言うとドイツ人たちも和やかな表情で「Jawohl.(了解)」と答え、解散した。
これは彼、野島遼太郎が現地の社内で立ち上げたコンサルチームのミーティングで ーやがて彼はこれを足掛かりに独立することになるがー 、遼太郎はドイツ人のスタッフのボスを務めている。外国人の彼がボスを務めるのは、文化や様式の異なる世界でもリーダーとして成果を挙げられるかを試されている。部長待遇とは言え、どっしり構えているわけにもいかない。
基本的にチームメンバーに業務における裁量権を与えているため、日本のように報・連・相のためのミーティングはほとんど行わない。今はメンバーがようやく顔をそろえる時間なので、挨拶代わりの軽い話題を行っているものだ。1日の就業時間さえ守れば、何時に来て何時に帰っても良い。出社せず家からオンラインで業務をする社員もいるが、遼太郎のチームは比較的出社するメンバーが多いようだ。遼太郎も7時半から15時半の勤務で、娘の梨沙の学校の送迎に合わせる形にしている。
時差の関係で午前中は日本の会社の仕事を行い、11時からのランチを挟んで午後に現地スタッフとの仕事をこなす。
***
3年ほど前。
社長に昇格を直談判した遼太郎は、部長相当のポストに就くことの条件としてここ、ベルリンへの転勤を言い渡される。
元々馴染みのある土地だから本人としては大きな問題はなかったが、任期が少なくとも3年近くに及ぶことから、家族が…妻が単身赴任を許容しなかった。そのため、小学校に上る直前の子どもたちも一緒にやって来たため、家族のビザ、学校入学の手続きなど、最初の一年は特に慌ただしかった。
そうして1年半が過ぎ、娘の梨沙は現地の小学校(Grundschuleと呼ばれているもの。ドイツでは通常小学校は4年制だが、ベルリンでは日本同様6年制である)へ通っている。2つ下の息子の蓮も来年小学校に上がる予定だ。
妻の夏希も家でぼんやりしているわけにもいかないが、かといってドイツ語はおろか英語もそれほど堪能ではないため、日本人コミュニティの会合やボランティアに参加したり、オンラインでの簡単なパート作業でお小遣い程度の稼ぎを得るなどしている。
***
遼太郎は大きな窓の向こうに傾く日差しに目を細めた。
12月のベルリンは15時台には日が沈むため、午後に入ればもう黄昏のような空気に包まれる。当然朝は、陽が昇る前から通勤電車に乗り込む。
都心だというのに高い建物が少なく、ポツダム広場の周囲にはそれらがいくつかあるものの、それ以外の場所では大体どこからでもベルリンTV塔が眺められる…、遼太郎の職場からもしかり。
遼太郎はこの、いかにも共産主義的な近未来感のある建造物が好きだった。Alexander Platz(アレクサンダー広場)にある世界時計も同様に。まるで子供の頃描いた未来の建物そのままで、初め見た時はちょっと笑ってしまったのだが、今となってはすっかり欧州の中でも洒落た街となったベルリンで、ぽつんと取り残されているような、それでいてそこにあると、時の流れに揺るがない存在感というか、それが好きだった。
小さくため息をついた遼太郎は午後の仕事に取り掛かった。
***
野島一家は、S-Bahn(ドイツ国鉄DBの電車)のSüdkreuz駅とTempelhof駅の間ほどにある、比較的新しいアパートメントに住んでいる。家具付きで、1部屋辺りはそれほど広くはないが3部屋ある贅沢さだ。とはいえ、家賃はそれなり。
近くには飛行場も併設するほどの広大な広場Tempelhofer Feldがあり、休日は子供たちをそこで遊ばせたりする。
梨沙の通う小学校も近いし、大きな病院もある。住環境としては良い所だ。
梨沙は絵を描くことが好きで、公園でよくスケッチをした。小学校でも梨沙の絵は有名で、とある駅の側にある壁画を児童数人で手掛けたことがあるが、彼女の感性は小学生のそれを逸脱するものがあった。
小学校の入学試験(ドイツでは入学前に健康診断や適性検査があり、パスしないと入学が難しいという)でも教師は梨沙の絵に目を見張った。
『この子は絵の力をどんどん伸ばしていくべきです。また周囲に大きな影響力も与えるでしょう』
