【連載小説】あなたに出逢いたかった #19
道すがら稜央が藤井にメッセージを送るためにスマホを取り出すと、遼太郎が "おやっ" といった顔で見やった。
「それ…」
言われてハッとした。会う前に外そうと思っていたベルリンベアのキーホルダー。すっかり忘れていた。
「あ、これは…」
「ベルリン、気に入ったか」
遼太郎の言葉は思いがけなかった。まさか梨沙が…あなたの娘が…僕の妹がくれたんだよとも言えず、曖昧な表情を浮かべる。
「あ、うん…」
「まぁ日本人観光客に合う街とは、よく聞くけどな」
「そういえば父さんはどうしてドイツで働いたりしてたんだっけ…完全に会社の都合だけなんだっけ…」
「学生時代から関心はあったよ。大学の専攻は全く関係ないけど」
「どうして関心を持つようになったの?」
「まぁ、当時縁のあった人間関係で、と言っておくかな」
稜央の母親、桜子との縁が切れたきっかけでもあるなと思い、言ってしまってから遼太郎は少し苦い思いをした。
どこのバーも混んでいたが、辛うじてカウンターに2席空きのある店に入ることが出来た。そこで稜央はジンジャーハイボールを、遼太郎はマッカラン12年のロックを注文した。
乾杯で重ねるグラスの密やかな音が、2人の間柄を表しているようだった。
「…桜子は元気か? 体調崩したりしていないか?」
「うん、ずっと元気だよ…最近話してないの?」
「最近どころか、もう長いこと話してない」
そう言って遼太郎は視線を外し、どこか寂しげに目を細めた。
「…気にしてくれてるんだね」
「気にならないわけ無いだろう」
僕は梨沙のことを気にしてはいけないっていうのに、と稜央は思ったが、まぁ当たり前か、とも思い直した。いや、それよりも『気にならないわけがない』という強い言葉に驚いた。
「本当に元気にしてるよ。風邪すらあんまり引かないし」
「それは逞しいな。俺は最近どうもガタが来ているようだから」
「え、どっか具合悪くしたの」
「病院の世話にはなったが、大したことはない。ただまぁ、若い頃と同じようには走れない、ということだな」
そう言った後、一瞬間を置いて遼太郎は思いがけず笑みを浮かべた。着実に老いていく自嘲なのか、それとも桜子を懐かしんでいるのか。稜央にはわかりかねた。
「母さんと最後に会ったの、いつ?」
そう聞かれて遼太郎の脳裏に浮かんだのは、稜央がオーケストラを従えてピアノを弾いた時のことだ。もう7~8年ほど前になる。ドイツ赴任中だったが招待され、一時帰国のついでもあったので観に行った。
誰にも声を掛けずに会場に赴き、後方の席でひっそりと見守ってすぐに出ようと思っていた。
しかし正直、稜央がおそらく苦心したであろう姿を目にして、しばらく立ち去ることが出来なかった、そうこうしている内に、前方の座席から歩いてくる、母娘と思しき女性2人が目に入った。
すぐに桜子だとわかった。遼太郎は逃げるように慌てて立ち去った。
隣にいたのは…あの時の子供かもしれない。
更に遡ること、12年前。
遼太郎が結婚の挨拶のために夏希を連れて実家を訪れた時のこと。
何となく母校の高校を訪れた。理由もきっかけもわからないが、気がつくと目の前に、あの頃の自分に似た学生服の後ろ姿があった。まるで導かれるかのようにその後をついて行くと、出くわしたのが桜子と、彼女の娘。
あの時の娘だとしたら、ちょうどあれくらいの年頃だろう。
ほんの一瞬でも視界に入っただけで、すぐに桜子とわかってしまった。
いくつになってもいい女だと思った。よく考えれば、遼太郎が一目惚れをした相手は後にも先にも桜子しかいない。
遼太郎は辛うじて7~8年前に見かけてはいるけれど、彼女の中ではとっくの昔で時は止まっているはずだ。こんな歳を重ねた俺の姿を見たらがっかりするだろうなと、思いがけず寂しさが襲った。
「俺が結婚する前じゃないかな」
「え、そうなんだっけ…。あ、電話で話したりしただけで、会ったわけじゃないのか…」
「どの面下げて会うっていうんだよ」
遼太郎は呆れたように、けれどやはり寂しげに笑った。
「俺が桜子に会いたいと言ったら、会わせてくれるのか」
「…会いたいと思ってるの?」
「訊いているのは俺だ。どうなんだ」
