【連載小説】あなたに出逢いたかった #25
10月も半ばを過ぎた、薄曇りの土曜の昼下がりだった。
横浜の土産を渡しに稜央が実家を訪れると、陽菜は会社の仲間と映画を観に行っているとのことで不在だった。
桜子の入れた紅茶で土産の菓子『ありあけハーバー』をつまみながらジャズイベントの話をしていたが、陽菜がいないことを良いことに父の話を切り出した。
「そういえば夜に横浜で、父さんと飲みに行ったんだ」
桜子はほんの一瞬手を止めたが「あら、そう」と相槌を打った。
「元気にしてた?」
その表情も声も、ごくごく普通だった。菓子を味わっている方が勝っているくらいだった。稜央はちょっと考え、嘘は付かないことにした。
「なんか…身体の具合悪くしたんだって。今年の始め頃」
「えっ…?」
桜子は菓子を食べる手を止め、その声にはさすがに動揺が隠せない色が滲む。
「悪くしたって…どこ? どうなったの?」
「詳しく話してくれなかったんだ。もう流石に若い頃みたいにはいかないって。笑ってたし、大したことないんだとは思うけど…」
桜子は紅茶を一口啜り、カップをゆっくり、静かに置いた。
「だから母さんの体調も気にしてて、元気にしてるかとか無理してないかとか訊いてきたよ。むしろ強い言葉で母さんのこと…"気にならないわけがない" って言ったんだ。俺もちょっと驚いちゃって」
「あたしは…」
そう言いかけた桜子の脳裏には、思いがけずナイーブな遼太郎の一面が甦っていた。
*
高校の弓道部。経験者でもあった遼太郎は1年生の頃から抜群の腕前を見せ、県大会の個人戦で優勝もしていた。
技術的にもキャラクター的にも文句無しで部長になり、冴えなかったチームを全国大会までも導いた。
しかし時折、別人のようにスランプに陥ることがあった。そんな時は誰も近づけないほど殺気立った。当時は桜子も同じ中学出身の、ただのクラスメイトにすぎず、近寄ることは出来なかった。
高校生活最後の県大会直前も遼太郎はスランプに陥り、チームは半ば諦めムードが漂っていた。
けれど試合では遼太郎は部長として、団体戦で最も重要なポジションの落として、しっかりと締めた。全国大会出場は逃したものの、会中(全射的中)の成績を残した。
鳥肌が立った。何て人なんだろう、と。ここぞという時に決める、完璧な人だ、と。
その帰り道、家の方向が一緒だったため2人で乗った電車の中で、遼太郎は倒れた。
誰よりも強くて、スランプを跳ね返して結果を残して、やっぱり野島って凄い人なんだと思った。けれど身体は…心はイコールではなかったのだと思い知る。
その病院のベッドで、遼太郎は桜子に『告白』した。
もう卒業まであとわずか。遼太郎は東京へ、桜子は地元に残ることがほぼ、決まっていた。始めることを躊躇われた恋は、結局始まってしまったのだった。
*
フラッシュバックに桜子は固く目を閉じる。
「母さん…」
呼ばれてハッと目を開き、ふぅ、と息を吐いた。
「あたしは全然大丈夫だよって。昔から変わらず」
「うん、俺もそう言ったんだ。滅多に風邪も引かないよって。父さん、さすが逞しいなって、安心したように笑ってたよ」
「そっか…」
桜子は努めて明るく振る舞ったが、胸騒ぎは止まらなかった。
アイツ、確かにすごく強くて頼もしくて、優しくて…。でもそれってあまりにも強すぎてプッツリ、行っちゃうんだよね…。
アイツのプッツリは本当に怖い。
桜子は思わず両腕をさすった。
「そんなこと言って…自分のこともっと気にしてもらわないと困るよね」
「俺は嬉しかったんだよ、母さんのこと気にかけてくれているの、素直に。でも同時に…」
「同時に…何よ」
稜央は微かな悲しみを噛み締めるように言った。
「もう…あまり会わない方がいいんだろうなとも思った」
「…どうして?」
「俺は家族として母さんの事を気にしてくれているのは嬉しいけど、父さんは…あの人にとっては多分、ちょっと、苦しいんだろうな…って。俺が現れると…母さんのことをどうしたって思い出すって」
時が巻き戻ったかのように、あの頃のときめきや切なさが桜子の胸を襲った。
やめてよ、と誰にでもなく心で言う。
苦しいのは自分も同じ。時を戻したくない。誰もが通り過ぎる青春の一場面に過ぎないはずなのに。
もうとっくに閉じ込めて、時折思い出しては目を細める程度の、そんな淡い思い出にしておけたら良かったのに。しておくべきだったのに。
でも、そんな閉じ込め方が出来なかったのは、自分のせいだ。
あたしが稜央を産んだから。
あたしがアイツを選んで共に生きていく命を残したから。
