本当の「多様性」とは?
「多様性」とは「ある集団の中に異なる特徴・特性を持つ人がともに存在すること」です。
つまり、そこには良い意味も悪い意味もない。
「多様性の尊重」で初めて良い意味になるんです。
でも今は「多様性」と言うだけで、すべての議論が終わってしまう程、キラキラワード(キラーキラーかも)になっています。
「多様性」というワードに少しでも逆らうと、「差別主義者」とか「ファシズム」みたいなレッテルを貼られてしまいます。
「多様性」の反意語を調べてみると「画一性」と出てきます。
でも、「画一性」ってネガティブなニュアンスを含んでると思いませんか?
そこで、試しに辞書で「画一性」とひいてみると、「個々の事情や個性、性質を考慮せず、全体を一様にそろえること」と書いてありました。
🤔なんかフェアじゃないですよね。
「多様性」は「その集団の中に多様な個性の人たちがいる」というだけなのに、その反意語には「個々の事情や個性、性質を考慮せず」ってわざわざネガティブな味付けで書いてるなんておかしいでしょう。
私が思うに「多様性」の反意語は「統一性」ではないでしょうか。
多様な人(もの)の集まりが、集団として一つに統一されているイメージの言葉ですね。
「統一性」にもプラスの面とマイナスの面があるので、「多様性」と同じく、このワード自体は良くも悪くもないフラットなワードです。
もしも「多様性」が行き過ぎて、「アンチ多様性」の時代が来たら、きっと「統一性」がキラキラワードになるんだと思います。
そして「多様性」は「バラバラで、まとまりのない、無秩序な」というイメージに変わる。
メディアや世間なんて、すぐに手のひら返ししますからね。
つまり、「多様性」の尊重はとても大切なことだけれど、それが行き過ぎて、みんな「多様性」そのものが素晴らしいものだと錯覚してしまっている。「多様性」は良いものにも悪いものにもなりうるのに。
その結果、「多様性」の仮面をかぶった「画一性」が増えることになるのです😮💨。実際、こういうのってたくさんあります。
「エコ」とか「クリーン」とか「ヘルシー」とかですね。
例えば、火力発電も原子力発電も太陽光発電も、どれも万能ではなく一長一短あるのに、「エコ」という言葉を勝ち取ったものが全面的な勝者になり、他を排除できる。
それぞれの良さで、互いの弱点を補い合えばいいのに、「太陽光」は「クリーン」、「火力」は「環境に悪い」みたいな印象操作に走る。
それこそ「多様性」の時代にちゃんちゃらおかしいですよね🤭
結局、利権を得るために、キラキラワード争奪戦が起きてるんだと思います。
話を戻しますが、「多様性」という言葉が、薄っぺらなキラキラワードになったことで、本来の「多様性の尊重」が見失われているように感じます。
国家も学校も企業も家族も、もともとバラバラな個性を持つ人たちが、同じ目的で統一されることで成立しているものです。だから「統一性」があるからといって、個性が尊重されないというものではない。
「個々が好き勝手する自由」はなくなるけれど、お互いを尊重する意識はより強くなるし、そうすることでみんなが幸せになるものですからね。
すなわち、「統一性」と「多様性」はコインの裏表のようなものです。
多様性を尊重することで良い統一性が生まれるし、統一性がある集団にいることで多様性が良く機能すると思うのです。
よく目標に掲げられる「One for all, all for one!」ですよね。
でも、今は「One for all」と言えば「ファシズム」とか「右翼」、「all for one」と言えば「リベラル」「人権派」と区分される。
でも、それってフェアじゃないし、そもそもこの2つを分断するなって話です。
「多様性」の名のもとに「all for one」ばかり主張するノイジーマイノリティや、日本のルールや文化には従わないのに権利だけは主張する外国籍の人などがたくさんいます。
ちょっと違うんじゃないですか?
日本国民としての「統一性」を保ちつつ、個々や外国の方の「多様性」も尊重する。
この両輪を保ってこそ、「日本」という国家が名実ともに続いていくのだと思います。
インチキな「多様性」の先にはヘンテコな「画一性」しかないですし、ちゃんとした「多様性」の先には、しっかりした「統一性」があるのです!