遼太郎は少し酔いが回っているようだった。
桜子は以前、もう遼太郎以上の男性は現れないだろうと言った。会いたい気もするが、会ってはいけないとも。
桜子が一番、わかっている。
「母さんは、会いたがらないと思う…」
「…だろうな」
遼太郎は言葉とは裏腹に、どこか意表を突かれたようであった。
「寂しい?」
「いや。冗談で言ったんだよ」
そうは言いながらも、その表情には翳がよぎる。
「お前を見てると、どうしたって思い出すんだよ。そりゃそうだろう。お前の存在の向こう側に絶対にいるんだから、彼女は」
「…どうして母さんと別れたの」
稜央はついに訊いた。いや、以前も訊いたかもしれない。けれど今夜彼が答えることは、以前とは違うはずだという確信があった。
遼太郎はしばらく口を開かなかった。考えているのか、思い出しているのか。だとしても愉快な思い出ではないはずだった。彼の眉間によった皺がそう語っている。
やがて表情を緩めるとマッカランを一口含み、言った。
「俺が頭のおかしな男だってことはお前もよくわかってるだろ?」
「狂気の沙汰で別れたっていうの?」
「そうだよ」
稜央は遼太郎の横顔を凝視すると、彼はゆっくりと顔をこちらに向けた。その瞳に映る自分をも見た。瞳は怒りに似た力が漲っていたが、やがてフッと、炎は消えた。
「…わからないんだよ」
呻くように言った遼太郎は、すっかり人が変わったように弱く、萎れていた。
「どうしてチェリンを捨てたのか…わからない。あの頃の俺は金が無かった。仕送りを断っていたからな、偉そうにさ。大学の友人を通して知り合った女が飯を用意してくれたりして、そのうち彼女の家に入り浸るようになった。でも好きになったわけじゃない。チェリンの事を考えていた…。そう言えば高校時代もそんな事があったな。チェリンのこと大好きなくせに俺、どうでもいい女と付き合ってた。
あの頃の俺は一体何を考えていたのか…今でもわからない」
遼太郎は額に手を当て嘆く。彼の中で時が戻っている。チェリンとは彼が高校時代に付けた桜子のあだ名で、愛しさを込めてそう呼んでいた。
「父さん…」
「だからこそ、俺の人生に最も深い傷跡を残してしまった。何度も夢に現れたこともあった。別れていなかったら…」
稜央は息を呑んだ。とんでもないことを言う予感がした。
「いなかったら…?」
しかし遼太郎は力なく笑い「たら・ればの話をしたって仕方ない」と言った。
「やっぱり僕が現れると、父さんを苦しめるよね」
ポツリと稜央が言う。遼太郎は顔を上げた。
「あんまり会わない方がいいんだろうな」
寂しいけれど、俺だってもう子供じゃない、と稜央は思った。
遼太郎は何も答えず、バーカウンターの一点をただじっと見つめていた。
溶ける氷がグラスの中で揺れた。
*
店を出た2人は駅に向かって歩き出す。10月の夜風が優しく頬を撫で、少々荒ぶった心を落ち着かせてくれた。
「ホテルは近くか」
「うん、すぐそこ」
そこで遼太郎がスマホをチェックすると、途端に怪訝な顔になった。
「…どうしたの?」
「いや、何でもない」
そのままスマホをポケットにしまい込んだが、曇った表情は消えなかった。
「…じゃあ、今日は来てくれてありがとう」
「あぁ…」
「もう…あんまり会わない方がいいよね…」
「そもそもそんなに会ってないだろ。どっちでもいい。お前が会いたくないなら連絡しなければ済むことだ」
稜央は自分から言いだしたくせに、それはそれで寂しく思う。父からはもう会うことはどちらでもいいという投げやりなニュアンスにも捉えられた。
「…身体、気をつけて」
「ありがとう」
「何かあったら…連絡…して」
「…」
矛盾した稜央の言葉には答えず、遼太郎は “じゃあ” と軽く手を上げて背を向け、駅に向かって歩き出した。振り返りもせず。
稜央は思った。
いつも父との別れ際はこんな風に寂しくてたまらない。何故なんだろうか。
けれどもうその背中に声をかけることは出来なかった。
#20へつづく
※稜央がオケに参加する逸話はmay_citrusさんの『旅の続き 第6話』によるものです。
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