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金髪の青年との出逢い
(9)月子さんとノブちゃんへ
ドアを恐る恐る開けると、一人の青年が立っているではないですか。
見知らぬ青年、金髪、茶色い目、Tシャツに短パン、両手でノートPCを持っています。背の高い青年なのでノートPCが小さく見えます。そしてそのコンピュータを指差しながら何かぼそぼそと訴えています。彼に近寄りコンピュータを覗き込み、キーを2、3触ってみましたが、どうやらコンピュータがフリーズしてしまっているようです。
「No Wi-Fi?」と彼が繰り返し、外国人がよくやるように肩をすくめて、不思議がっています。
たぶん彼はこの部屋には、Wi-Fiは来ているかと聞きに来たのでしょう。自分のスマホではインターネットにアクセスできるので、たぶん彼のコンピュータ側に問題があるのでしょう。ノートPCを強制終了させ、再起動をかけ、あるソフトをアンインストールすると正常に動くようになりました。たぶん何かのソフトをダウンロードしようとしたら、うまくいかず、フリーズしてしまったのでしょう。
正常に動くようになると、彼は子供がはしゃぐように喜び、「Arigato! Arigato!」を連発しました。どうやら片言の日本語ができるようです。笑っている目が部屋を眺めるなり、ワインボトルに目線が止まりました。飲みたそうな表情をしているので、グラスを口に運ぶジェスチャーをしてワインを勧めました。彼はまた「Arigato! Arigato!」と繰り返しました。
「美味しいですか」
彼はキョトンとしています。どうやら日本語は「ありがとう」程度しか知らないようです。自分も英語ができません。彼が持っていたノートPCで、無料オンライン翻訳サービスにアクセスしました。するとあっという間に日本語を英語に翻訳してくれます。
「あなたの名前は?」=「What's your name?」
「Thomas. And you?」=「トーマス。あなたは?」
といった具合です。こんな中学生程度の英会話もできない自分ですが、インターネットに感謝、感謝です。ネットのおかげで外国語ができなくても外国人とコミュニケーションが取れるのです。実に便利な世の中になったものです。
このオンライン翻訳サービスを使ってわかったことです。トーマスはドイツ人であり、休暇でマヨルカ島に来ているそうです。どうやら一人で来たようで、自転車に乗ったり、泳いだり、読書をしたりしているということです。
ホステルでネットにアクセスできる限り、彼とコミュニケーションをとることができます。でも、ノートPCだといちいちキーボードを打つのが面倒なので自分のスマホに音声通訳のアプリをダウンロードしました。自分がスマホに向かって日本語で何かを言うと、数秒でスマホから英語の翻訳が返ってきます。まるでスマホが自動翻訳機か、ロボットのようでとても便利です。
「How about you?」=「あなたはどう?」と聞かれたので「ワインを飲みに来た」と生半可な返事をしました。あながち嘘ではないでしょう。
「日本からわざわざマヨルカにワインを飲みに来たのですか!? 日本でもたくさんワインは売っているでしょ?」と、不思議そうに微笑みました。
「いや、美味しい、レアなワインを探しに来たのです」
彼は信じられないという表情で自分を見つめ、愉快な冗談でも耳にしたようにケラケラと笑っています。そしてトーマスが両手で泳ぐ真似をします。泳ぎに行かないかと誘っているのかと思い、自分はスマホに向かって、「どこに泳ぎに行くのですか」と尋ねました。
「世界で最も美しい浜辺へ行きましょう」と、彼が不気味な笑みをこぼします。
「すでに2時過ぎだけど、ここマヨルカ島ではいまが一番暑い時間帯。自転車に乗ったせいで、埃と汗で身体がベタついているから海に入りましょう。せっかく遥々日本からマヨルカ島に来たんだから、泳がないのはバカげていますよ」
彼いわく、マヨルカ島有数のビーチが近くにあるのだとか。
「It's a paradise!」「楽園だよ!」
