【連載小説】鳩のすむ家 #10 〜"Guilty"シリーズ
~由珠子
3月に入っても野島さんは、特に何も言ってこない。
正確に言うと道場では挨拶以外は言葉を交わすタイミングがなかった。でもこれはいつものことだ。
学校では山科さんが「ね、どうでしたの? 彼の反応は?」と毎週目を輝かせて訊いてきたが、何のリアクションもない旨を伝えると「きっとシャイな方なのね」と言った。
お嬢様は決して人を卑下しない。リアクションのない人を「酷い方ね」なんて言わない。山科さんは、とにかくポジティブだ。
「もし悪くない反応が返ってきたら、デートしてくださいってお伝えするのよ」と彼女は言った。
「デ…!!!」
「お伝えするのよ」
大事な事だから二度言います的に、穏やかだが有無を言わさぬ圧力があった。
「そんな…いきなり無理よ」
「いつでもどなたにでも、"いきなり" のシーンは人生につきものよ」
「デートなんてしたこともないし」
「どなたにでも、初めての◯◯は訪れるものよ」
「でも私…本当にどうしたらいいか、わからない…」
「ねぇ、想像してみて。その方と並んで歩く街を。公園でも、近所の何気ない道だっていいわ。どんな景色が見えて、どんな気持ちになるかしら」
あの日の夜道。
タクシーを降りて、無人の交番から私の家に向かう間、私の半歩後ろをついて来た野島さん。
時折振り返ると何か考え込むように厳しい表情を崩さなかった。
たった二度の瞬間だけ… “大丈夫だから” と告げた時だけ。怖い人ではないのかもしれない、と思ったのは。
だから、山科さんの言うようなシチュエーションは、どうにもこうにも想像がつかない。
デートって、みんな、どんな事しているのだろう。どこをどのように歩き、どこへ行き、どんな会話をするのだろう。
山科さんに訊いてみようと思ったけれど、図々しいかとも思い、やめた。
野島さんにチョコレートをあげたことは良かったのか、悪かったのか。食べてくれたのか、くれなかったのか。
わからないまま年度末になり最後の練習日を迎えた。その2日前に私は18歳になっていた。
*
今日いっぱいで弓道教室は受講生が入れ替えとなる。一部の経験者は講師として残り、野島さんもそのうちの1人だった。
私は大学進学もあるし、予定通り終了となる。
的に中る確率も上がり、ほんの少し上達したと思う。大学に行ってからもクラブに入って続けるかどうかは、まだ悩んでいる。囚われた私を解放し、無になりたいという目的は達成出来たから。
「福永」
練習後、道場の外で野島さんが手招きする。
「はい」
「これ」
廊下の隅で、彼は私に手のひらサイズの白い箱を差し出した。
「えっ。これはどうしたのでしょうか?」
「お返しだよ。この前の」
オカエシダヨ、コノマエノ。
?
