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【連載小説】鳩のすむ家 #2 〜"Guilty"シリーズ

~由珠子


桜はその日、満開の便りが届いた。
お寺に寄り、東先生と並んで歩き区のスポーツセンターへ向かう。

弓道教室はちょうど受講生の入れ替わりで、その日が年度最後の練習日とのことだった。

道中の桜並木は見事だった。東先生は「夜桜が一番いいわ」とうっとり見上げながら言った。なぜですかと尋ねると「ドンチキ騒ぎが苦手なのよ」と言った。東先生でもそんな言葉を使うのだと思ったと同時に、ドンチキとはどんな騒ぎだろうと思った。

スポーツセンターが近づいてきた時、黒っぽいスーツ姿の男性が夜に沈み、暗黒の世界から這い上がってきたところへ桜の花雪に不意打ちを食らっているかのように佇んでいた。近くを通った際、彼ははらはらと舞う花びらを忌々しそうに見上げていた。
若いが、その表情は若々しくない。桜が嫌いな人もいるのだ、あんな風に。汚れた悪魔が現世の美しさに面食らっているか、現実的に考えれば五月病ならぬ四月病か、などと思いながら通り過ぎた。

弓道場はスポーツセンターの最上階にあった。明かり取りの屋根があり、フィールドの向こうに的が等間隔で並んでいる。

「彼女が福永由珠子ゆずこさんです」
「はじめまして」

紹介してもらった東先生の妹さん、石澤尚子さんは中肉中背だがふくよかな顔をしていて、どことなくおかめ・・・っぽい。東先生と姉妹と言われれば確かにそう見える。

既に練習が行われているようで、袴を着けた人がジャージやTシャツなどラフな格好をした人たちに引き方を教えているようだった。年齢層は20代から60、70代くらいだろうか。老若男女、確かにとても幅広く、軽くむせ返るような空気を感じる。

「道場に出入りする時は一礼してね」

石澤さんはそう言い中に入るよう促し、東先生は隅で正座した。私は施設の説明をしてくれる石澤さんの後をついて歩いた。

「この皆さんがいらっしゃる板の間のエリアが射場といいます。射場には神棚があり…ほらあちらに。練習前と後には神前礼拝を行います。弓道も礼に始まり礼に終わるスポーツです。
中庭のようなところが矢道。矢が飛んでいくところです。原則として足を踏み入れてはいけません。理由はわかりますね?」
「危ないから、ですね」
「そうです。弓道の矢は鉄砲の玉と同じくらいの威力があります。たったら死んでしまいますからね」
「まぁ、怖い」
「向こうに見えるのが的場。安土と言われる土で出来た壁のようなところに的を固定します。的までの距離は28mあります(※近的の場合)。地面から的の高さも大体拳1つ分と決まっています。的の大きさは直径36cm。右脇に見えるのが矢取り道。あすこを通って刺さった矢を取りに行きますが、先に言った理由から、取りに行くときは必ず的前で弓を構えている人が居ないかを確認して、声を掛けてから、あの道を通って取りに行きます」

その他にもいくつか専用設備の説明を受けた後、私は東先生の隣に正座した。

「私も弓道場に来るのは初めてですのよ」

東先生は私に耳打ちした。そうなのですか、と言おうとした時、入口の引き戸が開いた。

「失礼します」

一礼して入ってきた男性を見て、私は "あっ" と小さく声をあげた。先ほど下で見かけた、桜を忌々しげに見上げていたスーツ姿の人だったからだ。
袴を着けていたので、若い先生なのだと思った。石澤さんがその人の元に寄り声を掛けた。

「野島さんね? お話は伺っています。先生あちらにいらっしゃるので、どうぞ」

野島さんと呼ばれた彼は石澤さんに連れられ、向こうにある神棚の下で二礼二拍手一礼した後、神棚の下で先生らしきおじいさんと会話をし出した。ここまで話は聞こえてこない。私はしばらく、その人から目が離せなかった。

