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【連載小説】あなたに出逢いたかった #34

遼太郎の実家のある県は日本海に面しており、数年に一度は豪雪となることもある。
年末に寒波がやって来るという予報通り、駅に降り立った時は既に視界は白く煙り、風がごぅっと鳴っていた。

移動は乗り換え乗り換え、ドア・ツー・ドアで4時間近くかけて陸路で来た。電車の好きな蓮のためだ。飛行機なら1時間半ほどだから空路と陸路と分かれて移動の案も出たが、結局全員揃って移動することにした。

長い道中、梨沙はドイツにいる陽菜から届いていたメッセージにまとめて返信した。数日前からドイツ旅行中の彼女から旅に関する質問やアドバイスを求めるメッセージを受け取っていたが、父親の年齢を訊かれたことはすっかり忘れていた。

改札を出ると、桁違いの寒さに蓮は騒いでいた。心なしか遼太郎は口数が少なかった。
梨沙は今だけは、夏希が心強い味方だった。夏に梨沙が一人で訪れたことを家族の中で唯一知っており、今回もそれがバレないように気を配ってくれていたからだ。

遼太郎はあまりタクシーを使いたくなかったが、荷物もそこそこあるしこの天候では致し方なく、家族は乗り場で待機しているタクシーに乗り込んだ。

以前は町名と "野島" と名乗れば家の前まで車がついた。あの家の関係者か、と思われることが煩わしかった。
道を覚えなくともナビに頼っていれば良い今でも名乗ったら家の前まで着くのかと遼太郎はぼんやり思ったが、町名とおおよその場所だけ告げ、名乗りはしなかった。

市街地を離れるにつれ、スタッドレスタイヤが雪を踏みしめる音から水っぽさが消えた。道路も汚れた雪からやがて、轍の残る白い道へと変わっていく。

梨沙はほとんど口を利かなかった。そういう意味では車内は蓮の声だけがよく響いていた。普段なら「うるさい!」と声を挙げるところだが、今はそれどころではなかった。雪に閉ざされた田舎町は、夏に見たそれよりもずっと憂鬱に映った。

やがて低い塀に囲まれた大きな屋敷が見えてくると、梨沙の心はますます沈んだ。垣沿いの松の木にはこんもりと雪が積もっていた。母屋の黒い屋根の上にも。

車を降りて家を見上げた遼太郎は唇を噛み締め、表情は硬かった。蓮は相変わらず家の大きさにも驚きはしゃいでいる。夏希が梨沙の背にそっと手を添えたことで、ハッと我に返った。

先頭に立った遼太郎は呼び鈴も鳴らさずに数寄屋門をくぐり、玄関でようやくベルを鳴らした。
出てきたのは祖母だった。そこで梨沙は驚く。まるで夏に一人で訪れた時とは大違いの態度だったからだ。

「まぁ、よく来たねぇ」

目を細めた祖母に、遼太郎は微かに顔をしかめたように見えた。いや、気のせいかもしれない。笑顔を作ろうとして失敗したとも見える。
祖母は遼太郎に笑顔を向けた後に、目線を落として蓮を見た時も笑顔だった。次いで夏希を、最後に梨沙を見た。その時はもう笑顔はなく、少し気まずそうな顔をしていた。それは梨沙も同じだった。

結局、祖父母には夏のことを念押しする事は出来ずにいたので、意地悪されて暴露されるのではないかと思ったが、遼太郎の前ではおくびにも出さずにいたので、梨沙は安堵の息を漏らした。

しかし安心ばかりしてもいられない。梨沙はここに来て重要な任務が2つあった。
1つは弓道部のアルバムと川嶋桜子の年賀状を元の場所に戻すこと。これは遼太郎が風呂にでも入っている隙に行えば良い。

もう1つは…。

「梨沙、ちょっと来い」

客間に通されて一息ついたと思ったらすぐ、梨沙は遼太郎に呼ばれた。

「納屋にあるはずだから、探しに行く」
「弓?」
「そうだ」

納屋はすっかり真っ白に染まった庭の隅にある。玄関で靴を履き、遼太郎の後に続いて外に出た。もう数センチ以上は余裕で積もっている真新しい雪は、目が眩むほどだった。そして全ての音を吸い込んでしまったかのようにしんとして、むしろ耳障りなほどだった。

遼太郎が付けた靴跡の真後ろを踏んで進む。新雪を踏むのは楽しいはずだが、乾いた雪の軽い感覚は張り合いがなく、不安にさえ感じた。

遼太郎が納屋の鍵を開け、建付けの悪そうな扉をやや力を込めて開けると、埃の匂いと一層凍える空気が襲いかかるように梨沙を包んだ。明かり取りの窓のから差し込む白い光が空気中の埃を反射させ、小さな妖精が絶望的に地に降り注ぐかのように見えた。
隅に荷物がいくつか置いてある他はがらんとしていた。遼太郎はしばし、ただ立ち尽くしていた。

