ホラー短編集「NN4444」の考察と感想・なにが「不条理」だったのか?
先日、下北沢で放映中のホラー短編集「NN4444」を観た。
筆者は、「フェイクドキュメンタリーQ」「イシナガキクエを探しています」「行方不明展」などの作品に惹かれ、ジャンプスケアなどを一切含まない生理的・もしくは本能的な恐怖や違和感などを主菜に据えたホラーテイストの作品にのめり込み始めていたところ、SNSで「NN4444」と出会った。
少し前は「SCP財団」に掲載されている記事なども楽しむこともあったため、上記に挙がっている作品のような情報が読者・視聴者に完全には提供されず、こちら側が何か”迎えに行く”ところまで含めてを作品とする類の作品につきものである「考察」は、筆者がこういった作品を楽しむには必須であった。
人並みに「ワンピース」や「呪術廻戦」などの漫画も読むため、たまにYouTubeで考察動画を探してはあまりに的外れな説を聞かされ首をかしげることもしばしばあった。
だが、前述したような"迎えに行く"作品のファン層ははやり慣れていると言おうか、多様な考察もそれなりに意味の通るものとなっていて、筆者にとって作品自体を楽しんだ後のもう一つの楽しみとして成立していた。
「NN4444」鑑賞後、そういった解説や考察を探したが、調べているにつれて一つ気づいた。
これは映画であって、モキュメンタリーや”意味怖”ではない。強いメッセージ性があるはずだし、そもそも監督側も考察なんてして欲しくて作っていないのではないか、とふと思った。
そりゃあそうだ。考察、と銘打って妄想だらけの謎世界観を自分の作品と結びつけられたらたまったものではない。
実際、見つかった解説・考察記事は言ってしまえば「そんなことはわかりきっている、もっとないのか」と漏らしてしまいそうなものが多かった。欲していた新しい視点はそこにはなかった。
前置きが長くなったが、この記事は筆者のような人間に新しい視点を与えることができれば、と思いこの記事を書くことを思い至った。ここからが本題である。
筆者なんかが勝手にあらすじを書くものでもないので、作品の内容をよく思い出してから読んで欲しい。
犬
これは比較的わかりやすかったのではないだろうか。
主人公の女が夫(婚約者なんだろうが、便宜上夫とする)と一緒に犬のような野生児に出くわすことですべてが始まるのだが、その野生児が夫に殴られる様や自分の差し出すパンを貪る様を見て、主人公は野生児に自分を重ねたのだろう。
主人公の夫がDV気質なのは明らかに示されていたし、主人公が母親から虐待を受けていたことも示唆されている。夫が金を持っていて、主人公の母親がそれを欲していることや、主人公が仕事の要領が悪いことも示されている。
ここで注目したいのが、主人公が夫に言い放った「お母さんみたい」というセリフ。夫は激昂し、「そんなんじゃないだろ」と言い放ち、主人公の髪をつかむ。
この作品には「主人」と「ペット」の関係が複数存在している。ファミレスにいた男と女児、夫と主人公、セクハラに片足突っ込んでいる上司と主人公、主人公と野生児、そして主人公の母親と主人公。このあたりか。
上に示したシーンでは、「主人」である夫が同じく「主人」である主人公の妻と比較されたことに怒るが、キレてもらってたまるか。彼は主人公の母親と同レベルなのである。だが本人はそうでないと信じている。
職場でも同じだ。主人公のミスに目くじらを立てる女性上司をセクハラ上司がなだめるが、実際は彼の方がやべえやつである。
野生児に衣食住を与え、試合の証に首に”戦利品”の指輪をかけ、支配した気になるも次の日には逃げられる。言うまでもなく主人公は母親からも夫からも逃げることはできていない。
最終的には、自分がしたように誰か拾ってくれるとでも思ったんだろうか、職場でクビになろうという時に主人公は野生児のように吠える。
さて、何が「不条理」だったのか。
正直、最初に頭に浮かんだ不条理は夫の末路だ。先ほどからわざと詳細には書いていないのだが、夫が妻にしてきたことと比べて夫への仕打ちがあまりに酷い。
髪を掴んだり、夕飯がないことに怒ったりはしていたが、主人公に傷はつけなかったし、経済的DVもなさそうだ。まあ、それでも夫がそれなりにやべえやつであることには変わりない。まさに「飼い犬に手を噛まれる」である。
もう一つ挙げるとすれば、主人公と野生児の「差」だろうか。
野生児は、主人公に食べ物ももらったし、きれな服も、シャワーも、ふかふかのベッドでの一夜ももらった。
一方主人公はお先真っ暗だ。仕事をクビになろうがなるまいが、もう終わってしまった。せっかく手を差し伸べたのに。
正直なところ、(こちらの不条理がメインなんだろうが)後者の方はあまりきれいに考えがまとまらなかったが、まあこんなところだろう。
少し個人的感想を書く。
