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【連載小説】奴隷と女神 #10

着いた店は駅の東口に程近いビルの6階にある洒落たバーだった。それほど広くなく、さほどお客さんも多くない。
混む時間帯はこれからなのかもしれない。

「ここ、よく来るんですか」
「たまーに、かな」
「銀座のお蕎麦屋さんでもそんな事おっしゃってましたよね。西田部長ってたまーに行く店がたくさんあるんですね」

そう言うと西田部長は照れたように笑った。

カウンターに並んで座る。
ハイスツールは座りにくくて少し苦戦していると、彼が左手で私を支えた。

心臓が飛び出しそうなほど跳ね上がった。
顔を上げると彼も私を見つめていた。

もう私たちは踏み出す。
いけない道を、進んでいく。

そう確信した。

「小柄な女性だとこういう椅子は座りにくいですよね」
「どうせ私の脚は短いです」
「そこまでは言ってないでしょう」

そう言って笑う。

「何飲む?」

口調が砕け、薄暗い照明のせいか目つきまで柔らかくなったような気がする。

「あ…、えっと…」
「また “同じもの” ?」

ちょっと頬を膨らませて西田部長を見ると、イジワルだけど楽しそうに笑っている。

「カルヴァドス、どうですか?」
「確かリンゴのお酒ですよね。大丈夫です」
「カクテルか何かにしてもらう?」
「西田部長はどうされるんですか?」
「僕はロックで」
「じゃあ私も」
「強いよ…無理しないで」
「…死ぬことはないと思います」
「わからないよー」

西田部長はおどけてそう言うとカルヴァドスのロックを2つとチェイサーを1つ頼んだ。
チェイサーは迷わず私の前に置かれた。

バーテンダーが私たちの前にそれぞれ大きな氷がひとつ入ったウイスキーグラスを置き、眼の前でボトルからオレンジがかった綺麗な琥珀が注がれる。

『DOMAINE DU COQUEREL』のカルヴァドスで、瓶の中にリンゴが丸々入っており、ビジュアル的な魅力もあってか、瓶もカウンターに置いてくれた。

「えぇー、リンゴが入ってる! かわいいですね!」

写真を撮ってSNSにアップしたかったけれど、こういう店でそういう行為はそぐわないと思い、諦めた。

「じゃあ改めて」

西田部長はそう言ってグラスを上げた。何に乾杯するつもりなんだろう、と思った。

甘いリンゴの香りが立ってチビリと舐めるとコクのある甘さと、その直後に熱が一気に押し寄せた。
思わず手で顔を仰ぐと、西田部長は笑いながら「本当に無理しないでよ」と言った。

大人の男の人は、こういう琥珀色の飲み物のグラスを傾けて、ゆっくり溶ける氷を眺めながら飲む姿が様になっていいなと思う。

特に西田部長は。
緩めたネクタイ・黒スーツ。

様になりすぎでしょ…。

「松澤さんは週末何しているの?」
「私ですか? 特に何も…環みたいに恋活に励んでないし、志帆みたいに推しもいないし…。読書くらいですかね…」
「へぇ読書。何を読んでるの?」
「最近は韓国文学です」

彼は目を少し見開いて「韓国文学」と繰り返した。

「韓国文学ってどんな感じなの? ドラマみたいな?」
「私、あまり韓国ドラマは観ないんです。長いし、こじれまくるのが苦手で…」
「あぁ、わかる!」
「だから普通の…淡々とした話好んで読みます。淡々としてるけど、なんて言うんだろう…ドラマチックじゃないけど何か事件がある、みたいな」
「へぇ…良かったら今度貸してよ」

今度…。
"今度" を作ってもいいという意味だ。
なんというスリルだろう。

「はい、今度持ってきます…そしたら今度は韓国料理屋さんに行きましょうよ」

穏やかな顔で頬杖をついて聞いていた彼は「いいよ」と言い、グラスを手に取ってカルヴァドスを口にする。

かっこいいな。単純にそう思う。

「西田部長は何をされているんですか?」
「僕の週末? 僕も特に何もしてないな。以前はジムに行ったりしてたけど最近サボってるし」
「鍛えてたんですか? 腹筋6つに割れてるとか」
「そんなことないよ」

私は右手を伸ばし、シャツの上から西田部長のお腹に触れた。お酒の力を借りて。
彼は驚いて一瞬目を見開いたが、拒みもせずそのまま触らせてくれた。
6つに割れているほどではなさそうだけれどお腹の脂肪はなく、程良い硬さを感じた。

手を離すと西田部長は少し困ったような、曖昧な笑みを浮かべていた。

「全然脂肪がないですね。ちゃんと鍛えてたっぽい」

彼はそれには何も答えず、正面を向いて残っていたカルヴァドスを一気に煽った。

そうしてカバンから私がお土産で渡した『Jacques GENIN』…チョコレートの小箱を取り出した。

「マスター、お土産でいいものもらったんだ。ここでちょっとつまんでいい?」

西田部長はカウンターの向こうにそう声をかけた。マスターと呼ばれた男性は「持ち込み料高いよ」とニヤリと笑った。

蓋を開き、一粒取り出す。

「食べる?」

そう言ってつまんだ一粒を私に差し出す。
「自分用のも買って食べたので、大丈夫です」と答えると

「じゃあ半分」

そう言って彼は更に、私の口の前に差し出した。

「王様の食事の前の毒味ですか?」

そう言っても彼は笑みを浮かべて黙ったまま、口にするよう目で促す。
恐る恐るかじる際に唇が彼の指先に触れた。

コクのあるガナッシュが口いっぱいに広がる。
私が味わう様子を見て彼は残りの半分を自分の口に入れた。

まるで契りの儀式のようだった。

私たちは今、契約を交わしたって受け止めていいの?




#11へつづく

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