「由珠子さん、どうなさったの」

東先生の声にハッと我に返った。

「いえ、色んな方がいらっしゃるのだなと思いまして」

さっき下にいた桜を睨んでいた悪魔です、とは言わなかった。東先生は夜桜が好きだから。

「そうねぇ。由珠子さんは大事に育てられていらっしゃるものね」

大事に…大事に…それは大切に、と言う意味ではない。

自分の意志で、家族に嘘をついてどこかへ行くということはほとんど無かった。
中学3年の時に、クラスメイトが「お兄さんがやっているジャズバンドのコンサートに行くのだけど一緒にどうか」と誘ってくれ、許可を得ようとしたけれど駄目で、嘘をついて行った。
予定していた時間より帰宅が遅れて嘘がばれた時、私のお尻は真っ赤に腫れ上がった。祖母の、あの竹製の定規によって。

今回もバレたらきっとそうなる。束の間、憂鬱な気持ちになる。でも私はもう高校3年生になるのだ。どうしてあの頃のまま、どこへも行けず何も進まず、時が止まったままなのか。

鳩が鳴く声が聞こえる。時を告げるのに、時が止まったままの、不思議な鳩の家の。

「では経験者の方はこちらで」

野太い声に顔を上げると、先程のおじいさん先生の号令で袴を着けた10人余の人が前方に集まりだした。ジャージの人たちは相変わらず下手側で練習する人もいれば、下がって正座する人もいた。

「これから経験者の方々が弓を引くから、福永さんもこちらに来るとよく見えるわよ」

石澤さんが呼びに来て、私も前の方に移動した。東先生は軽く手を振って辞退した。

袴姿の3人が並んで的に向かい一礼をし、その中に桜の彼・・・が含まれていた。

「立射といって、立ったまま矢をつがえて射る引き方よ」

説明を受けながらも私は桜の彼をじっと見上げた。すっ、すっ、すっ、とまるで能の舞台のように真っ直ぐな姿勢のまま、弓を引く位置まで進む。

肩幅よりほんの少し広めに開いた両足を支えにすうっと背筋が伸びている。弓を引く両腕は均等に左右に開き、無駄な動きが一切感じられなかった。機械仕掛けだろうか。教本の動画に出てくる人なのかもしれない。

桜の彼が放った矢は、重く乾いた音を立てて的に命中した。まるで小太鼓を一発叩いたかのような威勢の良い音だった。周囲の人が「射!」と声を上げ、看的所と呼ばれる的の横のスペースに立っていた人が、手にしていた的を上げて「あた~り~」と大きな声を挙げた。

彼はすぐに既に手にしていたもう1本の矢をつがえ、他の人が引き終わるのを待っていた。薄く開いた目は仏像のようで、その横顔は全く動くことがなかった。桜の下で見せていた表情とのギャップが大きく、不思議な気持ちになった。

3番目の人の矢は的にあたらず、ポスっと安土に刺さった音が合図のように、桜の彼の両腕が上がった。

再び乾いた音が響き矢が命中する。うむ、と近くにいた年配の男性…先程号令を掛けた、それが先生なのだが、何となく大将と呼ぶことにした…が頷いた。

一礼をして退いた彼に、大将が声を掛けた。

「君は指導もしてくれると言ったね」
「はい、可能です」
「じゃあ新年度からよろしく頼むよ」
「ありがとうございます。近くで弓を引ける場所を探していました。社会人になってしばらく経って時間の都合を付けやすくなったので、ちょうどいいと思い無理を言ってお願いさせていただきました」

桜の彼はまだ先生ではなかったのか。新入りなんだ。もし私が参加できたら、彼と同じ新入生ということになる。もちろん私は未経験だから格が違うが。

「講師をやってくれるとなるとこちらも助かるからね。初心者が多く申し込んでくるものだから、頭数が増えるのはありがたい。君はさすが学生時代に個人優勝経験しただけあって射形も非常に美しいし、見るだけでも手本になる」
「光栄です。この後も残って練習してよろしいでしょうか」