映画館で見たこともあり、普通の映画だと思って見始めてしまい主人公に一切感情移入できずに正直少し困った。
はっきり物を言わない、鈍臭い、野生児との2回目の邂逅であの光景を見た上でパンを渡す、終盤には”夫”をまたいで野生児を探す。悪役ではないのに(本当はそうなのかもしれないが)行動に何も共感できない。
これは見る側の問題なんだろうが、初見殺しで対策不可能だな、という所感である。
あとは野生児が結構恰幅がいいのがそれなりの違和感だった(何か筆者が汲めていない意図があって欲しい)。まあこれは多少しょうがない部分があるだろう。
4作品の初っ端からそれなりにショッキングで、共感できない主人公も作品の枠を超えた違和を与えてくれた。
Rat Tat Tat
これはすごく抽象的と言うか象徴主義的視点を感じる作品だった。
結論から言うと、あのパーティーは彼女への社会的な子供をもうけるとこへの重圧を表すものだったんだろう。
夫婦が会場に入ってから、本格的に会場ごと狂うまでには以下のような違和感のあるシーンがある。
・女性に変な目で見られる
・強いお酒を夫が妻に飲ませない
・夫が常に話し、妻は常に静か
見終わった今ならわかるが(なぜなら前半はただのパーティーだったので)、会場内の世界はジェンダーロール強めの世界であり、夫は妻の体をすこしばかり過剰に労っていることがわかる。まるで彼女が妊婦かのように。
カジュアルな会話の中で子供の話が軽くあり、主宰と思しき夫婦の妻の大きいお腹が映し出されたあたりから会場は狂っていく。
結局あの異常な終わり方はなんだったのかと言うと、子供を持つということへの社会的重圧そのものの暗喩だろう。こういったテーマはそれなりにありきたりだと思うが、筆者が注目したのはその圧力に寄与する人間に性別や年齢は関係ないということを示した点である。
女も男も子供も、文字通り目の色を変えて子供を産ませんとする。出産の痛みは女性が体験するものだとか、子供は赤ちゃんがどうやって生まれるか知らないだとか、そんなのは関係ない。
子供の話を気まずそうに避けたり、自分の子供について少し愚痴を言ったり、子供が無邪気に「あかちゃんいないの?」と訊いたり。特に前2つは作中でもあったが、こんなことは誰でもするのだ。これが誰かにとっての重圧となることなど知らない。
余談だが、見終わってみて、このテーマならジェンダーロール割り増しの雰囲気も相まって男性を悪役にしても成り立ってしまうことに気づいたが、この作品がそういった着地点を選ばなかったことは非常に評価したい。社会は平等に不平等である。
さて、話を考察に戻そう。
急に出現し、主人公を狼狽えさせた老婆は一体なんだったのか。これはおそらく母親だろう。主人公の母親ではなく、”母親”という概念そのものである(とした方が筋が通る)。
パーティーに出現した自分にしか見えない老婆。最初はあれが怪異かと思わせる演出であったが、結局のところ本当に異常だったパーティー、すなわち社会が彼女に興味を失った後に残るのはあの老婆だけなのだ。ある種、妻にとって母親というのは畏怖すべき存在、自分を育てた存在であり自分がなれない存在であるからして、畏れていたと筆者は考える。
この作品での「不条理」がなんなのかは明らかだろう。
個人的感想を少し。
正直なところ、赤ん坊が白い意味も、拷問のフラッシュバック(?)もあんまり意味がわからなかった。妻が一度パーティーから抜け、太ももから血が少し出ているシーンも、あまりよくわからない。
血がすぐ固まったような気もしなくはないので、血小板増加症で流産しているということなのかもしれないが、特にこんな雰囲気の作品では不要な詳細な気もする。
もっと言ってしまえば、拍手が拍手である意味もあまりピンとこない。なにか思いついた方は教えて欲しい。
4作品の中で最もシュール(本来の意味、滑稽という意味ではない)な作品であり、そういった面では楽しめた。
洗浄
4作品唯一超常現象をメインで扱う。正統派ホラーという感じの作品だった。
正直、これはあまり考察や解説の余地がない気がしている。
内容としては前述したように正統派ホラーである。別荘に遊びに来た若者グループが超常に襲われる。まあ、少し違う点があるとすれば最終的に1人か2人生き残る、というわけではなく、1人が超常を飼い慣らし他全員を見捨てて終わり、という点か。
強いて言うなら(これはSCP風の考察だが)、水の呪い(あの怪異の正式な名前である)が感染る条件だったり暴露した人間の行動パターンだったりは考察の余地がある。
最初に暴露したと思われる坊主の男は潜伏期間が他より長かった。これは彼が一次感染者であることに起因していると思われる。水の呪いはあの湖に引き摺り込んだ人間に感染力を与え、他の人間に連れ帰らせた後感染者を増やして帰ってきてもらおうとしている可能性がある。
