【連載小説】Berlin, a girl, pretty savage ~Moment's Notice #6
11月の終わり、街は徐々にクリスマスに染まっていく。
梨沙は子供の頃、休日のたびに家族とベルリン中のクリスマスマーケットを回ったことを思い出し、妙にウキウキした気持ちになる。
学校やSchulz家でもプレゼントの交換会を行うため、その贈り物を探しの "下見" をしに、一人でモールを歩いていた時のことだった。
ピアノの音色が聴こえてきて、ふと足を止めた。
誰でも自由に弾いて良い街角ピアノがそこにあり、誰かが弾いている。
弾むようにファンキーなのに、たおやかで華麗さを併せ持った、不思議な印象の曲だった。John Coltrane作曲の『Moment's Notice』のピアノアレンジだ。
梨沙は何気なく音色の方へ近づいていった。ピアノの周りには人だかりができていたが、隙間からチラリと見えた演者の後ろ姿は、黒いコートを纏った黒髪の男性だった。体つきからもアジア人かな、と思った。
曲調同様に跳ねるように弾いたり、かと思えば次の繰り返しの主題ではまるで緩やかにと流れる大河のようだった。ファンキーかつエレガント、まさにそんな感じだ。
「ジャズか…」
曲が終わると周囲で聴いていた買い物客らによる喝采の拍手となり、梨沙もパチパチ、とお座なりな拍手をして立ち去ろうとしたが、
「あ、この曲…」
次に聴こえてきたのは『グノーのアヴェ・マリア』と呼ばれている、バッハの『平均律クラヴィーア曲集第1巻 前奏曲第1番ハ長調』だった。クリスマスが近いからだろうか。
"昔、家でパパが時々聴いていた曲だ"
美しい旋律だったのと、アヴェ・マリアとして耳にすることもあったのでよく憶えていた。
途端に懐かしくなり、踵を返した。演者が見える位置まで進んでいくと…。
“え…”
俯きがちに弾いていた彼が、ふと顔を上げた瞬間に梨沙は驚嘆した。
その男性は遼太郎によく似ていた。
正確に言えば、若い頃の。
遼太郎よりも線が細く、か弱そうな印象ではあるが、それはピアノを弾いているから余計にそんな印象になったかもしれない。
「そんなことって…ある?」
梨沙の身体は震えていた。
***
演奏が終わると再び拍手が送られ、頭を下げながら彼はピアノから離れ、近くのビアバーに入っていった。
梨沙も慌てて後を追う。
背格好も…似ている気がする。細いぶん背が少し高く感じるけれど。
「Enschuldigung…(すみません、Excuse meの意)」
本当に衝動的だったので、アジア人とわかっているのにドイツ語で尋ねてしまった。
自分から男性に声を掛けるなんて、思いもしないことだった。
カウンターでビールグラスを受け取り一口飲んだところで呼ばれた彼は振り向いた。
はっきりとその顔を見て、梨沙は更に息を呑む。
彼は梨沙を見ると「I'm sorry. I am Japanese so I can't understand German.」と言った。
「あ、あの…」
梨沙も咄嗟に声を掛けただけなので、後の言葉が続かなかった。彼は不思議そうな顔をした。
「あれ? 君も日本人?」
梨沙は頷き、小さな声で言った。
「あの…さっき弾いていた曲…」
いきなり「あなたはパパに似ている」とは、さすがに言えなかった。
「あぁ、聴いていてくれたの。何だか恥ずかしいな。でもありがとう」
梨沙は曖昧な表情のまま小さく頭を下げたが、やはり後の言葉が続かず立ち尽くすので、彼は怪訝な顔をして梨沙を見た。
「それだけ? 何か僕に用?」
その目元、鼻梁、口元も見れば見るほど父によく似ていた。
まるで父が若くなった姿でそこにいるかのような。
「見た感じ学生さんだよね。ビールを飲みに来たわけではないでしょう」