ここは彼が子供の頃、祖父から剣の稽古を受けていた道場でもあった。一年中ここで稽古を受けていたのに、思い出すのは今日と同じように雪が降る、冷たく暗い冬の日だった。

「…パパ? どうしたの?」
「いや…」

短く返事をすると一礼をし、左奥へ向かって進んでいく。そこには巻藁が置いてあり、更にその横に壁に立てかけるように布に包まれた弓らしきものが数本置かれていた。遼太郎はその内の1本を手に取り布をとく。
古くてボロボロのものが出てくるかと思われたが、それは驚くほど艷やかに黒く輝いていた。遼太郎もしばし見入り、やがて愛おしそうに撫でるように指を滑らせた。

「それ…子供の頃使っていたやつ?」
「これは高校時代に使っていたやつだな」

高校、と聞いて梨沙はドキリとする。アルバムの中の遼太郎の姿を思い出す。川嶋桜子の姿も。

遼太郎は弓柄ゆづかを握り、末弭うらはず(弓の上部の先)を感慨深げにじっと見上げた。そしておもむろに持っていた小さなトートバッグから何かを取り出した。

「それはなに?」
つるだよ」

遼太郎は都内で予めいくつかの安価な消耗品を入手していた。紫色にこよられた弦の端を末弭うらはずに掛けると柱にあるくぼみにそれを差し込み、弓に体重をかけて反対の弦の端を本弭もとはず(弓の下部の先)にかけた。弓がしなり、弦がぴん、と張られた。何度か弓手ゆんでの中でくるくると弓を返すと「ちょっと持ってて」と梨沙に手渡した。

遼太郎は再び隅で探しものをした。出てきたはグローブのようなものでかけと呼ばれ、馬手めてを守るものである。

「色々だいぶ劣化している。当たり前だけど。まぁ今は仕方ない」

着ていた白いセーターを脱いで長袖シャツ1枚になると、かけ馬手めてに着け、梨沙から弓を取り巻藁の前に立った。梨沙は床に落とされたセーターを拾い、抱えた。フワッと立ち上がる匂いと残る温もりに、胸の奥がぎゅっと熱くなる。

以前梨沙も教えてもらった射法八節のひとつひとつを確かめるかのように、まずは何度か素引きをした。そうして右肩をグルグル回したかと思うと巻藁の横から矢を2本取り出し、再び巻藁の前に立った。

「梨沙、俺の少し下がって見てて。矢の先には立たないで」

言われた通り梨沙は彼の正面よりやや後ろに立った。
矢を番え、打ち起こし、ゆっくりと胸を開くように引いていく。
弓手ゆんでが震え、思ったよりもあっという間に矢が放たれる。ドスンという重い音を立てて矢が巻藁に刺さった。

「ゴム弓でリハビリしたとは言え、本物はだいぶ引いてないからきっついな」

遼太郎はそう言って苦笑いした。しかしその次の瞬間はもう真剣な表情に変わる。真剣というか、無だ。
何度か繰り返すと感覚が戻ってきたのか、ひとつひとつの所作をじっくり丁寧に引き始めた。

ゆっくりと顔を的へ向ける。目は真っ直ぐ的を見つめたまま打ち起こし、ゆっくりと引き下ろす。会に入った時、わずかに瞳が細められる。ほんの一瞬、わずかに。

写真の中で見た高校生の、試合中の遼太郎と同じ瞳がそこにあった。もちろん時の流れは当然彼の上にはある。
けれどその瞳の鋭さは全く変わらない。

梨沙は胸が熱くなった。

10分か、15分ほど引いただろうか。遼太郎が再び肩をグルグル回すと「限界だな。今日はここまで」と言って弓を下ろした。

梨沙は余韻に浸っていた。
やや放心気味に立ち尽くす彼女を余所に、遼太郎は元弭もとはずから弦を外すと元のように弓に布をくるくると巻いて包んでいった(これは弓巻ゆまきと呼ばれるものである)。そしてトートバッグに弦やかけをしまい、梨沙の手からセーターを取った。

他の立てかけてあった弓も弓巻きを外して状態をチェックし「これらは処分するか」と小さな声で言った。

「私はお下がりもらえないの?」
「弓には引く力のキロ数があって、俺の弓だと重すぎて梨沙は引けないと思う。本気でやるなら自分用のを買わないと」

そう言って、引いていた弓を携えた。持ち帰るようだ。

梨沙は黙って頷いた。
納屋は冷え冷えとしていたはずだが、梨沙の身体はうっすらと汗が滲むほどだった。





#35へつづく

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