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Your scent is a felony #2-4. Miss Dior


終業時間。

「お先に失礼します」
「あれ、前田さん。今日は早いですね」

いつも大抵1時間は残業する事が多いので、定時を少し過ぎたくらいだと珍しがられてもおかしくない。

「今日はちょっと予定があって」
「そりゃありますよね。っていうか前田さんはちょっと働きすぎかもしれません。働き方改革に反してます!」

飯嶌さんはちょっと厳しい顔つきをしてペンを立ててそう言ったかと思うと、すぐにニコニコと屈託のない笑顔になる。

「飯嶌さんこそ、いつも私より遅いじゃないですか。人のこと言えませんよ」
「僕はいいんですよ」
「何がですか」
「まぁ、色々」

まったく。彼は本当に憎めない。

「じゃ帰ります。お疲れさま」
「お疲れさまでしたー!」

フロアを出てトイレに向かう。

約束の時間まではまだ1時間半近くあるけれど、入念に準備をして、時間に余裕を持って待ち合わせ場所に向かうため、早く上がった。

あともう1つ。

次長が上がるよりも遥か前に上がる必要があると思ったから。

歯磨きをしマウスウォッシュをした後、鏡に向かいメイクを直す。

私の髪は黒だからアイブロウはダークブラウン、アイライナーは滲まないペンタイプで、これもダークブラウンで強すぎない印象を作る。

マスカラは黒。ボリュームは決して盛りすぎず、長さも盛らない。ダマにならないことだけが大事。

アイシャドウはオレンジやピンクがほんの少し入ったベージュにして、重くならないようにする。

カラコンは入れない。瞳は誤魔化したくないから。

ほんのりゴールドの入ったピンクベージュのチークも薄く引く。
淡い同系色のルージュを引き直す。派手でも地味でもいけない。
そこに桜色のグロスをほんの少しだけ重ねる。

春だから、ね。

髪にブラシを入れ、服に髪の毛が付いていないかチェックする。

最後にカバンからperfumeを取り出す。

Miss Dior。

最近リニューアルし、香りが少し変わった。
瓶にもクチュールをイメージする華やかなシャガード織のリボンが付いている。

少し前まではDiorのBlooming Bouquetを愛用していたが、もう30歳も過ぎて、弾けるような甘さと華さでは恥ずかしいかなと思い、新しくなったと聞いて試した香りが何となくいいなと思って、切り替えた。

トップノートにピオニーのスパイシー感とジャスミンが立つのがやや特徴的だが、ミディアムになるとバニラやバラ、アイリスが甘さを増して香る。

耳たぶの後ろに吹きかけようとし、手を止める。

彼に匂いが移ってはいけない。たとえ僅かでも。

でも。

彼はそこまで私に近づく事はない。抱き締める事はおろか、触れることさえないだろう。

であれば。
これは私のエゴ。

彼の記憶に、彼の中だけに私を残したい。
香りは記憶と密接に繋がるから。

左の手首にほんの少し吹き付け、それを両手首に擦ったあと、耳たぶの後ろに一度だけ擦り付けた。

トイレを出ると、飯嶌さんと鉢合わせした。

「あれ…まだいたんですか?」

お先に、と言ってから30分ほど経過しているから、無理もない。

私が返答に困っていると、飯嶌さんは一度鼻を鳴らし、私の顔を見てちょっと呆気に取られ何か言おうとしたが、察したのか “お疲れさまでした” とだけ言ってフロアに戻って行った。

私は足早にオフィスを出た。

雨が降り出しそうな空だった。

待ち合わせの場所はメトロで1駅先にある大きな書店の中。歩けない距離ではないけれど、汗をかいてもいけないからメトロに乗る。

何となく職場の近くを避けたくなってしまったが、彼にしてみればコソコソする必要はないし、返って迷惑だったかもしれない。

けれどすんなりと「いいよ」と言ってくれた。

メトロの階段を上がれば目の前にその書店がある。
私は階段を登りきった所で足を止めた。

彼は既に、そこにいた。

しかも店の中ではなく、外の壁にもたれて、通りを見ていた。

「次長…」

約束の時間までまだ30分近くあるというのに。
呆然と立ち尽くす私に彼はすぐに気づき、相好を崩した。

私は足早に駆け寄る。

「まだ…時間までだいぶありますけど…」
「タイミングが良かったから早めに上がったんだ」
「中で待っていてくだされば…」
「たまには人間ウォッチングもいいかな、と」

