【連載】運命の扉 宿命の旋律 #55
Oratorio - 聖譚曲 -
稜央が萌花のマンションに戻ると、彼女は心配そうに稜央を見つめた。
「稜央くん…大丈夫?」
稜央は答えることが出来ず、ベッドにうつ伏せに倒れ込む。
「稜央くん…」
「俺、本当に最低な人間ってつくづく思った。子供の頃からわかってたはずなのに。最近調子に乗ってた。ほんとマジで最低」
「何が…あったの?」
稜央は顔だけ萌花の方に向けた。ダイニングの灯りを背にしているため彼女の顔は暗くなってよく見えなかった。
「アイツ…死ぬかもしれない」
「えっ…!?」
稜央は再び突っ伏して頭を抱えた。
「アイツ…怪我の傷口開いちゃって…、おまけになんか薬飲んだらしくて…ヤバいやつ大量に。それでずっと意識がなくて…」
萌花は両手で口を覆った。「自ら死のうとしたって…こと?」
「わからない。アイツ変なこと口走ったんだ。”お前の思い通りになったな” って。本当にそうなのかなって考えながら帰ってきたんだけど…全然わからなくなっちゃって…。俺、本当にこうなることで満足したのか、望みが叶ったぞって晴れ晴れするのか…いや、全然してないんだよ…」
話しながら嗚咽が込み上げてくる。
アイツを苦しめたい。
それが望みのはずだった。
実際アイツは…苦しんだのだろうと思う。今朝の狂気に満ちた表情は忘れられないだろう。
しかし実際にそんな姿を見たら…そう。想像とは違ったのだ。
遼太郎の苦しみは悲壮感ではなく…憐れな姿でもなく、狂気だった。
その姿は正直、稜央を圧倒した。
笑みさえ浮かべて苦しみと怒りを露わにしたあの姿に圧倒され、稜央は屈したのだ。
母と自分を捨てた憎い男なのに…。
母が今でも愛していると言うだけはあるのだとわかった気がした。
強烈で、危険な魅力を纏っているのだ。
思えば初めて見たときから、揺さぶられたんだ。
自分と似ているのに、自分とは大きく異なる威厳、凛々しさ。
それが自分と最も結びつきの強い男であることへの妬み、羨望、そして喜び。
その男の血が…自分の目にも映ったあの赤い血が自分の中にも流れているということに、稜央は微かな興奮を覚え始めていた。
しかしその命の火が消えるかもしれない…。
「アイツがもし死んだら…母さんなんて思うか。そして俺は永遠に父親を失うんだと思ったら…なんか変な気持ちになって…」
「どこの病院? すぐお見舞いに…」
「病院は近くだけど、アイツの身内がいて近づけない。アイツの嫁は俺を拒否ったし、弟っぽいヤツが怒り狂って俺を追いかけてきたりした」
「…」
「俺…どうすれば…」
萌花は稜央の背中にそっと触れ、思った。
あの人が、死ぬかもしれない。
しかも、自ら選んで…?
兄のことがよぎる。
あってはならない。自ら命を絶つなんて決してあってはならない。
お兄ちゃん、どうか助けて。稜央くんのお父さんを助けて。
そして、稜央くんを助けて。
萌花は言葉に出来ない代わりに胸の内で祈った。
必死に祈った。
* * *
翌日も魂が抜けたような状態の稜央に、萌花は一緒に行くから病院の近くに行くだけでも行ってみないか、と提案した。
稜央は首を横に振り、項垂れる。
「俺…帰るよ。もう東京にいる意味がない」
「稜央くんそんな…せめて無事がわかるまで近くにいてあげようよ」
「いてあげようって、俺はそんなことする資格ない」
萌花も急に不安になる。
最近の自分たちを繋いでいたものは稜央の父親だった。
東京にいる意味がないと言うことは、自分とも遠ざかっていくのではないかと思った。
いいえ、そんなわけない。私たちはもっと根底で繋がっているはず。
そう信じたかった。
そんな萌花の気持ちを察したか、稜央が虚な顔を上げて言った。
「勝手過ぎて自分が嫌になる。そもそも今ここにいるのは俺が全部差し向けたことなのに。今はいるのがつらい。だからと言って帰っても母さんに合わせる顔がない。俺、マジでどうすればいいんだ…」
萌花は稜央を背後から抱き締めた。
「こうなったことは仕方ないよ。でもお父さんが無事かどうかは確認しよう? そうしないとこれから先もずっとずっとつらいままだよ。病院行って様子聞いてこようよ」
「もし死んでたらどうする?」
「それは…」
稜央は肩を震わせる。萌花もそれ以上何も言えず、ただ黙って抱きしめるしかなかった。
* * *
結局稜央は翌日の夜行バスで帰ることにした。
無言で荷物をまとめる稜央を見つめながら、萌花は不安な気持ちでいっぱいだった。
"次はいつ会える?"
