【連載】運命の扉 宿命の旋律 #12
Pavane - 行列舞踏曲 -
稜央は萌花の腕を摑んだまま言葉もなく、高校から少し離れたところにある土手へ連れ出した。
12月の夕暮れ前、曇天の下寒風が吹き遊び、頬をチクリと刺すように撫でていった。
野球少年たちがグラウンドで声を上げている。
カイトを持った小学生が、風を追いかけている。
ニットを着込んだ若いお母さんが、ベビーカーを押しながら堤防の上を歩いている。
そんな光景を眺める土手の斜面に、萌花と稜央は並んで座っていた。
「川嶋くん、ピアノが習えなかったって言ってたけど、どうしても習いたいってお願いはしなかったの?」
「お願いも何も。金がないんだって。うち、父親いないし」
「え、そうだったんだ…病気か何かで?」
「いや。知らないんだ。生まれた時からいない。顔も名前も知らない。確かにもう死んでるかもしれない」
萌花は驚いた。そういう事情があるとは全く思ったことがなかった。
「兄弟は…いるの?」
「一応妹、がいる。当然、父親違い」
小さな声で稜央は答えた。
「一応って…。あ、でも私も一応、お兄ちゃんが、いた」
「過去形、なの?」
川面が鈍色に緩やかにうねっている。
それを見つめたまま、言おうか言うまいか迷ったが、稜央には知ってほしいと思い、萌花は続けた。
「私が小学校5年生の時にね、お兄ちゃん自殺したの。自分の部屋で。ドアノブに紐を括り付けて、それを首に巻いて。私が最初に見つけたの」
未だに、話していても辛い気持ちが甦って涙が出てきてしまう。
稜央はちらりと萌花を見る。
「私がお兄ちゃんの変化に気づけなかった。同じ家で暮らしていたのに、お兄ちゃんのこと何もわかってあげてなかった…」
「だから川越はいつでも不幸のどん底にいるような顔したり、なんでどうしてってすぐに言いたがるのか。そりゃそうか」
萌花はショックを受けた。
自分も突然そんな話をしたのもおかしかったと思う。
でも好きな人には知っていて欲しい、わかって欲しいという思いは誰しもあると思う。
少しずつ稜央に近づけているような気がしていたから、優しい言葉でもかけてくれるのではないか、という淡い望みは打ち砕かれてしまった。
「…ごめん。いきなりこんなこと聞いたら気味悪いし嫌だよね。ごめん。もう言わない」
萌花は強引に涙を拭って立ち上がろうとした。
けれど次の瞬間、尻もちをつく形で再び土手に腰を下ろす。
稜央が萌花の腕を引っ張ったのだ。
「なに…?」
咄嗟に稜央の取った行動が理解出来なかった。
稜央の顔は萌花の間近に迫っていた。彼の瞳はいつもと同じように冷たく虚無だった。
「か…川嶋くん…」
稜央は無言で、未だ萌香の左手首を摑んだままだった。
情熱的な行動とは裏腹な冷たい表情に、萌花は怖くなった。
やがて稜央の顔が近づき萌花が思わず目を閉じると、唇が触れ合う感覚があった。
ぎこちないキスだった。
寒風にさらされた稜央の唇は冷たいのに、吐息の熱さのギャップが萌花を余計に混乱させた。
唇が離れると稜央は摑んでいた萌花の手首を払うように放し、萌花を残して走り去ってしまった。
嬉しいはずなのに。
心が全く通い合っていないのに、どうして唇は触れたのだろうかと。
そして稜央はどうしていつも逃げてしまうのだろうかと。
萌花は再び涙を流した。
* * *
思わず逃げ出した稜央は、どうして萌花にキスをしたのだろうと思いながら家路を辿っていた。
中学生の頃、片思いしていた女の子にふざけてキスをして痛い目にあっていたのに、今回も同じぐらい唐突だった。
ただ、小学校5年生の時に兄が自殺し、その第一発見者が萌花だったという衝撃は大きかった。
何と声をかけていいか分からず、適当なことを言ってしまったと思っている。
自分も暗い時期を過ごしていたあの頃、ちょうど同じあの頃、彼女も暗い時期を過ごしていたのだと思うと、全身がざわついた。
“なんだ…この感覚は…”
稜央は戸惑っていた。
* * *
家に戻ると、いつものように陽菜がリビングの奥から出迎えにやって来る。
「お兄ちゃんおかえりなさい。ねぇ一緒にゲームしてー」
「お兄ちゃんやることあるから後でな」
稜央はサッと自分の部屋に入りドアを閉める。
陽菜が「遊んでくれない~」と泣きながら母親の元へ行くのも、いつもの光景だ。
稜央はコートを脱いでカバンを置くと着替えもせず電子ピアノの前に座った。
脇の棚にある膨大な楽譜をあさり、1つの譜面を取り出す。
しばらく譜面を眺め、目を閉じる。彼の頭の中でメロディと情景が流れ出す。
やがてヘッドホンを着けると両手を鍵盤の上に置き、再び目を閉じ鼻から小さく息を吸って、柔らかに、いたわるように柔らかに弾きだした。
ラヴェルの『なき王女のためのパヴァーヌ』だった。
こういった曲は今までほとんど弾いたことがなかった。
けれど今は、そんな気分だった。
頭の中では、先程土手で見た萌花の泣き顔が浮かんでいた。
ざわつく己の中を沈めたくて、この曲を選んだ。
ふと、手を止める。
いや、違う。沈めたいのではない。
泣き顔の萌花を包みたい。
だからあの時、キスをしたのだろう、と考えた。
#13へつづく