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【掌編】猫と、ありふれた孤独 #番外編


リオ(野島遼太郎)…43歳。妻と4歳の娘・2歳の息子を日本に残し、ベルリンに短期単身赴任中。
ゾフィア…ポーランド出身の二十歳の大学生。休学中。
ミア…生後3~4ヶ月の子猫

登場人物


1月のベルリン。

窓の外は黒い夜。光る刃先のような月が西の空に沈もうとしている。
凍てつく風が裸の木の枝を揺らし、何もかもが凍えて縮こまっている。


部屋の中では、ほのかなろうそくの灯火。

炎が揺れるのは、そんな冷たい冬のすきま風のせい、ではない。

つかの間の愛の睦を見つめる、2つの小さな目。


🐾


この日、仕事を終え17時過ぎにやって来たリオを迎え入れるためにゾフィアが玄関のドアを開けるやいなや、彼はコートも脱がずに強引に抱き寄せ、唇を重ねてきた。

「リオ…?」

戸惑いながら上目遣いに彼を見ると、大きな手がゾフィアの両頬をロックした。何も言わず彼は口づけの雨を降らせ続ける。
寄ってきた子猫のミアが、リオの足にちょっかいを出してもお構いましに。

2人は短い廊下の先にある部屋のソファになだれ込み、ついてきたミアが妬いているかのように鳴くのをよそに睦み合った。
数十分後に身体を離したリオが、バツが悪そうに苦笑いしたのを見、ゾフィアは込み上げる愛おしさに彼の髪をクシャクシャにした。

「リオって時々、子供みたいに見える時がある」

さすがにリオが目を丸くしたので、ゾフィアはますます可笑しそうに口角を上げた。

「20歳以上も歳下の、子供の私に言われたくないわよね。でもそう思う時があるの。今みたいに困ったように笑った時とか、寝顔とか」

寝顔のことを言われるとさすがに恥ずかしくなり顔を逸らした。完全に無防備な状態では何を言われても反論できない。

「お腹空いているでしょ。私もミアも、あなたが来るのを待っていたんだから」

ゾフィアの言葉に同調するかのように、ソファの足元に待機していたミアがミヤァァウと鳴いた。ごめんな、とリオがその頭を撫でてやると、気持ちよさそうに目を閉じた。


そうして食事が終わるやいなや、リオはゾフィアを軽々と抱き上げベッドに入った。

ソファの上に取り残されたミアは「しょうのない人たちだな」と言わんばかりにむっつりと目を細め、2人を見守る。


🐾


ぼんやりとした灯りに浮かび上がる細く白い身体。頬には銀糸のような髪が数本、汗で張り付いている。
大きな手が伸びてきてそれをはらってやると、眉間に皺を寄せていたゾフィアは小さく微笑んだ。
そうしてベッドサイドに置かれたろうそくの炎に目をやったが、すぐにまた眉間に皺を寄せ、目を閉じる。

「リオ、お願い…もっと奥まで…」

彼はゾフィアの腰のくびれを摑むと、さらに強く恥骨を押し当てた。喘息の吸引のせいでかすれた声が、歓喜を伴って喉の奥から漏れる。リオはその声をたまらなく愛おしく感じ、そっとその白い喉を撫でる。

「あなたに溶けてしまいたい…。どうしたらいいの?」

リオは動きを止め、ゾフィアの潤んだ青い瞳を覗き込んだ。彼の表情は困ったような、そしてどこか物悲しさがあった。ゾフィアはそれをひどく愛しく思う。
繋がったままリオは、細い身体を強く抱き締めた。

ゾフィアが首を右に傾けると、傷跡が目の前に現れる。それはリオの左の鎖骨に沿うように、10cmほどのケロイド状になって残っている。
それにそっと唇で触れる。

2年ほど前にちょっとした事故があって、と以前リオは傷跡の話をした。しかし詳しい経緯は語らず「罪の証なんだ」と嘲笑った。

この人もこうして『傷』を抱えて生きているのだと思うと、初めて会った時に感じた "同胞感" が勘違いではなかったと、ゾフィアは思う。


「リオ…」

どんなに切ない目でソフィアが訴えても、リオは彼女の言葉には何とも答えない。期待を持たせるような言葉も、"愛してる" なんて嘘も、言わない。

ただ "ゾシャ" と、祖国ポーランド語の愛称を甘くかすれる声で呼び、慈しむように彼女の頬や首を撫で、激しく身体を貫いてくる。
言葉がなくても、それだけで十分だった。

