Container from Malaysia(コンテナ フロム マレーシア) 第7話 香港(Hong Kong)への旅立ち
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https://note.com/malaysiachansan/n/n465c115dd8fd?magazine_key=m0838b2998048
横浜のドヤ街で生活を続けていた氷堂律(ひょうどうりつ、通称ちゃん社長)は、遂に本社行きの辞令を受けた。これにより氷堂の職場は、港湾からみなとみらいへと移るのであった。
氷堂はみなとみらいの雰囲気に圧倒されながら、みなとみらいの本社へと向かった。みなとみらいと横浜の港湾との距離は、実は直線距離で数キロしか離れていない。それにもかかわらず、同じ横浜とは思えないような近未来都市の光景がそこには広がっていた。そして氷堂は出社すると早速加藤から呼び出され、今回の辞令の目的について説明を受けた。
「氷堂君、今回の辞令を快諾してくれて嬉しいよ。先日も伝えた通り、この度弊社は国際物流から通関、倉庫保管、更には国内物流に至るまで、一気通貫でお客様にサービスを提供する部署を新たに設立する事になった。これを我々の業界用語では3PL(サードパーティー・ロジスティクス)と言うんだが、将来的にはこの事業が我が社の基軸になっていくものと確信している。そして私自ら営業本部長として、この事業を牽引する事になった。氷堂君には今回ここで活躍してもらいたいと思っている。まだチーム自体が新しいから試行錯誤が続くと思うけど、チームのメンバーと協力して進めて行って欲しい。宜しく頼むね。」
加藤から説明を受けた氷堂は、早速チームのメンバーと挨拶をした。メンバーには同じ社内から異動してきた人物や、中途採用で入社してきた人物もいた。それは総勢10名ほどで、殆どが慶応や早稲田、また国立大学を卒業してきた高学歴のエリートたちであり、中には海外留学を経験した事のある者もいた。一方の氷堂は高卒であり、港湾や物流倉庫で肉体労働ばかりを行ってきたため、そのキャリアは周囲と比べて明らかに異質なものであった。しかしそれに引け目を感じても何も始まらない。氷堂は彼らと同じ土俵で戦う事を心に決めていた。
最初氷堂に割り当てられた仕事は、上司の営業に同行する事だった。見込み顧客の殆どは外資系企業であり、彼らは既に他の物流会社に運営を委託していた。それを営業活動によって他社から奪うのは並大抵の事ではなかった。一方で3PL事業を受注できた場合、物流の川上から川下に至るまでがそのサービス範囲となるため、売上も非常に大きく、1社で年間数億円に及ぶ事も少なくない。しかしその反面、営業先の意思決定には長い時間がかかり、殆どの外資系企業では海外にある本社を説得する必要がある事から、粘り強い営業力が求められた。チームが発足して最初の3か月は全員が試行錯誤を繰り返していたが、次第に関心を持つ見込み顧客が現れ始めた。
この点で次に困難を極めたのが、見積りの作成であった。今でこそ3PLを提供する物流事業者は少なくないが、2000年代当時はまだ決して多く無かった。3PLはサービスの提供範囲が多岐に及ぶため、作成する見積りの種類も膨大なものとなる。例えばその中には国際物流の費用や、通関にかかわる税金関連、更には倉庫の保管料金や、国内の運送料金などがそれに含まれる。これらを関連会社と連携を取りながら見積りを作成するのだが、例えば為替や原油価格の変動に伴い見積りも変動してしまう為、精度の高い見積りを作成するのは一苦労だった。
この見積りの作成も氷堂に与えられた重要な仕事だった。氷堂はこれまで肉体労働にのみ従事してきた為、「見積りとは何か?」という基本的な事すら良く分かっていなかった。しかし氷堂は経理部から見積り作成の基本を学ぶと、すぐにその要領を掴んだ。なぜなら氷堂は高校時代に全商簿記1級と日商簿記2級を取得しており、図らずもお金の動きの基本について理解する事ができていたからだ。加えて学生時代の氷堂は数学が非常に得意で、既に小学生の段階で高校3年生の微分積分を解く事が出来ていた。こういった数学的思考も見積り作成に大いに役立った。次第に氷堂の作成する見積りは非常に分かりやすく、尚且つ精度も高いという評価を得るようになっていった。