「何のお返しでしょうか」
「一応、2月14日のお返しは3月14日に返すことになっているらしいよ。まぁもう14日は過ぎてるわけだけど」
"後は殿方がアクションをしてくださるから"
山科さんの声が脳内再生され、思わず大きな声を挙げてしまった。野島さんもびっくりしていた。
「そうなのですか!? 私てっきり…野島さんどうして私の誕生日をご存知なのかと…」
「誕生日? お前、早生まれだったんだ」
「はい」
「なら併せてって事で、ちょうど良かった。会社の同僚に見繕ってもらったから、変なもんじゃない、と思う。俺はよくわからん」
両手で受け取った載ったそれは、思いの外重さがあった。
「お渡ししたチョコレート、召し上がっていただけたのですか」
「うん」
「美味しかったですか」
「うん…まぁ。普通に」
「迷惑ではなかったでしょうか」
「…女子高生から貰うとは、さすがに思いもしなかったから、驚いたけど」
頭の中に再び山科さんの声が降臨する。
"デートしてくださいって、言うのよ"
「あ、え、デっ、デー…!」
「え?」
「あっ、いえ…」
危ない。頭の中の声が漏れてしまうところだった。
「これ…今開けてもよいでしょうか」
「家には持ち帰ると怒られるか」
「そんなわけではありません。気になっただけです。バレンタインのお返しを貰ってきたからと言って目くじら立てる人はもういませんから」
「そういやばあさん、どうしてるんだ?」
「まだ入院しています。あちこち色々出てきているみたいですが、よく知りません」
「善くはならないのか」
「母も私も、善くならなくていい、何なら戻ってこなくていいと思っています」
野島さんはフフッと笑った。
「いいんじゃないの、別に。人はいつか死ぬ。老いれば尚更。だけど身内にそんな風に思われて寂しいもんだな。でもそれが人生、己の歩んで来た道の行く末ってわけだ。ろくなことしてこなかったヤツは、ろくな最期は訪れない。神様ってのはちゃんと見てるんだな」
「…いいことおっしゃいますね」
「そうか? まぁ俺もきっと地獄行きだけどな。覚悟の上だけど」
「…何故ですか?」
「俺もろくなことしてないからな」
「そんなこと…ないと思います…」
少なくとも、私の胸に響き、私の脚を動かしてくれる言葉をくれました。
「それに俺は一人で死ぬ。だからどうでもいいっちゃいいんだ」
「…どういう事ですか」
「開けてみ」
自身に対し随分辛辣な事を言うと思ったが、それには答えず逆に開封を促され、私は白い箱にかかったリボンを解いた。
現れたのは銀色の丸い缶。蓋を開けると、パステルカラーに彩られた楕円の粒。その上にパラパラと、銀色の小さなまん丸の粒が散りばめられている。
「…かわいらしい…素敵ですね」
野島さんは照れたように目を逸らし「同僚が選んだんだ」と重ねて言った。アーモンドのお菓子との事だった。
「野島さん、あの…」
「なに?」
デート、してもらえますか?
そんなこと、とても言えない。
ただ、
「なんか話があるなら、俺も今日は上がるんだ。家まで送るから、そこで聞く」
と言い、野島さんは更衣室に消えていった。
これって…。
私が想像も出来なかった “近所の道を並んで歩く” という事、よね?
つまり、デートという事よね?
た、大変…山科さん…!
*
1階ロビーでそわそわと待っていると、白いセーターにジーンズ、黒のチェスターコートを羽織り、つばが長めのボールキャップを被った野島さんが降りてきた。私服を見るのは初めてだった。いつもスーツか袴姿しか見ていなかったから。なんだか学生みたいだ。
そんな意外な姿に緊張する。
「頂いたお菓子、待っている間に一粒頂きました。美味しいです」
「そうか」
「野島さんもお一ついかがですか?」
「いや、俺はいい」
「そうですか。ゆっくり、大事に頂きますね」
ほんの少し冷たい風に乗り、沈丁花の香りが漂ってくる。子供の頃から好きだなと思って嗅いでいた匂い。
今、このシチュエーションの全てが、私の五感に刻み込まれていく。匂い、風、温度、鼓動、隣にいる人…。
「あれ、お前の家こっちだったっけ」
「あ…実は年明けに引っ越したのです。今は隣の区に…」
「引っ越し?」
「私…鳩の息の根を、私の手で止めたのです」
「えっ!?」
「あ、鳩時計です」
「なんだ、びっくりしたー。めちゃくちゃ物騒なこと言うから」
「すみません」
そこで一度大通りへ出、しばらく車道沿いを進む。本当はバスに乗った方が速いが、今夜は特別だ。
「福永の家、鳩時計なんかあったんだ」
