力が抜ける存在
なんとなく調子が悪いときがある。
朝もなんだか起きられず、出勤時間ギリギリになってようやく布団から体を起こす。
服もメイクも髪型も、なんだか全部がしっくりこなくて、またもやっとする。
出勤途中の空の青さと紅葉のコントラストに、少し心が軽くなったのもつかの間、仕事も思うように進まない。
いつもと何も変わらないはずなのに、自分にはないものを持った先生たちの働く姿を見ながら、なんだかそんな自分が惨めになる。
「私はあんな風に生徒と話せない」
「私はあんな風に授業を楽しんでやれてない」
「私はあんな風に慕われてないんじゃないか…」
そんな風に考えだしたらキリがない。
自分でも驚くほどの勢いで、自分のダメなところばかり頭に浮かぶ。
それぞれのらしさがあって、いいとこも悪いとこもあるんだから、「誰か」になろうとしなくていいと、頭ではわかっていても、どうにもならないのだ。
そうやって、脳内でたっぷりと1人ノックをして、ヘトヘトの状態で岐路につく。行きよりも足はさらに重くなっている。
「あーあ、今日はちっともニタニタできてないや」
"ぐっちょんみたく毎日、ニタニタしながら生きていく"
自分がどんな風に生きていきたいか、それを考えたときに書いた言葉。
ぐっちょんというのは、中学の同級生で、これがまたとてつもなく変な奴なんだけど、間違いなく私の人生に大きな影響を与えた人の1人。
当時はわからなかったけれど、あれから15年近くたって、わかったことがある。
ぐっちょんは、いつも「すべてを受けとめて生きていた」ということ。
彼が怒っているところをほとんど見たことがないし、人の悪口や文句もいつもどこか他人事のように聞こえた。
いつでも、どこでも、誰に対しても、「そうだねぇ~」と生きていた。
それはもちろん自分に対しても。
本当に言っていたかどうかは記憶が曖昧だけれど、
「これが僕だから、仕方ないよねぇ~」
どんなに変人扱いされようと、先生に怒られようと、そう言って彼はいつもニタニタ笑っていた。
当時からどうしても肩に力の入りやすかった私は、あのニタニタにいつも救われていたし、15年経った今でも救われている。
あんなに気が重かった今日1日も、あのニタニタを思い出しただけで、なんだか悩んでいるのが馬鹿らしく思えてきた。
「それでいいんだよぉー」
「もっと、肩の力を抜いていいんだよぉー」
って、なんだかそんな風に言われてるような気がしてくる。
うん、これでいいよね。
全部ひっくるめて私だもん。
私は、私にできることを。
それをしっかり胸張ってやっていこう。
もしまた肩に力が入ってしまったら、もう少しだけぐっちょんの力を借りながら、ニタニタしながら生きていこう。
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