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Container from Malaysia(コンテナ フロム マレーシア) 第92話 脅かされる先住民族たちのアイデンティティ

前回の話はこちらから
 
https://note.com/malaysiachansan/n/n4222e521b059
 
 この話は2022年に遡る。マレーシアの港湾でコンテナリース会社を経営する氷堂律(ひょうどうりつ、通称ちゃん社長)は、この日、コタバルというマレー半島の東海岸北端にある街と向かっていた。コタバルはタイとの国境近くにあり、クアラルンプールから600km超、車で約7時間の距離がある。コタバルには取引先がおり、当初は飛行機で向かおうと考えていたが、コタバルは寂れた地方都市であるため、公共交通機関もほとんどない。仮に飛行機で移動したとしても、空港からレンタカーを手配する必要がある。それで氷堂は考えを改め、自ら車を運転してコタバルへと向かうことにした。
 
 ただ40代の氷堂にとって、7時間の運転は体力的にもかなり厳しい。それで中間地点あたりで一泊して、休憩を取ることを計画した。場所はクランタン州の「グア・ムサン」という田舎町だ。グア・ムサンという言葉は、字義的には「ジャコウネコの洞窟」を意味している。確かにこの地域には、無数の洞窟に野生のジャコウネコが生息している。特に有名なのはブキット・グア・ムサンと呼ばれる崖で、その高さは105mに達し、内部は巨大な洞窟となっている。
 

 
 グア・ムサンの街までたどり着いた氷堂は、ブキット・グア・ムサンの崖を眺めながら、通り沿いの小さなカフェに入った。メニューらしいメニューもないその店は、閑散期なのかディナータイムにもかかわらず、他に客はいなかった。氷堂は適当にナシゴレンを注文すると、料理を待つ間、店内の一つのポスターに目が留まった。そこには次のように書かれていた。
 
『政府はテミアル族を守れ!』
 
 そのポスターはマレー語で書かれていたが、中国と英語でも対訳が振られており、日本人の氷堂でも内容が容易に理解できた。ただ氷堂は疑問に思った。「テミアル族とは何なのか」と。それで再び店員を呼び止めて、質問をしてみた。
 
「お忙しいところ申し訳ありません。そのポスターに書かれている『テミアル族』とは一体なんでしょうか…」
 
 すると初老の男性の店員は言った。
 
「あぁ、テミアル族というのは、このグア・ムサン近郊に住んでいる先住民族なんですよ。一応西マレーシアにいる先住民族の中では最大の民族で、山奥で昔ながらの生活を送っているんですね」。
 

 
 店員の言葉を聞いて、氷堂は驚いた。氷堂は2016年にマレーシアに来たので、この時点で既に6年が経過していた。会社を経営し、マレーシア人のローカルも多く採用し、行政との折衝も自らこなしてきたことから、この国についてはある程度理解しているつもりだった。そんな氷堂でも、テミアル族という先住民族について聞いたのは初めてだった。しかもこのグア・ムサンの街から首都クアラルンプールまでは、車で3時間程度の距離しかない。ご承知の通り、クアラルンプールでは超高層ビルが建ち並び、無数の人たちが先進的な生活を送っている。そこから大して離れていない場所に、昔ながらの生活を続ける先住民族が住んでいるとは、氷堂も驚きを隠せなかった。すると店員はさらに話を続けた。
 
「大きな山が見えるでしょう。テミアル族はあの中腹あたりに住んでいるんですよ。ただ近くダムの建設が予定されていましてね。そのダムが完成すると、彼らの生活に支障がでると予想されているんです。そんなこともあって、政府の代表者との話し合いが続けられているんですが…まぁ、こればかりは彼らの生活に関わる話なので、代替地を用意すれば済むという問題でもなく、なかなか解決の糸口が見えないんですよ」。
 
 店員はそう言うと肩をすくめた。そして言葉を繋げた。
 
「そうだ、ここから500mくらい進んだところに商店街があるんですが、その中に先住民族の人たちの事務所があります。今回のダム開発に面して、政府とどう対峙するのか、そこでいつも話し合いが持たれているんですよ。もしご都合が付けば、足を運んでみてはいかがですか?きっと詳しく教えてくれますよ」。
 
 そう言うと男性は目尻に皴を寄せ、氷堂のテーブルから離れていった。ただ店員の言葉を聞いて、氷堂もいくつか疑問が湧いてきた。この21世紀の文明が進んだ社会において、都会からわずか3時間の場所に先住民族が存在していることだけでも驚きだが、日ごろの彼らはどんな生活を送っているのだろうか?またどんなアイデンティティを持っているのだろうか?と。それを知りたいと願った氷堂は、彼らの事務所に足を運ぶことにした。しかしその後に氷堂が知ることになったのは、物質的な価値観に侵されない先住民族たちの強い意志と、お金だけでは決して測れない深い心の豊かさだった。何よりもそれは、現代の日本人が忘れかけている大切なものだった。
 

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マガジンは毎週1回、月4回更新します。コンテナ業界の裏話を含んだ自伝的小説「Container from Malaysia(コンテナ フロム マレーシア)」と、日本の構造的問題を海外の経営者の視点で統計と共に読み解くコラム「海外から見た、日本の良い点・おかしな点」を隔週で更新。貿易に関心がある方、海運やコンテナ関連の株をお持ちの方、またマレーシア在住者を含む海外移住者やそれを目標にしている方、更には日本の行政や教育システムに疑問をお持ちの方に有用な情報をお届けします。

香港・マレーシアでコンテナリース会社を経営中。マレーシア在住。コンテナや海運業界の裏話や、海外から見た日本の素晴らしい点やおかしな点を統計…

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