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Container from Malaysia(コンテナ フロム マレーシア) 第87話 イスラム教徒の埋葬の背景にあるもの

前回の話はこちらから
 
https://note.com/malaysiachansan/n/n76765dca976e
 
 この話は2022年に遡る。マレーシアの港湾でコンテナリース会社を経営する氷堂律(ひょうどうりつ、通称ちゃん社長)は、この日、朝から仕事が手に着かなかった。取引先の社長であるアダムが危篤になっていたからだ。2016年に香港の親会社から辞令を受け、マレーシアの子会社の社長に就任した氷堂は、当初、地場の顧客の開拓に苦戦していた。その中で最初に仕事を発注してくれたのがアダムだった。アダムはマレー系のムスリムだが、それ以来、氷堂が何か問題を抱える度に親身になって助けてくれた。氷堂にとってみれば、マレーシアにおける父親のような存在だ。
 
 ただそんなアダムも病気には勝てなかった。アダムはまだ60代後半だが、日ごろの不摂生がたたって糖尿病を患っており、2年前からは息子に事業を委ねていた。その後もアダムは入退院を繰り返していたが、いよいよ危篤になったのだ。人間いつかは寿命を迎えるものだが、それを受け入れるのは本人も周りの者も決して容易ではない。氷堂はアダムが入院するPantai Hospital Klangへと車を走らせた。
 

 
 Pantai Hospital Klangを運営するパークウェイ・パンタイは、東南アジア最大級の民間病院グループとして知られている。彼らはマレーシア・シンガポール・香港・インド・中国に総合病院を展開しており、その数は60を超える。ちなみにパークウェイ・パンタイの最大の株主は、マレーシアの国営投資会社のカザナ・ナショナルであり、パンタイグループは文字通りマレーシアを代表する医療法人と呼ぶことができる。
 
 日本人の中には、「東南アジアの医療=遅れている」と思う人もいるかもしれない。しかし実態としては、日本に全く引けを取らない先端医療が提供されており、パンタイグループもそのような医療施設の代表格だ。ただ日本と違うのは、医療の分野でも徹底した資本主義が敷かれている点だ。日本には国民皆保険制度があり、どんな人でも1~3割の負担で先端医療を受けることができる。しかしマレーシアには国民皆保険制度がないため、先端医療を受けたければ自己負担か、もしくは民間の任意保険に入っておくしかない。これも東南アジアの現実だ。
 
 
 さて氷堂が病室に着くと、アダムはベッドに横になっており、その脇には妻のアザーがいた。先週をもって、緩和医療に移行したらしい。アダムは重度の慢性腎不全を患っていた。驚くべきことに、マレーシアでは成人の1/5、50代以上の 1/3が糖尿病を患っており、罹患率は日本の10倍に匹敵する。マレーシア人は常に糖分過多の食事を摂っているため、糖尿病が国民病として定着している訳だ。ちなみに日本で60代の男性が亡くなれば、それは相当な早死にと思われるが、マレーシアにおいては全く普通の出来事である。それだけマレーシアの平均寿命は短い。
 
 横になるアダムの顔を見ると、意識はなく、蒼白で、腹水も溜まっているようだった。もうそう長く生きられないのは、素人の氷堂から見ても明らかだった。アダムは実業家で資産があり、だからこそパンタイ病院の先端医療を受けることができている訳だが、それをもってしても、病気には敵わないようだ。その様子を見て、氷堂は胸が苦しくなった。その後15分ほど病室にとどまり、最後は妻のアザーに挨拶をして、病院を後にした。
 
 
 その3日後の早朝、メッセージングアプリのWhatsAppが鳴った。差出人はアダムの妻であるアザーであった。そこにはこう書かれていた。
 
 
『夫のアダムですが、残念なことに昨晩未明に亡くなりました。64歳でした。葬儀と埋葬を行いますので、ご都合が付けば本日の3時にモスク「Masjid Bandar Diraja Klang」にお越しください』。
 
 
 氷堂も覚悟はしていた。それでも二度とアダムに会うことができないと思うと、涙が溢れてきた。ただ同時に、いくつか疑問に思うことがあった。アダムは昨晩未明に亡くなった訳だが、仮に今日の夕方に埋葬をするならば、死後わずか10数時間しか経過していないことになる。一般的に日本では通夜を行い、その後に葬儀をして火葬に至るので、死後1週間近く安置する事も珍しくない。日本の状況と比較して、マレーシアのそれは余りにも異なっていた。加えて今日の午後の葬儀と埋葬を行ってしまうならば、遠方に住む親族は絶対に間に合わないだろう。果たして問題ないのだろうか。
 
 それを確かめたいと願った氷堂は、アダムの葬儀へ参加することを決めた。しかしその後に氷堂が知ることになったのは、日本人では知り得なかったイスラム教の死生観と、彼らの幸福な姿だった。
 

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マガジンは毎週1回、月4回更新します。コンテナ業界の裏話を含んだ自伝的小説「Container from Malaysia(コンテナ フロム マレーシア)」と、日本の構造的問題を海外の経営者の視点で統計と共に読み解くコラム「海外から見た、日本の良い点・おかしな点」を隔週で更新。貿易に関心がある方、海運やコンテナ関連の株をお持ちの方、またマレーシア在住者を含む海外移住者やそれを目標にしている方、更には日本の行政や教育システムに疑問をお持ちの方に有用な情報をお届けします。

香港・マレーシアでコンテナリース会社を経営中。マレーシア在住。コンテナや海運業界の裏話や、海外から見た日本の素晴らしい点やおかしな点を統計…

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