次に感染者の行動パターンだが、明らかだったのは水を常に飲もうとすることと、常にふらつきながら、時に四つん這いで移動していることが明らかに示されている。知能は著しく低下しており、窓も開けることができなかった。
他のそこまで自明でない点としては、感染者は水より水の音に引かれている点がある。これは、主人公の女がテーブルの上にあったボトルを倒した時や2階から水鉄砲を使ったシーンで示唆される。
感染の方法については不明で、感染を広げる際の感染者の行動もまちまちだ。2人目の感染者は風呂場に引き込まれたが、それ以降はそういった行動はなかった。だが、一つ留意すべき点があるとすれば、人間は6~7割方水であるということ。
こんなところだろう。
自然という絶対的な力を、呪いという形でわかりやすく表現した作品だったと思う。主人公の女がなぜ呪いの扱いに慣れていたのかはさっぱりわからないが、いわゆる"ヒトコワ"要素として受け取った。
自然の不条理さは日本人が過去何百年間も身をもって感じてきたことであり、この2つのテーマの相性の良さも必然のように感じる。
こういうテイストのホラーがもっと作られて欲しいと思わせてくれる作品だった。
VOID
怪異を交えた日常の切り抜き。正直ホラーではなかった。
この作品も考察は厳しいという印象だが、「洗浄」との違いとしてその余地がないのではなく、シンプルに筆者の脳みそが足らない。下手な解釈を付け足しても失礼なので、ここでは抽象的なテーマについて深掘りしていく。
この作品の語り部役として、あの気味の悪い教師とオカルトめいたことをカフェで話す男がいる。
あなた方は猿と同じ。手綱がなければ何をしでかすかわからない。
負の感情には、虚無で対応する。
特に後者は、タイトルである「VOID」が英語で「虚無」を意味することのあり、鑑賞中にも重要なセリフであることが理解できた。
同級生の死、優しくない母親、感情の薄い同級生。そして彼らに囲まれ負の感情を募らせる主人公がカフェの男の言う「渦」を作ったのだろう、彼女の周りで怪奇現象が起きるわけだ。
そして最終的に、ハムスターのカフェのゲームの話を聞いた主人公は虚無を受け入れる。
死んだ同級生の席に座って話してたって、別にいいじゃん。どういう感情?
四六時中見てないとサボるハムスターのカフェのデータが消えても、別にいい。なんでそんなこと気にするの?
「あーね」
若者の間で使われる感嘆を示す言葉、これらのあやふやさ、軽さ、そして空っぽさを指摘している気がした。
この作品で主人公が最初抱いていた類の感情は至極人間的で優しいものだった。が、最終的に彼女はそれを捨てることになる。周りの人間がそれをただただ持ち合わせていなかったのだ。
これが「不条理」である。
葬式なんかでよく繰り返される言葉がある。
「人は2度死ぬ。1度目は肉体が死んだ時、2度目は人々に忘れ去られた時。」
ほかならぬ主人公が、教室の後ろに写真が飾ってある彼女に2個目の引導を渡したのかもしれないが、そんなことは別にいい。もう主人公には関係ないのだ。
正直言って、「あなた方は猿と同じ」は何が言いたいのかわからなかった。今になって某呪詛師の顔が頭に浮かんでいる。
あの教師はちょうど「初恋ハラスメント」の菅沼と同じ雰囲気がして、作品の良いアクセントになったとは思うが、筆者の能力不足か、彼のセリフの意味がわからずじまいになってしまった。もう一つ「学ばせてもらっていることに感謝する気持ちをもたなければなりません」みたいなセリフもあったはずだが、それも同様だ。
それでも、主人公の独り言や心の声、怒りや涙などのあからさまな強い感情なしにこれだけ彼女の心情の移り変わりを感じることができた。若い世代、もしくは若者言葉へのアンチテーゼ的側面も感じることができて、非常にいい作品だった。
最後に
ホラー短編集、と銘打って公開されている「NN4444」だが、筆者はそれなりに嫌悪感も恐怖感もなく鑑賞できてしまった。
それでも、筆者が鑑賞し終わってすぐ「あー面白かった!何食べよう」なんて考えてしまうような単純な作品に飽きていたこともあり、視聴後の余韻まで含めてすごく楽しむことができた。
個人的にも最近のホラージャンルの進歩をこの作品に見た、という感じがしている。ジャンプスケアなどの動物でもびっくりするような描写や家族の死、物理的な痛みなど「私がこれやられたら嫌だな…」というシンプルすぎる類の恐怖表現から、人間だからこそ理解できる直感的違和感や時間差で襲ってくる生理的嫌悪感、そしてジャンプスケアなんかでは絶対に生まれない鑑賞後の絶妙な後味の悪さ。これの"たね"のようなものをこの4作品からは感じた。
配給元であるNOTHING NEWはホラー専門というわけではなさそうだが、また近しい雰囲気の映画もしくは短編集が出るならばぜひ観に行きたいと思う。
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