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やさしいおと

春の音

2020年、4月。僕の新生活は一人暮らしの部屋のパソコンの前から始まった。
19歳、一浪、九州の地方公立高校出身、滑り止めの関西の私大にやっと合格して下宿生活を始めることになったわけだが、時はまさにコロナ自粛期真っただ中。大学の入学式も延期になり、下宿先にはオンライン授業用のサイト案内やパスワードなどが届いた。
まだ通学手段も分からないまま、僕の大学生活がスタートした。正直、まったく大学生になった実感はなかった。
もともと向学心があっての進学ではなかったので、一人で画面に向かっているだけでは、学習のモチベーションなど保てるはずもなく、授業を流しながら別ウィンドウでもっぱらネットサーフィンをする日々が続いていた。
ネットサーフィンと言っても、たいして調べたいことがあるわけでもないので、自ずとエロネタを探したり、コロナ関連のニュースを見るだけで一日が終わってしまう。そして、寝ているのか起きているのか分からない、ぼんやりとした頭でまどろみながら夢を見る。
その夢の中だとある程度自分でストーリーの流れを修正出来たりもするので、次第に自由自在に動かせる夢を見るためだけに居眠りと惰眠をむさぼるようになっていった。
気がつくともう5月だった。


夢の中では何でも出来そうなものなのに、結局女の子の手を握るだけで満足して目が覚めることが多かった。性的なことに及ぶなどは一切できなかった。自分にそういう経験がなかったせあだろうか。
夢の中に出てくる女性は、有名な女優や名前を知っているアイドルたちではなく、一度無料サイトでチラっとみたことがあるようなAV女優だったり、高校時代の会話すらなかったような同級生だったりした。僕にとってはほとんど他人のような人たちばかりだった。
今日も夢の中で見たこともないような可愛い女性が現れてはなにもなく去っていった。そんな中で一人だけ僕の手を握ってくれた女性がいた。
誰だろう、この子は。寝ているというのに手の温かさを感じるようだ。大きな瞳、ほどよい長さの茶色い髪の毛、口角が上がった切れ長の唇と、芸術的な輪郭。自分の人生にこんな女性はいなかったような気がする。夢の中とはいえ、何て柔らかい手だ。握り返してみようか、そっと力を入れてみようか・・・
と思ったところで目が覚めた。
いつものことだが、自分から何らかの行動をとろうとすると、僕の夢はすうっと現実と融和して、その途端に僕はさっきまで鮮明に眼前に広がっていたはずの景色も人物も、すっかり忘れるか、ぼんやりとしか思い出せなくなってしまうのだった。
あの人は誰だったんだろう。何だか何度も夢の中で出会っているような気がするのだが、目覚めるとその顔を思い出すことはまったくできなくなるのが不思議だった。そのくせ、握ってくれた手のぬくもりはずっと感触として残っているのだから一層不思議だった。

5月も半ばになると、社会全体が活気を取り戻してきた。大学を除く学校は授業が再開され、一時期のコロナに関するしつこいほどの報道もやや落ち着いてきた。
僕の通う大学は相変わらずオンラインが中心だったが、週に一度のゼミクラスにだけは出席を許されていた。その行き帰りに立ち寄りやすそうなコンビニでのバイトも手にした。生活費位は自分で稼がないといけないと思ったのだ。
こうして、僕はようやく環状線なる電車を頻繁に利用する機会を得て、若干自分が都会に馴染みだした気になっていた。それでも相変わらず睡眠時間は長いままで、惰眠と緩やかな夢見を楽しむ日々も続いていた。そんあある日のことだ。

