「自分のために自分を着飾る」ということ
■私の身体には価値がある
前回は、「ジェンダー」としての女性であることについて話したが、LGBTの人々と、多くの女性が持つ「生きづらさ」には似た部分がある。小川たかまさんの著書『「ほとんどない」ことにされている側から見た社会の話を。』の書籍説明を少し拝借すると、性暴力被害、痴漢犯罪、年齢差別、ジェンダー格差、女性蔑視CMなどを「ほとんどない」ことにされてしまう「女性」という性。LGBTも近年までずっと「なかったこと」にされ続けていた。
そこで今回は「肉体」としての女性であることについて話そうと思う。
唐突だが、「ヤらせてあげたのに」メンタリティの女性は、自分の体に相当の価値を見出しているということだと思う。ヤった側からしたら、あなたも気持ちいい思いしたんじゃないの? という感じだが「ヤらせてあげたのに!」な人はおそらくセックス自体は好きじゃないし、気持ちよくもないんだろうなと思う。女性が性に対して能動的であることをヨシとしないから「抱かれる」とか「ヤらせてあげる」になるのか? 性に能動的だからって尻軽だとは限らないのに。それに、たとえ性に奔放だったとしてもまったく問題ない。
これはもう、いろんな人と話してきたことだが、私は誰かとセックスをしただけでは相手を好きになることは絶対にないし、したら好きになってしまう人の気持ちにはあまり共感できない。セックスによって自己肯定感が高まるという話は理解できるが、それが「好き」とどう関連性があるのかがイマイチ理解できない。その「好き」は、自分の性欲をオブラートに包むための幻想ではないのか?
おそらく、体の関係ができると「受け入れてもらえた」と錯覚するのだろう。すべてをさらけ出して、それを受け入れられた。こんなに気持ちのいいことはそうそうない。「セックスしたら好きになっちゃうよ~」は、受け入れてもらったことによって起こる、自己肯定感の充足だろう。特に、トランスジェンダーの人は身体の作りに強いコンプレックスを持つ人が多く、「ありのままの自分を受け入れてくれた!」という喜びがより強まるように思う。
「女性は身体が受け入れるようにできているから、性にも受動的」とはよく言われたことだが、そんな物理的な凹凸で感受性が決まるとは、到底思えない。なぜなら、受動的な女性のとなりには、性に自由で能動的な女性がたくさん存在するからだ。私もそのうちのひとり。しかし、性に受け身な女性がもてはやされるのは、処女信仰の強い日本ならではだと思う。
■恋愛至上主義の世界
私も、恋人がいないときはかなり積極的に「とっかえひっかえ」する。私「も」と書いたのは、先日『来世ではちゃんとします』という、いつまちゃんさんが書いた漫画を読んだからだ。書籍紹介を引用すると「業務の乱れは性の乱れ! 承認欲求と好奇心と寂しさの狭間で、5人のパートナーと愛を営む桃ちゃん。彼氏いない歴=年齢の、ボーイズラブ大好きギャル梅ちゃん。女たらしのクールなイケメン松田くん。トラウマから処女しか愛せなくなった林くん。風俗の女性にガチ恋中の檜山くん。性をこじらせた者たちの生態を赤裸々に活写! 現世は諦めた社畜たちの性生活ぶちまけコメディ!」といった、さまざまな種類の性と恋愛にまつわる漫画だ。
性に奔放な男女のコメディだと思って読みはじめたのだが、ひとつ気がついてしまった。私は、どの女性にも共感できないうえに、女たらしのイケメンに一番共感したのだ。まず、主人公の「桃ちゃん」、パートナーは5人いるがその中に序列があり、そのうちのひとりが本命なのだ。ポリアモリー(複数人と同時に性愛関係になる、セクシャリティのひとつ)なのかと思いきや、本命が恋人にしてくれないのを理由に、ただただ承認欲求を満たすためだけに男性を利用している。処女の「梅ちゃん」に対しては誰しもが当然のように、経験がある前提で話をするし、当然のように「恋人ほしいでしょ」という振りをする。女たらしの「松田くん」は、どの女性にものめりこめず好きにもならないので、自分のことをクズだと思っている。