まず、初日に行ったプロムナードの終着点まで行きます。そこを抜けると、オーシャンビューのホテルがあり、ビーチが広がっています。そのビーチの先には白い砂浜、遠浅の透明な海、白く割れる波、どこまでも青い空、水平線に浮かぶ白い帆のヨット、そのすべてが夏色に彩られ、すべてが眩しくはじけています。絵はがきか、写真集にしかもう残っていないのではないかと錯覚してしまうような夏の浜辺の光景。その海を見た瞬間、自分はため息をもらさずにはいられませんでした。余りの美しさを目にしたときのみに得られる感動、そして沈黙と絶句。心がすっかり洗われた気がし、一瞬ことばを忘れ、目眩がします。
自転車を止め、二人で浜辺に下り、サンダルを脱ぎ、裸足で砂浜を歩き出します。浜辺にはワラの傘とデッキチェアが列をつくり、傘の影のもと本を読んだり、寝そべったり、海を眺めながら日光浴をしたりして、暑くなったら泳いだりしています。そこにはのんびりと休暇、いや人生を楽しむ老若男女の姿があり、大人のバカンスがあります。
とはいえ、度肝を抜かれたことがあります――トップレスの女性が多いことです。ブラジャーをはずして乳房を太陽にさらし、こんがりと焼いているのです。みなさん、堂々としています。恥じる気配はありません。男に見られても平気な様です。
SPF50以上のサンオイルを塗っても紫外線を十分に遮断できないような炎天下、卵焼きが楽に焼けるほどの灼熱の太陽の下、オッパイをさらして大丈夫なのかなと余計な心配をしてしまうほど、何の屈託もなくオッパイを正々堂々とあらわにしています。
これは日本では絶対にお目にかかることのできない光景です。日本だけでなく、アメリカでも見かけない光景でしょう。何年か前、ハワイのワイキキをぶらぶらしていると、Tバックの水着を着た女性を見かけたものの、トップレスの女性は皆無。このトップレスはヨーロッパ的な現象だといえるでしょう。
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トップレスといっても、その姿はごく自然、とくに男が女をじろじろと見るということもないようです。トップレスの女性も余り男性の視線が気にならないらしい。あくまでも自然体、ヨーロッパのリゾート地らしくのんびりと、ゆっくりと海と夏を楽しんでいるのです。自分も見ぬふりをしながら、目の端でジロジロと見とれていました。
月子さん、ノブちゃん、自分が素晴らしいなと思ったのは、ビーチが日本のように若者に占領されていないことです。老いも若きも海と太陽を満喫している。家族連れが多く、ナンパも余りなさそうです。サザンオールスターズが流れる湘南のビーチとは雲泥の差、同じビーチといえども似て非なる光景でしょう。
当然、すべての女性がトップレスというわけではないようです。トップレスの女性もいれば、そうではない女性もいるのです。水着のブラジャーをするか否かは、本人の勝手、選択の自由。なかにはトップレスにならないほうがいいのではないかと思う女性までもがトップレスになっています。40代や50代、そして60歳過ぎの女性までが胸を露出しているのです。
失礼を承知で正直に述べましょう。女性のなかには、ピカソのキュービズム時代の絵画に登場するような体型がかなりデフォルメされた女性もいます。ないしはルノアールの絵に出てくるような三段腹、四段腹の太めの方も。でも、体形がどうであろうと、他人がどう思おうと、すべてのプライド、羞恥心、虚飾を脱ぎ捨てる大らかさ、やはりルネサンス時代から世界を支配してきたヨーロッパの懐は深いなと改めて感心しました。自意識過剰で他人の目ばかり気にしている日本人女性と比べると、その大胆さは羨ましいばかりです。その潔さには感動します。
女性だけじゃないでしょう。ヨーロッパの男性も解放されている。例えば日本人男性たる自分が、自分の恋人、愛人、妻がビーチでトップレスになることを許せるでしょうか。やはり彼女の生まれたままの姿は、自分が独占したいと思うはずです。月子さんとビーチに行ったとして、他の男があなたのふくよかな胸をじろじろと見つめることは到底許せないでしょう。「月子さん、お願いですから、ブラジャーをして下さい」と、土下座、それは大げさかもしれませんが、たぶん心の中では土下座をして嘆願していたに違いありません。月子さんのあの美しい胸を他の男が覗くことは耐えられなかったはずです。ノブちゃん以外は……。