蓮の方はどうも公園で遊ぶよりも電車に乗ることの方が好きなようで、自宅の最寄駅がS41(時計回り)・S42(反時計回り)というベルリンの環状線沿いにあることも相まって、幼稚園が終わると母親と「今日はS41、翌日はS42」という具合に飽きもせず乗った。時には路線図を熱心に眺め、U-Bahn(ベルリン市営の地下鉄)にもよく乗り込んだ。そのお陰か3歳にして駅名は網羅し、車内アナウンスもほぼ完璧に再現できた。思いがけない所でドイツ語の読み書きを向上させるきっかけとなった。あまりすることや行くところのない夏希も蓮のこの趣味のお陰でベルリンの街の概要は頭に入った。
遼太郎の弟、隆次は自閉症スペクトラムを抱えている。遺伝性が高いと言われているこれら発達障がいに対し、遼太郎自身はグレイゾーンだ。
けれど彼の子供たちはやや傾向が顕著なようである。
遼太郎は恐れていた。歳の離れた隆次がどれだけ生きづらい思いをしてきたか知っているからだ。
それでも遼太郎は大学進学と共に半分家を捨てたようなもので、同時に隆次とも距離が出来てしまった。大人になった遼太郎はその時間と行為をやや後悔し、隆次のために心を尽くすようになった。隆次もまた兄に対する偏愛を抱えながらも、自身も努力して今となっては生涯の伴侶を見つけるまでに至っている。
子どもたちは2人とも、感覚過敏なところがあった。
梨沙の方はどちらかというと苦手な対象が多かったが、蓮は音に関して強い関心があった。電車が好きなのも、巡りめくる景色もそうだが、どうやら聞こえてくる『音』も好きだったらしい。エンジン音はもちろん、車内アナウンス、ドアが締まる時のブザー音などなど…。彼は音楽の道をかじることになるが、そんな独自の耳の感性が影響したのだろう。
自閉症スペクトラムは、女性はその特性が外部にわかりにくいと言われている。発症率も男性と比べると低い。
梨沙はいくつかの事項は当てはまり、いくつかは当てはまらない。日本にいる頃から小児科・心療内科を受診しているが、はっきりと診断は下っていない。けれど感覚過敏…光や苦手な音が多いこと、視覚に対しては共感覚を持っていること。それに好き嫌いが激しいこと、人見知りが強いこと、学校でもあまり群れたがらないこと…要因となりそうな要素はたくさん持っている。
蓮は先にも述べたように電車が好きだし、駅名暗記などはこだわり行動とも取れるかもしれない。鉄道、そして音への関心。
日本にいる時に遼太郎が聴いていたピアノ曲が流れると、彼はピタッとそれまでの動きを止め、耳を澄ましているようだった。夏希の方が進んで蓮にピアノを習わせてみてはどうかと提案してきて、遼太郎は正直戸惑ったが、梨沙には伸び伸びと絵を書かせている手前、制限させるわけにもいかず、ベルリンに来てしばらくしてから音楽教室に顔を出すようになると、蓮は様々な生活音などをピアノで表現するようになった。彼の方は絶対音感でも持っているようだ。
そんな「尖った」子供たちの感性に遼太郎は目を細める。
そしてニヤリと笑う。
俺は中途半端なのに、俺の子供たちはなんてこった、と。
けれどそれが愛しくてたまらず、強く子供たちを抱き締めるのだった。
不確かなこの世界を生きる、不完全な俺から生まれた、完璧な存在。
***
「ボス、時間いいんですか? 労働貯金をこんなところで貯めないで、リザが待ってますよ」
(ドイツ語では "S" の発音が "Z" に近くなるため、梨沙は「リザ」となる)
同僚にそう声を掛けられ、遼太郎はハッと顔を上げた。時計を見ると15時半を少し回っていた。
「あぁ悪い。ちょっと考え事していた」
「大丈夫ですか? 業務効率が落ちている証拠ですよ。オフィスにいたって無駄です。とっとと帰ってリザを抱っこしてあげないと」
同僚の言葉に苦笑いを浮かべ、遼太郎は席を立った。
ウールのロングコートを羽織り、挨拶をしてオフィスを出る。
灰色の厚い雲が空を覆い、日暮れの時間も相まって凍えるような風が遼太郎の頬に吹きつけた。マフラーを口元までぐるぐると巻き、U-Bahnに乗り込んで梨沙が待つグルンドシューレに向かった。
END
『Berlin, a girl, pretty savage』へ続く