僕はいつものように自分の最寄り駅で環状線に乗った。僕の住んでいる町から3つほど行った駅が大阪の中心街なので、だいたいいつも車内は混みあっていて、座れたことはあまりなかった。
その日も、まあまあ高い人口密度だったので、僕は乗って来た入り口にもたれ掛かるようにして立って窓の外をぼんやり眺めようとしていた。
晴れていた日だったが、太陽の位置によってビルの影が窓を暗くして、その瞬間だけ車内の様子が反射して座席に座っている人たちの様子がよく見えた。その中にひと際僕の目を引き付ける女性がいた。
誰だろう。窓に映った顔を見ようと自然と視線が定まる。どうやらスマホをいじっているようで、終始うつむき加減だ。普段ならここまで気にならないはずなのに、僕はその女性をどうしても見たいと思った。
気がつくと窓越しではなく、体の向きを変えて彼女の方を見ていた。どこかで会った気がするのだが、まったく思い出せない。自分でもこんなに気になってしまうことがおかしかった。そして、いい加減見るのをやめようと思うのだが、それもなかなか出来なかった。
いい加減、気持ち悪い行為だよな、知り合いでもない女性をジロジロ見ているなんて。と、僕は自分で自分を笑うように目をそらそうとした。まさにそのときである。
スマホを眺めいた女性が顔をあげて、こちらを真っ直ぐに見つめてきたのだ。普段の僕ならすぐに目を反らして、体も向きを変え、完全に一人の世界に没入するのだが、彼女の顔を見た瞬間、図らずも固まってしまった。
夢で見たあの女性だ!!
それまでほぼ完全に忘れていたけど、目の前に現れたことで、すぐに思い出せた。思わず「あ」という声とともに笑みがこぼれた。だが、それと同時に後悔もした。それはそうだろう。彼女からすれば僕なんて知るはずもない赤の他人なわけだから・・・
しかし、次の彼女の行動は僕の予想をはるかに超えていた。
思わず笑顔になった僕に、一瞬だけ戸惑った様子だったが、すぐに満面の笑顔になって、立ち上がると真っ直ぐに僕の方へと進んできてくれたのだ。
僕は驚きのあまり笑顔のまま身動きもできずにいた。夢で見た女神のような女性は、現実で見ると本当に女神以上だった、すらりとした長身で、ゆるくウェーブかかった茶色い髪と同じような色合いの大きな瞳の色。マスクをしているので顔が全部分からないのだが、その下にも夢で見た美しい鼻や口が隠されていると確信できた。彼女は僕の前で止まってこう言った。

「あの、ありがとうございます。常連さんの方ですよね」
と・・・


夏の音

生まれ育った町(もはや村と言った方がいいかも知れない)からすれば、僕が住んでいる弁天町なる大阪の地も、恐ろしいくらいの大都会なのだが、この場所に比べたら、なるほど地元の人たちからすれば田舎と形容されても仕方ないのだろう。この場所とは、大阪最大の歓楽街、北新地である。
「シンチ」と呼称されるこの辺りには、座っただけでン万円といった高級クラブが軒を連ね、時折目に入るラーメン屋まで、僕のような一般人が足を踏み入れてはいけないような雰囲気を醸し出している。
我ながら場違いだ。何度も帰った方がいいのではないかとも思ったが、やはり僕は彼女のことが忘れられなかった。あの店に行けば会えるはずなのだ。張り裂けそうな心臓を抑えつつ、客引きらしき黒服の刺すような視線に身を小さくしながら僕はうつむきながら、何度も地図で調べたその場所を目指した。