それが一番気になる事だが、今訊くのは憚られる。
胸が詰まりそうだった。
まとめた荷物を前に稜央がひとつため息をつくと、目線を合わせずに小さな声で言った。
「落ち着くまで…しばらく会えないと思う」
萌花の胸を貫く冷たい言葉だった。
「落ち着くって…」
「わからない…」
「もう二度と会えなくなっちゃうってことはないよね?」
「…」
萌花は手足の先から凍りつくような恐怖を覚えた。未来が見えないことがこんなに恐ろしいとは。
「しばらく…アイツのことを感じるもの全てから遠ざかりたい」
「そんな…私もその対象になるの…?」
「俺のせいなんだ。俺が全部悪いんだ。萌花は何も。ごめん、許してくれ」
「嫌いにはならないよね…?」
「嫌いになんか…」
稜央は最後まで言葉をつなぐことが出来なかった。
そしてその夜、バスターミナルまで送るという萌花を制して、稜央はひとり帰っていった。
* * *
3日後。
大学が始まったにも関わらず放心気味で何をしてよいかわからずにいた萌花。
インターンシップのレポートをまとめなければならなかったが、胸がズキズキと痛む。
萌花もまた、この夏の出来事は苦い思い出になってしまった。
稜央にメッセージを送っても既読はつくが返信はなかった。
辛くて仕方がない。
買い物で近所のスーパーに入っても、稜央と2人で買い物した時のことを思い出して、また泣きそうになってしまう。
コンビニで済ませよう。
萌花は何も買わずにスーパーを後にした。
静かな夜だった。虫の声が聞こえ、もうそんな季節なんだっけ、とぼんやり考える。
ふいにスマホにメッセージが入った。
稜央からかと思って急いでポケットから取り出し、相手の名前を見て萌花は目を見開く。
「野島さん…!」
遼太郎からだった。
慌ててメッセージの中身を確認する。
生きていた。
萌花は強い安堵で眩暈がする思いだった。一刻も早く稜央に知らせないと、と思ったが、そのまま遼太郎に返信した。
するとまたすぐに返信があり
と返ってきたのを見て、萌花は少し苛ついた。
やや感情的になって送ってしまったが、その後遼太郎からの返信はすぐには来なかった。
萌花は稜央に電話をかける。しかし出てはくれなかった。
仕方なくメッセージを入れた。
こんな時に限ってなかなか既読が付かない。萌花はもどかしい気持ちで悶そうになった。
そして肩を落とす。
灯りのない部屋に戻り、ため息をつくと電話の着信があった。
急いでスマホを取り出すと、稜央からだった。
「も、もしもし…」
『無事だったって…萌花のとこに何てメッセージが来たの…?』
「彼氏はまだいるのか、って。稜央くんがすごく心配していたことを送ったら、信じられないっていうようなリアクションが返ってきたから、今はそういうやり取りが出来る状態なんだと思うよ!」
電話の向こうは押し黙ったが、やがて嗚咽が聞こえてきた。
「稜央くん…良かったね。もうきっと大丈夫だよ。安心して」
萌花は自分にも前向きになってくれるのではないかと期待を込めた。
彼の背後で風の音がする。おそらく家を出てきたのだろう。
ただただ稜央は電話口で泣き続けていた。
#56へつづく