【連載小説】奴隷と女神 #21
マンションの近くに路駐するにはあまりにも不自然で存在感のある車だったので、近くのコインパーキングに停めた。
それでもメルセデスは目立った。
パーキングからマンションまで、彼はパーカーの内側に私を包んでくれた。
彼の肌に染み付いた『ENDYMION』が微かに鼻腔に感じられる。
部屋に入ってカバンを置くと、彼は背後から私を抱き締め、そのままベットへなだれ込む。
けれど今夜は、そのままぎゅっと抱き締めたまま、じっとしていた。
「小桃李」
ベッドの上では甘くて優しくて溶けそうな声で私を呼ぶ。
「一人で背負わないで」
「…何をですか?」
「僕たちのことだよ。自分のこと責めてるでしょ、今」
「いつもの私と変わらないですよ」
「小桃李」
多分今は何を言われても言い返してしまう。
だめじゃない、そんなの。最低じゃない、呼び出しておいて。
「響介さん」
「…なに?」
「したいです」
「でも…」
「時間がないですか?」
「時間は…気にしないでいい。けど」
「けど、何ですか?」
「…いや、何でもない」
そう言って響介さんは私のシャツに腕を差し入れると直に胸に触れ、その指先に力を込めた。
あふ…、と私も声を漏らす。
私の服を全て脱がし、彼は普段より優しい愛撫を指と唇で全身にしてくれた。つま先まで痙攣しそうなほど気持ちが良くなる。
「つらくならない?」
何でもない、と言っておきながら、彼はそれでも私に訊いた。
「つらいのはもう、とっくの話です」
「ごめん…」
「謝らないでいいって自分で言ったのに、どうして私には謝るんですか?」
響介さんが何を言っても私は刺々しい気持ちが出てしまう。今や自分ではなく矛先が彼に向いてしまった。
彼は心底困ったような顔をして私を見つめ、私は彼の顔を両手で包んで言った。
「響介さん、好き。大好き」
「うん、僕も、好きだよ。小桃李…」
世の不倫男性は(自分が既婚者の場合)、自分から好きとはあまり言わないらしい。言ってしまえば後々困ることが出てくるのだろう。
けれど響介さんはいつも言ってくれる。「好きだ」って。
「小桃李が好きだ」って、言ってくれる。
「小桃李、かわいくて仕方ないよ」って言ってくれる。
でも、響介さんは私だけのものじゃない。
そして私「だけ」を好きでいてくれるわけじゃない。
そんな事を考えている私を、響介さんは何か言いたげな顔をして見つめた。
けれど何も言わずに一気に私の身体を貫き、私は叫びに近い声を挙げる。
響介さんはそのまま寝てしまうのではないかと思うほど穏やかに胸を上下させていた。私の方がしきりに時間を気にしてしまった。
午前0時を回った。
「響介さん」
頬に触れてそっと名前を呼ぶと、彼はぼんやりと目を開けた。
「時間、大丈夫ですか?」
「…何時になった?」
「もう日付が変わりました」
「そうか…」
彼はとろりとした目を私に向け、私の頬に手を撫でて言った。
「帰りたくないな…」
「…私は一切断らないですけど…」
「そうだよね…」
彼は気怠そうに起き上がり、ため息をついた。そうして床に落ちた服を拾い着け始める。
「小桃李、今度から外で会うのはなるべく控えよう」
服を着ながら、背中を向けたまま彼は言った。
「…ウチで会うってことですか?」
「うん…小桃李が嫌じゃなければ」
「嫌なわけないです。私は響介さんと会えるならどこだっていいです」
「そうしたら一つ、お願いがあるんだけど」
彼は向き直り、私を見た。
「何ですか?」
「晩飯、作って欲しい」
私は泣きたくなった。
泣き叫びたい気持ちになった。
「…作ります。でも私、料理上手じゃないかもしれませんよ?」
彼は首を横に振った。
「変なお願いしてごめん」
「いいえ…」
一人の食事は味気ない。
ましてや家庭を持っているにも関わらず、家庭で作るものを食べることがないとなれば。
響介さんは私に「家」を求めた。
私の願いは、私が彼の本当の帰る「家」になることだ。
麻布の高級マンションを離れてでも、私の元に帰ってくるように、なるだろうか?
ただ、この妄想ばかりは確信が持てない。
* * *
玄関で靴を履こうとすると「もう遅いからここまでで」と彼に制された。
「気をつけてくださいね」
「うん」
彼は名残惜しそうに私を見つめ、キスをした。長い長いキスだった。
唇が離れてからも額や頬、耳元などにたくさんキスをした。
「響介さん」
彼は我に帰ったように照れ臭そうに笑った。
「小桃李は一人じゃないからね」
温かく優しい瞳でそう言ってくれた。私は黙って頷く。
「じゃあ、また」
「はい、おやすみなさい」
扉が閉まり、靴音が遠ざかっていく。
そうよ、私だって。
響介さんさえいてくれれば、他に何もいらないと思った。
例え友達全員が私に背中を向けたとしても。
いいえ、この世の全てが敵に回っても、彼さえいれば生きていける。
全ての自由を失っても、それが彼の支配下なら、喜んで受け入れる。
私は奴隷なのだから。
響介さんにどんな晩ご飯を作ってあげようか、何が好きなんだろうか、と考えながら、まだほんのりと彼の温もりの残るベッドに潜り込み、匂いを嗅いだ。
#22へつづく