『バーレスク大阪』

彼女、おとさんがいるはずのお店だ。北新地にあるショーパブというくくりらしい。当然僕はショーパブなるものが何かなど分かってはいなかった。ネットで知った知識である。
あの春の日、僕の目の前でマスク越しに微笑んでくれた女神のような女性は、僕にこう言った。
「常連さんがデビュー前から応援してくれているの、本当に心強いです。営業再開したら頑張りますね!」
何を言っているか皆目見当がつかなかったが、彼女は僕のことを『何らかのお店』の常連さんと勘違いしているようだった。そのお店がどこなのか、もちろん、常連に間違えられた僕が間抜けに聞くわけにもいかなかった。
どうして聞き出そうか考えあぐねていると、彼女の方から助け舟のような救いをくれた。
「“ばあれすく″以外にもよく行くお店とかあるんですか?」
BAR・レスク。最初僕は脳内でそう変換した。そして咄嗟に答えた。
「いや、他は行きません。全然行きません!行ったことありません!!」
急に大声になった僕に、彼女は驚いたようだが、不意に笑い出すと・・・
「びっくりしました。他のダンサーさんから聞いてましたけど”ばあれすく”って熱い常連さんが多いって本当ですね」
マスク越しではあったが、この世にこれほど綺麗な笑顔があるのかと思うような素敵な微笑みだった。もちろん目しか見えていないのだけど、僕にはそうとしか思えなかったのだ。
「おとのこと、ちゃんと応援してくださいね!」
「おと・・・さん」
「あ、降りなきゃ。インスタライブ見てくださいね~」
おとさんと名乗った(はずだ)、その女性は颯爽と身をひるがえすと、大阪駅の雑踏に紛れていった。
その日以来、僕の中で『ばあれすく』『おと』の二つの単語は、とんでもないパワーワードになった。
僕はすぐに下宿先に戻ってパソコンを開いて、ありったけの検索技術を使って、それらの情報を求め続けた。
結果、お店がバーレスク大阪という北新地にあるショーパブだったこと。おとさんがそのお店の新人ダンサーで、コロナ自粛期間にデビューが決まって、インスタなどのSNSを通じてデビュー準備をしていること、などが分かった。
それらが分かった数日後、5月29日(金)だったと思うが、この日がバーレスク大阪の営業再開日ということだった。おとさんの正式デビューもこの日に決まっているとのことだった。
僕はもちろん行こうと思った。実際、北新地のお店の割にウェブ上の情報を見ると、予算的には1万円もあれば入場自体はできると思った。
「甘いなあ」
と、言われたのは郷里の姉からだった。電話で何気なく相談していたときの話だ。
姉が言うにはそういうお店の入場料の情報なんて、全体の支払いの一部でしかないんだから、最低でもその10倍位は用意していかないと身ぐるみ剝がされて売られちゃうよ。とのことだった。
後半は冗談だと思ったが、確かに考えてみるとその可能性は否定しにくかった。大阪に出てきて間もない頃だし、コロナ自粛も開けたばかりだったし、街中に出ること自体に抵抗も感じていた僕は、結局デビューの日にお店に行くことができず、10万円貯金が貯まるまではバイトにいそしみつつSNSでおとさんの活躍をチェックするのが日課となった。

そして今日。夏真っただ中の8月8日、僕はやっとかの地を訪れるに至ったのだ。
バーレスク大阪は1部、2部、3部と観客入れ替え制でショーを見せてくれて、お酒を楽しめる場所のようだ。僕は地元の居酒屋に一、二度行った経験しかなかったので、ネットで頻繁にこのような検索もした。『お酒 注文 方法 おしゃれ バー』・・・大した情報は得られなかったが、とりあえずシャンパンを入れるとお店の女の子たちは盛り上がるということは分かった。
バーレスク大阪の女の子はどうやら水着を着て接客をしてくれるということなのだが、これまた僕に耐えられるのだろうかと不安になった。女の子の水着姿なんて中学時代のスクール水着のクラスメイトが最後だった。そんな不安を感じつつ、お店のある大きなビルにたどり着いた。
恐る恐るエレベータの前に行くと、大柄な黒服らしき男が近づいて来て言った。「何階ですか」
僕は、普通にびっくりして「バ、バーレスクです」と答えた。一気に脇汗が噴き出して、喉がカラカラになったのが分かった。男はどうも違うお店のスタッフだったのか、瞬間に興味を失ったように離れていった。僕はエレベータに乗る前からどっと疲れてしまった。
「初めてですか?」
憔悴し切った僕に、追い打ちをかけるように、一緒のエレベータに乗り込んできた中年の男性が声をかけてきた。先ほどの黒服より威圧感はないが、どう見ても慣れた常連のようで、自ずと緊張してしまう。
『はい。』と答えたかったが、ここで初めてだと知られたら、足元を見られないか、なめられないか、ぼったくられたりはしないか、などと不要な恐れが脳内を駆け巡ったので、結局何も言えずへらへらしているまま、エレベータは目的の4階についてしまった。
僕に質問をくれた男性は、僕が答えなかったことを気にとめるような様子もなく「どうぞ」なんて先に出ることを促してくれた。ここからはもう引き返せない。ドアが開いた瞬間、僕がこれまでの人生で見たこともないような景色が広がった。
まず、等身大のセクシーな女性たちのパネルが5~6体、通路に沿って並んでいた。思わず後ずさりそうになるが、背後には先ほどのにこやかな常連らしき中年がいるのだ。先に進むしかない。
どぎつい色のソファまで進み、通路通り左に曲がるとさらに僕は度肝を抜かれた。
両サイド鏡張りの通路、その奥にお風呂らしきものがあって、そこに水着の女性が二人、ニコニコしながらこちらに手を振っているのだ。僕はあわあわとして、完全に足が止まってしまった。本当にこんな世界に足を踏み入れていいのか。今なら引き返せるのではないか。
そう思っていると後ろの常連中年が口を開いた。
「ラム~久しぶり~!!」
その声をきっかけに、なおざりに手を振っていた一人の女性が明らかに生気に満ちた笑顔になって「・・・さ~ん!!」と大きく手を振りなおした。常連の名は分からなかったが、相当有名な人なのだろうか。
その人の圧に押されるように、僕はふわふわした足取りで歩を進めた。受付でネット予約をした名前を言う。ネットに書かれていた通りの入場料を払い、スリムな大声の髪の長い女性店員さんに誘導されて真っ赤なソファの席に座らされた。店員さんの元気がすごすぎるうえに、あちこちに水着の美女が体をくねくねさせて踊っているのを目の当たりにして、僕はもう軽くパニックになっていた。