当然のように、相手が好きでなければセックスしてはいけないかのような描き方なのだ。せっかくテーマがおもしろいのに、なんとなくもったいないような気持ちになった。なぜなら、性欲と愛情は必ずしもイコールではないから。(とはいえ、作者と豆林檎の個人的な見解がちがうだけであろう)
■自分のために自分を着飾るということ
人間誰しも、性的に求められるために自分をセクシーに着飾る権利がある。しかし、セクシーに着飾っているからといって、それが「性交渉への無言の合意」にはならないのだが……。
先日、アイルランドで17歳の少女がレイプされ「全面レースのTバック下着を身につけていたのなら、性行為に合意したも同然(誘っていたんだろう)」とされ、犯人が不起訴になる事件があった。セクシーな下着をつけていたら、性行為に無言で同意したことになるなんて、狂っているとしか言いようがない。
アイルランドは敬虔なカトリックの国だ。以前、親友の父にレイプされた14歳の少女が妊娠したが、中絶が認められず騒ぎになったこともある(敬虔なキリスト教において、中絶は殺人と同義とされている)。結局少女は自殺の可能性があるということで、イギリスに渡って中絶手術を受けた。
セクシーな下着を着ていようと着ていまいと、もしも誰かを誘惑するためにセクシーな下着を着ていたとしても、機能性を求めてTバックの下着を着ていたとしても、女性は自身の身体を自由に表現したり守ったりする権利がある。短いスカートを履いているから、盗撮してもいい? 胸元が開いている服を着ているからボディタッチしてもいい? 何がセクハラになるかわからないから、女性を排除しよう? それらを決めていいのは、性的消費をされる危険性のある本人たちだけだ。
Twitterでも「レースやリボンのついた下着は“趣味の下着”であるから、そんなものを身につけているのは、男を誘惑するためである」という言説が流布されていた。「レースやリボンには機能性があって、必要なもの」という反論が多く見受けられた。再度言うが、機能性があろうがなかろうが、誘惑するためだろうがそんなものはどちらでもいいのだ。それを決めるのは下着をつける本人であって、どちらの意図も尊重されることが女性のエンパワメントにつながると思う。
女性の性をどうにかして思い通りにしたい人間が多すぎる。しかも、それに迎合している女性も多い。自尊心を保つために、そうするしかない状況にある人もいる。でも、自分の身体をどうするかは、自分で決めることだ。女体に生まれたからといって、男性が持つ「女性性への幻想」を体現してあげる必要はない。しかし、そうするかしないかは個々の自由で、自由にする権利は誰にも侵略できない尊いものである。
■おまけ
このコラムを書きはじめたとき、最終的には「女性の生きづらさ」に至るように書こうと決めていた。女性向けの媒体に寄稿するから、というのも理由のひとつだ。そして、LGBTであること、性別に起因すること、すべてにおいて、どの「生きづらさ」がより苦しいかは、苦しんでいる本人にしかわからないし、それを「苦しむことじゃない」と、なかったことのように抑圧されて歪んでしまっているかもしれない心に、手を差し伸べられるコラムにしたかった。それに、書きはじめてから自分の情報収集アンテナが、さらに広がったように感じる。自分の中で内包されている感情に、気づくきっかけにもなった。書くことで自分の成長を助けられたという実感すらある。
書くことで私を助けてくれたこのコラムが、誰かの目の鱗を落としたり、誰かの救いになってくれたりしたら、これ以上ない幸せである。平成最後にこの機会を与えてくれた、編集部に心から感謝している。
<参考・引用文献>
来世ではちゃんとします!いつまちゃん | 集英社 グランドジャンプ