梨沙はまた俯く。
「日本の方かなと思って、つい…」
すると彼は「そうか」と言って少し表情を緩めた。
「君も旅行か何かで?」
「りゅ、留学で…」
「留学生か、大学?」
「こ、高校…」
梨沙はしどろもどろだった。彼は質問をたくさんしてくるものの、愛想の良い顔をしているわけでもなかった。
「高校でドイツに留学か。なんかすごいね」
「あの…あなたは…ミュージシャンですか。こっちに住んでいるんですか?」
ミュージシャン、と言われたことがおかしかったのか、ようやく彼は少し笑った。
「僕はゆきずりの旅人。そこにピアノがあったから弾いただけです」
「旅…」
あぁ、こっちに住んでいるわけじゃないんだ、と梨沙は思った。
「まぁ日本でお遊び程度にバンドに参加したりはしてるけど…本当に趣味・遊びの程度なので」
梨沙は何とか話題を繋ぎ止めようと頭をフル回転させ、ピアノであれば、とある案を思いついた。
「ピアノ…もっと聴かせて貰えない…ですか…クラシックで、聴きたい曲があるんです」
「えっ? 僕なんかよりちゃんとした音源かコンサートで聴いた方がいいよ」
「でも今…今聴きたいので」
父によく似ていて、父以外の男性。
そして直接香るわけではないが、父に似た "匂い" を感じた。
条件が揃っている。揃いすぎている。何とか、繋がりを持ちたい。
彼は手にしているビールグラスを眺め「高校生からじゃ投げ銭も取れないな」と言うと、一息に残っていたビールを煽った。
「リクエストはある? 」
そう言いながら店を出る。了承してくれたのだ。
「って言っても僕が暗譜してる曲はそんなにたくさんないんだけどね」
梨沙は一生懸命、幼い頃家で流れていた曲が何だったかを思い出そうとしたが、曲のタイトルが出てこない。スマホで一生懸命に調べた。
「…ドビュッシーの『亜麻色の髪の乙女』っていうやつ。あとは…ショパンの…『英雄』?」
彼はそこで「おや?」と思う。
偶然か、それらの曲は昔、自分が父によく弾いた曲である。彼は非摘出子だったこともあって、同居の叶わない、遠い存在の父に対して。
彼は尋ねた。
「なんでその曲がいいの?」
「…小さい頃、家でよく流れてて」
「へぇ…そうなんだ。家の人もピアノを弾いていたのかな」
梨沙は首を振り「パパが休みの日や眠る前に音源を流していた」と言った。彼はそこでギョッとする。
「お父さんが…その2曲を聴いていたの?」
「他にも聴いていたけど、特によく流れていたのがそれと…あと…お兄さんがさっき弾いていた曲も、アヴェ・マリアの方も…聴いたことがある」
『平均律クラヴィーア曲集』も以前、自分が弾いた音源を父に送ったことがある。
彼は考えた。
父には娘がいる。自分と腹違いの妹にあたる。
年頃は確か…今頃高校生だ。名前は…リサといった気がする。
そして父は昔、家族でベルリンに滞在していたことがある。
まさか、この少女。
いや、まさか、な…。
***
ピアノは空いていた。彼が再び腰掛けると、梨沙は近くのベンチに腰を下ろした。
彼はドビュッシーの『亜麻色の髪の乙女』をしっとりと弾く。買い物客も足を止めていく。
もう10年近く前になる。あの頃の僕はどんな風に弾いてただろうか、と思い出しながら弾く。
曲が終わり拍手が止むと、彼は鍵盤の上に両手をそっと乗せ直した。そして一瞬迷ってから目を閉じ、鼻から長く息を吸って、吐いた。
バッハのカノン。ピアノで弾ける限りのいくつかの。
彼は『英雄ポロネーズ』を弾かなかった。何となく弾かない方が良い気がしたからだ。
ここはドイツだし、と言い訳しようと思った。
聴きながら梨沙は『この人だ』と感じていた。
父とは別人。でも本当によく似ている。
この人なら、許される。
梨沙は恋に落ちた『錯覚』に陥っていた。
#7へつづく