"あなたもまた、満たされずに生きている。何を求めて彷徨っているのだろう。
そう思うと、魂の奥底で繋がっているような気がしてくる。
だから出会ったんだよね? 黒い瞳の異邦人さん…"


🐾


出会った当初、家族の存在を話したリオだったが、何故かあまり幸せそうには見えなかった。子供は2人共まだ小さいという。可愛い盛りのはずなのに。だからこそ、そんな時期に家族と離れ離れになっているせいか。
でもそれとはまた違うような気がした。

リオがゾフィアの部屋に訪れるようになった最初の週末。
彼は、ちょうど昼12時前後の2時間ばかり外に出てくる、と立ち上がった。
一人で? どこに行くの? と尋ねると「家族と電話で話してくる」と答えた。

言った通り、2時間あまりして彼は戻ってきたが、ゾフィアは初めて確固たる家族の存在を感じ、またそれを纏ったまま帰ってきたような気がして、ひどく動揺した。
ソファに座るリオには近寄らず、ミアを抱いてベッドの片隅に腰掛ける。リオが呼んでも口をへの字にして拗ねたまま。近寄ってゾフィアの髪を優しく撫でようとしても、それを振り払ってしまう。

「今日は帰って」

自分でも驚く言葉がゾフィアの口から出た。リオはため息をついてソファに置いたコートを手にし、部屋を後にしようとする。

するとゾフィアは、駆け寄ってそのコートの裾を摑んだ。ちぐはくな言動と行動にリオも、ゾフィア自身も混乱している。

やがてゾフィアの目から涙が溢れ出し、嗚咽をあげて泣き出した。
そうか、家族がいる人を好きになるということは、こういうことなのか。
頭と身体が、バラバラになってしまうのだ。
ゾフィアは思い知った。

リオは彼女に覆いかぶさるように包み込み、泣き止むまでずっとそうしていた。


その一件以来、リオは家族の話を一切しなくなった。優しさなのか、狡さなのか。


いずれにしてもこんな日々は期間限定。あと1ヶ月もすればリオは、家族の待つ国へ帰っていく。

ただ、ゾフィアが求めるままにリオは彼女のそばにいた。
必ず別れが来るから、無駄に思い出なんか作る必要はない、とリオ自身が言い切ったにも関わらず。

部屋を訪れるたびに、冷え切ったゾフィアの身体の芯に、彼は炎を灯してくれた。


🐾


眠るリオの背後で、ちびたろうそくの灯りが揺れる。
陰になった彼の寝顔をゾフィアは眺める。大人の男のあどけない寝顔。
しかしリオは眉間に皺を寄せたかと思うと何か呟いた。日本語のようだ。何を言っているのかわからない。ただ何となく、赦しを乞うているかのように感じた。

指先でそっとリオの前髪に触れると彼は目を醒ました。

「ごめんなさい。起こしちゃった」
「いや…」

悪い夢でも見ていたの?

訊こうとした時、リオが腕を伸ばしゾフィアの頬に触れた。彼女が、そうされるのが最も好きだということをわかっているから。

「今日のリオ、なんだかいつもと違う気がする」

部屋に入るなりいきなり抱くなんて。
しかしリオは口を開きかけ、その先を失ったように翳を落とした。

「…リオ?」
「ゾシャ。日本に帰る日が決まった」

ゾフィアの笑顔が凍りつく。

「俺がいなくなっても、住人を頼れよ」

唇を噛み締めるゾフィアに、リオは再び覆い被さった。


もうじきこんな日々も終わる。
真実も嘘も関係ない。過去も未来も存在しない。
この世の全ては終わりに向かって突き進む。

今、目の前にあることだけが、全て。


ろうそくの炎が燃え尽き、辺りが闇に沈む。
ベッドの軋む音。
掠れた喘ぎ声。
吐息の隙間から漏れる、呻くような声。


2人を見守っていたミアも、ソファの上で丸くなって眠っている。





END


今年、読んで頂いた皆さま、ありがとうございました。
ただただ自分の好きなものを書いているだけで独りよがりな作品ばかりではありますが、書けば書くほど登場人物たちが成長し愛されていくことを目指して、来年以降も精を出していきたいと思います。















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