加えて氷堂は誰よりも現場を良く理解していた。チームのメンバーの多くは学歴こそ優れていたが、港湾の現場や倉庫の現場で何が起きているのかは全く理解していなかった。そのため彼らの提案は「頭でっかち」になりがちだった。一方の氷堂は港湾の現場で7年、倉庫の現場で3年を過ごしてきており、現場で生じる問題や軋轢についても誰よりも理解していた。その為、氷堂の提案には非常に説得力があった。次第に顧客は営業の担当者として氷堂を指名する様になっていった。
そしてチーム結成から半年が過ぎた頃には、1社、また1社と契約が取れるようになってきていた。そんなある日、加藤がチーム全員を集めてこういった。
「みんな、ここまで良くやってくれているね。それで今回はみんなをねぎらいたいと思っている。今度のゴールデンウイークは逗子マリーナに集まって、私が持っているクルーザーでバーベキューをしないか。海を見ながらシャンパンでも飲んで、思い切り楽しもう。家族や彼女を連れてきてもらっても構わないよ」
加藤は「横浜の名士」と呼ばれる一族の一員であったため、莫大な資産を有しており、クルーザーも数台所有していた。そして加藤はこう続けた。
「誰が幹事をやってくれるかな?」
チームのメンバーはクルーザーに乗れる事を喜びはしたものの、幹事になる事は渋っている様子だった。確かにバーベキューの幹事は、参加者の可否の確認や食材の調達などをしなければならず、非常に骨の折れる仕事であった。そして誰もやりたがらない様子を見て、氷堂は手を挙げた。
「私にやらせてください」
氷堂の申し出を聞いて、面倒くさい仕事をしないで済んだメンバー達はホッとした様子だった。そして加藤の表情もとてもにこやかになった。
「氷堂君、宜しく頼むよ。」
さてクルーザーでのバーベキューの約1か月前から、氷堂は忙しい毎日を過ごしていた。氷堂は本社への異動に伴い給料も少し上がったため、遂に3年に及ぶドヤ街生活から抜け出し、横浜の石川町にアパートを借りて住み始めた。しかし元々荷物を殆ど持っていなかった氷堂の部屋には、ベッドくらいしか物がなかった。そこで最初氷堂は小さい冷蔵庫を買おうと考えていたのだが、バーベキュー用の食材を保管する事を考えて、大きな冷蔵庫を購入する事にした。食材の費用自体は加藤から払い戻せる事になっていたのだが、実際に食材を調達すると、3段の冷蔵庫はバーベキューの食材でパンパンになってしまった。そしていよいよバーベキューの当日になり、レンタカーで氷堂は逗子マリーナへと向かった。そこには美しい海とクルーザーが並んでいた。
バーベキューが始まると、氷堂は忙しく働いた。火を起こし、食材を焼き、シャンパンを注ぎ、会話を盛り上げた。しかし氷堂にとってこういった時間は全く苦ではなかった。むしろ自分の企画通りに物事が運ぶのを見て達成感を感じていた。そして何よりもメンバーが楽しむ顔を見て、氷堂自身も嬉しく感じていた。そして全員が解散した後も、氷堂は一人でマリーナに残り、黙々と片づけを行っていた。
一方で加藤はその様子をずっと遠目で観察していた。そして片付けが一段落した頃、加藤は氷堂に真剣な表情で声を掛けてきた。
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ちゃん社長のコンテナ・海運業界・マレーシアの裏話。
香港・マレーシアでコンテナリース会社を経営中。マレーシア在住。コンテナや海運業界の裏話や、海外から見た日本の素晴らしい点やおかしな点を統計…
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