彼は大将に尋ねた。

「23時閉館だから、それまでに片付けも戸締まりも全て終了する必要があるんだが」
「大丈夫です。安土の整備も全てやります」
「助かるよ」

大将は満足そうに頷いた。

2人のやり取りを見上げていると、東先生が呼びに来た。

「由珠子さん、そろそろ…」

時計を見ると20時半を過ぎている。まだ途中なのに、と唇を噛んだ。

道場を出る前に石澤さんに訊いた。

「あの…弓道の魅力って、どんなところでしょうか」
「魅力? そうねぇ…。無心になって引けることかしら」
「無心、ですか」
「最近はマインドフルネスとかよく言うでしょ? 何か一点に集中して、邪念を排除するっていうか。弓道はそもそも、その究極の集中とも言えるんじゃないかしら」
「無心になると、どうなるんですか」
「本当に空っぽになれた時にね、矢ってあたるのよ。つまり、そういうことね」

そう言って石澤さんは笑った。「ちょっと、わかりにくいわね」

一礼して道場を出、東さんと2人で並んで歩き出した。

無心、無心、本当に空っぽになれる…。
何にも囚われない瞬間がそこにはあるということか。
常に囚われてきた私にとって、それはとんでもないことのように思えた。

「私も参加させてもらえないか、今から言ってお願いしてきます」

えっ、と驚く東先生を置いて私は走って道場に戻った。


道場の入口で石澤さんを呼び出し、更に大将を呼び出してもらった。

「私も参加させていただきたいです」

大将は「えっ?」と一瞬面食らった。

「区で運営する教室は抽選制なんだよ。もう定員一杯で締め切ってしまっているからなぁ」
「そうですか…」

うなだれると、大将の後ろから声がした。

「僕も特別枠で参加させてもらうことになったのだし、もう1人くらいいいではありませんか」

桜の彼、だった。

「でも君の場合は経験者だからこその特別なんだが」
「君は、経験者?」

桜の彼が私に問い、私は黙って首を横に振った。

「まぁどっちにしろ、講師が1人増えたのだから生徒も1人増えたっていいでしょう」

大将は驚いた様子で桜の彼を見ると「初日から生意気言ってすみません」と彼は頭を下げた。大将は鼻で長い溜息をついた。

「まぁ…いいでしょう。さっき石澤さんと一緒にいた子だよね。知り合いのよしみってことで…。初回は4月5日の水曜19時からです。あ、石澤さん、ちょっと新年度用のチラシ、持ってきて」

大将に言われた石澤さんが、案内の紙を私に手渡す時に「興味持ってくれたの、嬉しいわ」と笑顔になった。チラシには集合場所や服装、持ち物などの記載がある。

「あぁ、由珠子さん。時間、もうギリギリよ」

背後から東さんが息を切らせて心配そうな顔で駆け上がってきた。

「すぐ参ります」

そして「では再来週からお願いいたします」と大将と石澤さんに頭を下げた時、既に桜の彼の姿はなかった。奥の方で、真っ直ぐな姿勢で正座しているのがちらりと見えた。


帰りの道すがら東先生は心配そうな様子のまま訊いてきた。

「由珠子さん、お家には何とおっしゃるおつもりなの」
「そうですね…。何も考えていませんでした」

始めるにしても、すんなり事が進むとは思えなかった。むしろ現実味を帯びていない。

けれど、無心になれるのなら。
そこに私を解放してくれる所があるのなら。
私はそこに行きたいし、やりたい。
中途半端な家で時が止まったままなんて、嫌だ。
尻叩きにあわないための理由を考えなければなければ。

「由珠子さん、応援したいけれど…」
「東先生、今日は機会を作っていただき、本当にありがとうございました」

先生に頭を下げ、振り返らずに走って帰った。
21時まであと4分だった。





#3へつづく

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