「祖母の代から家にある忌々しい鳩時計で、ずっとずっとうるさいと思っていたのです。あの日…野島さんが掛けてくださった言葉がずっと胸の中でこだましていて…私…鳥籠を壊したいと」
「それでその鳩時計を壊したってわけか」
「壊したと言うか、止めたのです。それに」
「…それに?」
「それに…両親が離婚することになりそうで。それで今、母親に付いて2人でアパート暮らしをしているのです」
「…そうか…」
「そうなのです。野島さんがおっしゃったように、私、あの家を一旦出ることが出来ました。もちろん野島さんのように雄々しくはありませんし、1人ぐらしはこれからの課題です。ですが…まさか本当に出られるとは思ってもみませんでした」
「そらみろ。男だの女だの、関係なかっただろ」
「野島さんのお陰です」
「そんなことない」
「でも…」
「きっかけをお前が自分で摑んだ。それだけのことだ。俺は大層なことなんか何もしていない」
私の言葉を遮って彼は強く言い放った。
更に暫く歩くと、野島さんはコートを前を開いた。
「こうやって歩いてると、もう冬物のコートはいらないな。でも脱ぐとまだ少し寒いか」
「そうですね。もうすぐ春です。そういえば…」
桜。
桜を忌々しげに見上げていた野島さんを、思い出した。あれからもうすぐ1年。
野島さんは桜が嫌いなのですか、と訊こうかと思った。けれど「どうしてそんなこと訊くの」と問われたら、説明が大変だなと思った。だから訊き方を工夫しようと考えた。
そうしながら、野島さんが歩く速度を合わせてくれていることに気がついた。考えながら歩くうちに落ちたスピードに、すっと彼の歩調も緩んだからだ。
「福永の新しい家、こんなに遠いのか。電車かバスの方が良かったんじゃないか」
「あ…話したり考え事していたりしたら…つい…」
半分本当、半分嘘。
「自分の新しいおうちにも真っ直ぐに帰れないのか、なんちゃってお嬢さんは」
けれどその言葉にはもう、以前のような棘はなかった。
「すみません」
「別にいいけど、謝らなくても」
「野島さんは、私が初めて好きになった方です」
野島さんは「えっ」と目を丸くして足を止めた。私は何を口走っているのだろうか?
「正気で言ってるの?」
「…たぶん。…はい」
「たぶんか。じゃあね、それは勘違いだよ」
「いえ、勘違いではないと…思いま…す…」
「勘違いだよ」
だって、山科さんが。
彼女が言ったこと…あなたが全て当てはまるのです。
気が付くとあなたのことを考えていて口元が緩んだかと思えば、急に苦しくなったり悲しくなったりするのです。
あなたは私の心を盗んだ代わりに、ものすごくたくさんの感情を私にもたらしているのです。
「私と仲良くしてくださっている学校のお友達が言ったのです。優しくて言葉遣いも丁寧な人が良い人とも限らないし、好きになるとも限らないと」
「俺のこと優しくなくて言葉遣いが悪いって言ってるんだな。まぁその通りだけど。そうは言ったってね、俺もさすがに女子高生を相手にはしないよ」
「理由は私が高校生だからだけですか? そうしたら来月からはもう大学生です」
「…」
「ごめんなさい。私、自分でも何を言っているかわかりません」
そこからは互いに言葉はなかった。
悲しみがこみ上げてきて、もうこの時間を早く終わらせた方が良いと速歩きしたけれど、野島さんはそれに合わせてはこなかった。
振り返ると、ゆっくりついてくる。
「気にしないで先に行けよ」
「…」
「どっかから襲いかかられたとしても対処できるくらいの距離感は持っておくから、どうぞ」
私は歩みを止め、振り返った。すると野島さんも足を止めた。
さっきまで並んで歩いていたのに。
再び、とぼとぼと歩き出す。少し後ろからついてくる足音に耳を澄ます。その音の安心感と、哀しさ。
沈丁花の香りも、今は哀しみがこみ上げてくる。
並んで包まれたら、もっと好きになっていたと思うのに。
哀しいシチュエーションに流れる香りとなって、きっとこの哀しみを思い出すことになってしまう。
角を曲がれば、4軒目がアパート。
もうすぐデートも終わり。
いえ、デートだなんて…私のただの夢想は、終わる。
その時、背後の気配にハッとし、振り向こうとした。
視界が0になる。
悲鳴に近い引きつった声も吸い込まれる。
息苦しい。
熱い身体、大人の男性の匂い。
抱き締められるのは、二度目だった。
#11へつづく
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?