トップレスを見ていて、ニュートンの引力の法則がいかに正しかったかと再確認します、他の森羅万象同様、オッパイも地面に向かって垂れ下がって行く運命にあるのです。人間、年齢には勝てないことを見事に証明しているその体型を目の当たりにしながら、自分は必然的にひとつの結論に達しました――人間は服を着ていたほうが美しい。
気のせいでしょうか、それとも男性の願望がそう思わせてしまうのでしょうか、若く美しい女性は胸を一般公開していない場合が多いようです。やはりもったいないのか、大盤振る舞いできないということなのでしょうか。するべき人はせず、しなくともいい人が胸をあらわにしている(失礼)。もう失うものは何もないからでしょうか。
トーマスの影を踏みながら長い海岸線をとぼとぼと歩き進むなり、自分はさらにこの世の出来事とは思えないものに遭遇します。アダムとイブに出会ったのです。トップレスどころか、「下」にも一切何も着けていないのです。聖書におけるアダムとイブの像とは違い、そのVゾーンにイチジクの葉も付けていないのです。数人の露出狂と出くわしたのかと思いきや、ある海岸に入った途端、そこは全員、男女ともスッポンポンなのです。
トーマスが大きなハテナマークが付いた自分の顔を見るなり、「ヌーディストビーチ」と小声で告げ、公言してはいけない秘密を打ち明けるかのような口調でクスクスと笑います。誰が決めたのか知りませんが、自然発生的に裸天国がそこに誕生しているということでしょうか。
「ここから先はヌーディストの楽園です」、ないしは「ここから先はエデンの園です」という看板か標識が出ているわけではありません。気が付くと、自分はそこに足を踏み入れていたのです。ビーチに行くことすら何十年ぶりなのに、エデンの園に足を踏み入れてしまうとは!
月子さん、ノブちゃん、ヌーディストビーチと聞いて興奮するかもしれません。でも、現実には40~50歳代、なかには孫の手を引く60代のオバアチャマやオジイチャマまでが、生まれたままの姿で浜辺を闊歩しているのです。大らかというか、微笑ましいというか。他にもデッキチェアに寝そべる、オープンスタンスの裸婦の姿があります。尻にタトゥー、ヘソにピアス、といったセニョリータも。なかには女の子の日のセニョリータもいます。男性のシンボルをこんがりと焼いているセニヨールも。サンオイルをたっぷりと塗っているので、さんさんと太陽を浴びてかてかと光っています。
若く美しい女性のヌーディストはいないようです。非常に残念でなりませんな。ミス・スペイン、ないしはミス・マヨルカのような女性はどうやらいないようです。トップレスはいるかもしれませんが、全身を一般公開している若い美人の方は稀らしい。
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トーマスが立ち止まり、リュックサックから折りたたみの日傘を取り出し、砂の中に刺します。風に飛ばされないように深く刺し、重い石を周りに置きます。日影にタオルを引き、そしてヨイショとばかりにトーマスが腰を落とします。自分も暑い砂の上にあぐらをかきます。
そこから見える海は限りなく透明で、空は抜けるように青く、風は潮の香りに満ち、白い波は静かに引いたり寄せたりしています。水平線はキラキラと輝き、そこには光る銀色の水玉が踊り、弾けています。
急にトーマスが立ち上がります。そしてスルッと海水パンツを脱ぎ、スッポンポンになります。そして自分の方を向くなり、その眼差しは「How about you?」、「ユーは脱がないの?」と、無言の疑問符を投げかけてきます。疑問符ではなく、誘いでしょうか。
自分はどうしていいかわかりません。視線を外します。視線をまた戻すと、彼はじっと自分を見つめているではありませんか。無言の疑問符です。一瞬戸惑いながらも、スイミングパンツを脱ぎ捨てます。
彼は自分を指差して、日本語を連発しだします――「カワイイ! カワイイ! カワイイ!」
月子さん、ノブちゃん、懺悔することがさらに増えたようです。
また、メールします。
(続く)