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【連載小説】永遠が終わるとき 第五章 #7
仁さんはその日を楽しみにしていた。
野島部長が一時帰国をしていて、仁さんに会いたいと話していると伝えた時、彼は飛び上がらんばかりに「本当!? 是非お会いしたい!」と喜んだ。
家族と京都へ行くと言っていた野島部長が再び東京に戻ってくるのを待って会うことになった。仁さんは張り切って『野島さんは海外駐在だから、和食にしましょう』と、彼がよく利用する広尾の料理屋の個室まで予約した。どちらが有名人なのかわからない。
何とも不思議な気持ちだった。
かつて愛した人と、今お付き合いしている人が、相まみえるとは。
* * *
店に姿を現した野島部長はagnes.bの薄いブルーのシャツに黒いスキニー姿だったので驚いた。こんなにカジュアルな格好をするのか。
「野島さん! お会いできて嬉しいです。いや、スタイルいいですね! 着こなしカッコいいなぁ! ものすごく若く見えます」
仁さんがそう褒めると野島部長は照れくさそうに頭をかいた。
「いや、お恥ずかしいです。こんな立派な店になるとは思ってもいなくて、スーツ以外は適当な服しか持ってきていないんです」
「ここはそんなにきついドレスコードの店ではありませんから大丈夫です。僕も今日みたいにポロシャツ・ジーンズで来ていますから」
まずはビールで乾杯し、仁さんからは仕事に関することをあれこれと質問していった。野島部長もひとつひとつ丁寧に答えていく。
「野島さんは仕事におけるモットーみたいなものって、何かありますか? 野暮な質問だとわかっていてあえて伺ってみたいのですが」
「そうですね…、忙しいという言葉は使わないようにしている、かな」
「どんなに忙しくて苛立っていても、ですか?」
「えぇ。苛立っている時は言わなくても周りは察知しているでしょうから」
そう言って笑い、ビールを一口飲むと続けた。
「忙しいと言い放った瞬間に人は遠ざかります。特に部下には使わないようにしています。上司には…たまに使うかな」
「えぇ…逆ではないんですね」
「上司は部下のためにいるものですから。彼らが最大限のパフォーマンスを出すためにも上司は使うものです。どんな些細な事でも報告や相談が上がってこなくなったら、組織は破綻しますよ」
淡々とした表情で野島部長は言った。
確かに彼はどんなに忙しくしていても、部下が話しかければ必ず顔を向けた。本当に手が離せなければ『○分後に聞く』と約束をしていた。部下たちも遠慮なく、彼には話しかけていた。
そんな信頼が、彼の多少強引なやり方や決断力をも押し上げていたように思う。
家なんてぶち壊せばいい、と話していた彼が、組織を破綻させないために自己犠牲する。陰と陽を見た気がした。
「勉強になります。僕も同じ気持ちではいますが、忙しいってつい言ってしまっているかもしれないな」
「あなたが抱える人も仕事も、僕の比ではありませんからね」
料理も進んできて日本酒に切り替えましょうか、という話になり仁さんが「野島さんのご出身はどちらですか?」と尋ね、私はしまった、と思った。故郷のことはあまり触れないで欲しいと、前もって仁さんに伝えておくべきだった。
けれど野島部長は特に表情も変えずに答え、仁さんは「西の方だったんですね。なんか意外だな」と言った。
「意外ですか」
「とてもクールな方なので、東京かと思っていました。あ、でもクールな中の熱血さが見えた感じでは、九州男児のイメージかな。あれ、結局謎だったってことか」
仁さんがそう言って笑うと、部長も笑った。私はほっと胸をなでおろす。
「有名な酒造がありますよね。ここにも置いてあると思いますけど、それにしますか?」
「いえ、お気遣いなく。そこの社長の講演を聞いたことがありますが、僕はあの男、あまり好きではなくて。やってることは立派で会社を大きくしたかも知れませんが、どうも鼻につくんでね」
野島部長がそう言うと仁さんは笑った。
「それより京都の酒があったら、お願いしたい」
「そういえば部長、昨日まで京都に行ってらしたんですよね」
そうだそうだ、と部長はカバンから黄色い風呂敷に包まれた筒状のものを取り出した。
「つまらないものですが、京都の土産です。和菓子がお嫌いでなければ」
風呂敷を解くと最中種に餡、胡桃と、自分で挟んで作る最中だった。
「へぇ、面白い。お土産のセンスも良いなんてさすがだなぁ…」
仁さんは心底感銘を受けているようだった。けれど肝心の京都のお酒は置いていなかった。
「あまり東京には出さないのかな」
「どうでしょうね。そうしたらどこのでもいいです。あまりこだわりはないので」
仁さんも私も関東圏の出身なので特に酒処といったわけでもなく、店主に聞いて夏に合うお酒を持ってきてもらった。新潟のお酒だった。ガラスの徳利と猪口が清涼感を引き立てている。
こんな時でも野島部長の飲むペースは早い。一息に猪口を空にすると静かにテーブルに置いた。
「お強いんですね」
「いえ、はしたないだけです」
仁さんが部長の盃に注ぐ間、部長は一息おいて「深山さん」とやや緊張した声色で呼んだ。
「なんでしょう?」
「前田から深山さんとの縁談の件を伺っています」
仁さんも徳利を置くとやや緊張した面持ちになった。
「はい」
部長は少し身体を引くと、膝に手をついて「前田のこと、よろしくお願いします」と頭を下げた。
その行動には私も仁さんも驚いた。
「僕の部下はみな優秀ですが、前田は特に秀でています。それは深山さんもご存知のこととは思います。元上司として、彼女の幸せを願っています。どうか彼女を支え、守ってやってください」
「野島さん…」
部長がそんな挨拶をするとは、思わなかった。
仁さんも改まって頭を下げた。
「こ、こちらこそ力不足もあるかと思いますが…」
「力不足では困ります。あなたの持てる力、全力でお願いします。あなたはもう立派な青年なのだから。万が一彼女が今後の人生で大きな迷いや絶望を感じるようなことがあったら、僕はあなたを許しません」
仁さんは一瞬呆然としたのち、もう一度深く頭を下げた。
私はその力強い、意外な言葉に驚き、何も言えなかった。
「身内でもないこんな僕が出しゃばったことを言って申し訳ない。けれど彼女の家に対する思いが自分のそれと少々重なるところがあり、あまり他人事と思えないんです。彼女は入社当初から本当によくやってくれ、僕の担当部署は大きく成長しました。特に目をかけている部下のうちの一人なんです」
「そうだったんですか…」
「もちろん、女性と男性の立場で大きく異なることもありますが。僕はあなたが、彼女の抱えてきた抑圧や孤独から開放してくれる存在だと願っております」
一度頭を上げた仁さんは、これまであまり見てこなかったほどの真剣な表情で部長を真っ直ぐに見つめ、ハッキリと力強い声で
「はい、お約束いたします」
と言った。
そうしてようやく野島部長の表情からも力が抜けた。
私は涙を浮かべずに入られなかった。
第五章#8(最終話)へつづく