Your scent is a felony #2-6. Miss Dior
外に出ると雨が降っていた。空気も思った以上にひんやりとしていて、思わず首をすくめた。
次長が空を見上げたので、私は「傘、あります」と鞄から取り出した。
「傘、俺が持つよ」
そう言いながら次長はスーツのジャケットを脱ぎ、私の肩に掛けた。
「え…?」
「冷えるだろう?」
「でも」
それでも彼は黙って傘を右手で持ち、駅まで数分の距離を並んで歩いた。言葉もなく。
肩に掛けられたジャケットはたった今まで次長が羽織っていた温もりと匂いがあった。
そう…彼も香りを持っている。でも何の香りだろう?
でも決して主張して来ない。ただ感覚に働きかけられているような感じだった。
ただその時の私は彼の表情を知るのが怖くて、視線を落として歩いていた。
メトロの入口に着き、彼が傘を畳んでやっと気がついた。
彼の左肩が、雨に濡れていた。
「次長…! 傘にちゃんと入ってなかったんですか?」
私の方は全く濡れていない。肩に掛けたバッグさえも。
持っていたハンカチタオルで彼の肩を拭こうとして、息を呑んだ。
濡れたシャツが張り付いた肌に、はっきりと "痕" があるのが見えた。
1年前の事件を鮮明に思い出す。
私が気づいたことに彼も気づき、右手で "痕" を隠した。
「嫌なこと思い出させたな」
「いえ…」
否定の言葉を出すものの、私は震えていた。寒さのせいだけではない。
彼は私の肩を抱いて、階段を降りた。
メトロの出入口の人通りは多くはなかった。
降りたところの通路を改札方面には行かずに、既に閉まっているKIOSKの陰に隠れるように私を連れ込んだ。
私はハンカチタオルで彼の肩を拭き、借りていたジャケットを彼の肩に掛けた。
「次長…どれだけつらい思いをされたのでしょう…それを思うと私なんて…」
「前田」
彼はいつになく厳しい表情で私を見つめていた。
「もし俺に妻も子供もいなくて、独りとして前田に出逢っていて、お前のことを受け入れていたら…そんな風に自分を犠牲にせずに済んだか?」
「えっ…?」
「もし俺が前田のことを受け入れていたら…」
彼の表情は哀しみに歪む。
私はまた思い出す。1年前。
彼はある青年に襲われ、左肩に怪我を負った。その現場に私が出くわした。
病院で治療を受けた後にあなたのマンションへ向かうタクシーの中で、あなたが私にもたれ掛かった時の、髪の匂い。
タクシーを降りようとしたあなたがふらついて、それを支えようとした時、ほんの数センチの距離で感じたあなたの熱を持った瞳と吐息。
「次長…」
「わかっている。『たら・れば』の話に何も意味がないことぐらいわかっている」
次長は通り行く人の目から私を隠すように背を向け、私を壁に寄せると両腕を私の背中に回した。驚いて息を呑む声が漏れた。
彼の腕は力強かった。
あの時タクシーの中で私がそうしたように、彼は私の髪に唇を寄せた。
「変わった」
「な…何が、ですか…?」
私は震えている。
「香水」
「え…香水?」
「今まで香っていたのと違う」
「そ…そんなところに気がつくのですか…?」
「今日、待ち合わせた時に気づいた。風にのって…ほんの少し香った」
予想外だった。彼が香りでもはっきりと私を認識していることに。
しかしこれでは彼に香りが移ってしまう。これから家に帰るというのに。
けれどその後、もっと予想外の事が起こった。
「キスしていいか?」
耳元で言われたのに、耳を疑った。
「えっ…なんて…」
「聞こえなかった?」
「…ダメです…」
「ダメなの?」
私が何かを言おうとすると唇が触れてしまいそうな距離まで彼は近づいていた。
「次長…絶対後悔しますよ…今はお酒も入っていますし…絶対後悔します…」
それでも私を覗き込む瞳は甘く切なかった。
私は目を閉じてしまう。
温かく、唇が触れるのを感じた。
「どうして…」
「理由が今、必要?」
次長は仕事の時のそれとは全く違う、甘く優しい声で訊く。それだけで私は溶け落ちてしてしまいそうになる。
「だって次長は…私の事は相手にしないと…」
彼は両手で私の頬を包み、額をぶつけて言う。
「言った…確かに…」
「だから…どうして…」
彼の瞳に戸惑う私の姿がはっきりと映っている。
彼は激しく唇を重ねてきた。
背中を弄っていた彼の右手が私の頬を撫で、耳の後ろを滑り後ろ髪をすくった。
まるで雨に打たれた熱に浮かされているよう。
私は恐る恐る自分の両腕を彼の背中に回した。
濡れたはずの彼の身体は熱かった。
互いの唇を、舌を貪る音が、意識を掻き乱していく。
熱い吐息を感じながら濡れた唇が離れていくと、彼は私を再び強く抱き締めた。
「似合ってる」
「…何がですか…」
「香水。なんてやつなの?」
「Miss Diorです。Christian Diorの」
「Miss Diorか。名前まで気品のある前田にピッタリだな」
「そんな…万人受けする香水です…誰が付けても…」
「じゃあ、その万人たちはたまらないな。前田の外側からも内側からもにじむ美しい女性がこんな香りを纏っていたら、敵わないよ…」
恐る恐る見上げた、間近にある彼の瞳には、やはり困惑が見られた。
そして…泣きたくなる程、哀しみを湛えていた。
彼は私の首筋に唇を押し当て、舌を這わせる。時折噛むように歯を立てる。
「次長…だめです…」
何も言わずに彼は耳の後ろにもキスをする。
「甘い…」
掠れるような彼の声が肌を通して伝わる。
だめ。
香りが移ってしまう。彼を苦しめることになってしまう。
そんなつもりはなかったのに。
見ていられなくて視線を落とすと、顎を持ち上げられた。
そして3度目のキス。
今度はとても柔らかく、蕩けるように温かい舌を差し入れてきた。
唇が離れると彼は私の頭を抱きかかえた。私の目の前には左肩の傷痕。
私はそっとその傷痕に頬を寄せた。濡れたシャツでも、肌の熱さが伝わった。
明日、彼が “正気に返ったら” 、私のことを冷たい目で見るのではないか。
私のことを避けるのではないか。
それが不安で。
今この溶け落ちる甘いひと時よりも、明日のあなたが不安で。
つらい恋って、こういうことよね、と改めて思わされる。
あなたがこんなに近くにいて、甘く囁いてくれるのに、不安なのは。
あなたが既婚者だから。
どんなに甘くても私には未来がないから。
時間が経てば変化して消えるperfumeのように。
* * *
反対のホームに立つあなたは、私が電車に乗り込んでもそこに立ったまま、私をじっと見つめている。
私もドアの窓に顔を寄せ、手をついてあなたを見つめる。
やがて電車が動き出す。
あなたは手を振ることもなく、何かを堪えるように唇を噛み締め、私を見送った。
電車はすぐにトンネルの闇に吸い込まれた。
Miss Dior。
薔薇をはじめとする幾千の花々が眠るように閉じていくラストノート。
散り堕ちる花びらが一枚、あなたの口許にたどり着いてしまった。
ため息をついたその時。
窓に映った自分の姿を見て気付く。
あなたも私の首元に真紅のRose petalを落としていったことを。
Fin.