それがまた、アイツのことも、こうやって苦しめてしまっている…。
「母さんは前に、父さんとは会わない方がいいんだろうなって言ってたよね。それって今も変わらない?」
桜子の鼓動はさっきから音を立て続けている。
「当たり前でしょう。向こうはもう家族があるんだから」
「父さん…冗談だとは言ってたけど… "会いたいって言ったら会わせてくれるのか?" って俺に訊いたんだよ」
「えっ…?」
「会いたがらないと思う、って答えたら "だろうな" って言ってたけど…。でも父さん、なんでそんなこと訊いたんだろうって思ったんだ。本当は、会いたいんじゃないかって…」
「稜央、ごめん」
突然、桜子は静かに、しかし驚くほどハッキリとした声を出した。
「その話はちょっともう…」
「あ…ごめん…」
桜子はすっかり冷めた紅茶を一口すすり、また静かにカップを、置いた。
遼太郎と桜子、互いの心の片隅に互いの存在がずっとずっと息づいていることを、稜央はこれまで何度も感じてきた。自分を介して父と母が繋がる事を、心の何処かでは求めている。稜央にとっては『家族』だから。もちろん倫理感も道徳心もある。そんなことは許されないとわかっている。それでも、だ。
けれどそんな自分の存在が2人を傷つけていると、今回の一件で稜央は感じてしまった。
自分に取っては大切な父と母なのに。
2人にとってはただの元恋人、今はもう他人、なのだ。
*
その夜、稜央が帰った後。
桜子はもう長いことしまい込んで目にも触れてこなかったアルバムを引っ張り出してきた。
高校時代の弓道部での写真の他に、ほんの十数枚しかない、遼太郎と2人で出かけた時の写真が入ったアルバムだ。
しばらく表紙を眺め、考えた。どうして今更こんなもの、引っ張り出してきたんだろう。
アイツが、あたしに会いたいって言ったって? 稜央はもう35歳になったっていうのに。つまり35年経ってるのよ?
桜子はアルバムの表紙に触れる。開いてはいけない気がしていた。それこそもう、時を戻したくないのに。
けれど桜子はそれを開く。
最初に飛び込んできたのは合宿の写真だ。練習風景、遼太郎が的前に立ち、ちょうど会の体を取っている。自分が写っていないので、確か部員の誰かにこっそり焼き増してもらったやつだと思い出す。
胸の奥を逆回転する時計の針が貫くようだ。あの頃の熱い想いがうねり、こみ上げてくる。
その後も宿舎での和気あいあいとした食事の場面、試合の写真など、どの写真にも遼太郎がいる。自分が写っていなくとも。
付き合い始めてから2人で行った初詣の時の写真や、受験勉強を一緒にしたドーナツ屋での2ショット。
そして東京での受験を終えた遼太郎とこっそり忍び込んだ部室で、2人きりで過ごした時の写真。1枚のベンチコートに2人で包まっているから、これ以上ないほど顔も身体もぴったりくっついている。
夜行バスで帰ってきた遼太郎の顔には疲労が残ってはいたが、愛しくてたまらない笑顔で写っている。
この時アイツ、『温かい』だとか『いい匂いがする』だとか言って、あっという間にあたしの胸で眠っちゃったんだよね…。
あまりにも煌めきと痛みと哀しみが散りばめられていた。
桜子はアルバムを閉じた。
最後に遼太郎を見たのは稜央が高校に上る前…それももう20年も前のこと。それでも彼はこの眩しい高校時代から、益々自信を付けてもっと凛々しく眩しくなっていると、あの時感じた。
最高の男だったよね、野島。あんたって人はさ。
フフっと、桜子に思わず笑みが漏れた。
同じ中学だったのに知らなくて、
同じ高校、同じ部活だったのに、ずっとただの友達で、
付き合い始めから別れを予感していて、
遠距離で案の定破局してから、身籠っていることがわかって。
一緒にいた時間は本当に本当に、誰よりも短いはずなのに。
「不思議だねぇ」
桜子は頭の中も心も埋め尽くしてしまいそうな念を払い除けるかのように、そう声に出した。
誰よりも短いはずなのに、誰よりも失いたくなかった人。
「なんの運命なんだろ、あんたに出逢ったこと。未だにこんなにあたしを支配していることも。死ぬまで離してくれないつもりかね…いえ、きっと、死んでも離してくれないだろうね。意外としつこいから」
あたしも負けずにしつこいけどね。この写真たちを燃やしてしまうことも出来なかった。
アルバムの表紙に雫がひとつ、こぼれ落ちた。
#26へつづく
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?