予定がほんの少し狂っただけで…しかも思いがけない素敵な方向に狂ったことで、私の胸は少女のように高鳴る。

恋なんて初めてじゃないのに。

ましてや報われない恋ばかり重ねて、Blooming Bouquetを卒業して…いくつになったというの。

そんな私の様子を彼は怪訝な顔もせず、穏やかに見つめている。

「少し早いけど、まぁ入れるだろう」

予約した店のことを言っている。私は黙って頷き、彼の半歩後ろを歩く。

歩きながら彼がほんの少し振り向いたので「なんですか?」と訊いたら「いや」と再び前を向いて歩き出した。

今回の店は私が選んだ。日本酒の店だ。

1本裏通りに入り、更に地下への階段を降りていくと、奥に小さなドアがある。

少しあからさまな "密会用" な感じが少し恥ずかしかったが、次長は「こんな場所にこんな店があったんだ」と少しはしゃいだ様子で、安心した。

個室とまでは行かないけれどきちんとした仕切りがあって落ち着く店だった。
幸い、一番奥まった場所にある一角に通してもらう。

「日本酒の店を選ぶとは、さすが前田だな」
「前回がワインでしたので。それに次長は日本酒もお好きだったと思いますので」

次長はにこやかに日本酒のメニューを開いた。

「前田の地元はどこだ?」
「私の出身は□□県です。北関東の田舎なんです」
「じゃあ…これがいいかな」

そう言って彼は私の出身県のお酒を指した。

「そしたら2杯目は…次長の地元のお酒にしましょう」
「呑む気だな…いいよ」

いいよ、という砕けた言葉と穏やかな表情に、ズキっと差すような熱が身体を射抜く。

お酒は常温で頼み、鮑の塩辛や百合根のバター炒めなどを併せて頼む。日本酒もややパンチのあるものだったし、私も香水をほんの少しだけど付けてしまっていることから、お料理も少し濃いものを選んだ。

やがて一合徳利に入ったお酒と美しい陶器のお猪口が2つ、運ばれてくる。
次長が徳利に手を伸ばしたところで、私がそれを制した。

「次長、ここは日本です。今日は日本酒です」

次長は笑った。そしてお猪口を手にした。私は一つ呼吸して、徳利の首を持つ。
何とか震えずに注ぐと、すぐに次長が徳利を持って、私にもお酌をしてくれた。

「じゃ、お疲れさま」

小さく杯を合わせる。次長は一口飲んで笑顔を浮かべた。そして次の一口でもう空けてしまう。

「次長、ペース早いです」
「デリカシーが無いよな」
「いえ、日本酒なので豪快でも良いと思いますけれど」

私が徳利を手にすると、次長はお猪口を差し出した。
この一連の所作が、なんかいいな、と思う。

「□□県って、たまに帰ったりしているのか?」
「いえ…年末年始くらいですかね…。次長は…確か○○県でしたよね。ご両親はご健在なんですか?」
「うん」
「少し遠いですが…やはり今でも帰りますか? ご実家のご両親もお孫さんに会いたいですよね」
「ん…俺はあまり帰らないんだ」

この日初めて、彼は表情を曇らせた。

「あ…そうだったんですね…」
「親不孝者なんだ、俺は」
「そんな…」

彼は流れてしまった気まずい空気を振り切るように笑顔を作って杯を空けた。
そのため、速いペースで一合が空いてしまった。

頼む? と彼は目で訊くので、私は黙って頷いた。あまり帰ることはないと言った彼の地元のお酒を頼んでいた。

次長の地元で思い出したことがある。
昨年のインターンシップで、彼の後輩にあたる学生が参加してきた。

そして大きな事件を引き起こした。

それと「親不孝者」と言った次長の表情から、彼の故郷に対する思いに翳を感じた。

運ばれてきたお酒を、先に私に酌をしてくれた。

彼はどんな思いでこの故郷のお酒を呑むのだろう。



#2-5へつづく

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