「飲み物どうしますか!?」
店員さんがよく通る声で僕に聞いてきた。僕はふと我に返って、ネットで見た知識を思いだした。「シャ、シャンパンお願いします!」
その店員は明らかに驚いたような顔になったが、僕に以下のことを聞いてきた。僕の名前と、シャンパンガールになる女の子だ。僕は自分の名前は普通に下の名前を答え、女の子はおとさんの名をあげた。
店員さんがいなくなるとすぐに水着の女性が二人僕のもとにやってきて、色々話をしてくれた。堂々としていたかったが、様子で簡単に初回だと見破られ、口々に「可愛い」「若い」などと言われた。まったく嫌な気はしなかったし、むしろ信じられない位幸福な時間だったが、僕はやはり一切目をあげることはできなかった。そうして数分経った頃、店の爆音がさらに勢いを増し、色とりどりのライトがフロアを照らしまくった。
「さあ!本日バーレスク初体験でファーストドリンクにローランペリエ!!伝説の男の誕生か~!!シャンパンガールはおとちゃん!!」
という、アナウンスが流れ、ステージ上に4名のひと際セクシーな水着に身を包んだ女性が現れた。その先頭に立って、大きなお酒のボトル(これがどうやら僕の頼んだシャンパンだったのだが)を抱えていたのが、あの日からずっと会いたかったおとさんだった。
おとさんは客席のあちこちに笑顔を振りまきながらも、僕への視線を送ることだけは怠らない様子でステージから真っ直ぐに伸びているランウェイのような通路を歩き、最後まで僕に笑顔を向け続けてくれた。そして祝砲のようなものまで鳴らされ、僕は本当に竜宮城に迷い込んだのではないかと思ったのだ。
それからすぐにおとさんが僕のテーブルにやってきてくれた。
僕は直立不動で彼女が近づいてくる様子を見守っていた。ずいぶん遠いところから彼女は満面の笑みでこちらに手を振ってくれていた。
マスクが外されていて、代わりに透明なマウスガードがつけられている。インスタでその顔はすでに見ていたが、生で見る彼女は本当に神々しかった。僕はもう完全に舞い上がって、思わず涙すら出そうになっていた。
『はじめまして』と僕が口を開こうとした瞬間のことだった。何と僕より先におとさんが口を開いた。そしてそのセリフが信じられないようなものだった。
「一回、電車で会いましたよね!やっと会えた~」
自分でも驚くことに嬉しすぎて、号泣した僕はその後、何も言えなくなった。そして、これだけは実感していた。
僕は、完全に、恋に、落ちた。


秋の音

最初は迷路のように感じていた梅田の地下街の通路も今では自分の通学路より馴染のある道になった。
バーレスク大阪に一番近い出口ももう熟知している。エレベータ前で緊張することもなくなった。相変わらず違う店舗の大柄な黒服が何階ですか、なんて声をかけてくることはあるけど、まったく緊張せず「4階です」とバーレスクのある階をこたえられるようになった。
入り口でも真っ直ぐに顔をあげて、ジャグジーで座っているバーレスクダンサーに声をかけて手を触れるようになった。まるで、初めて来たときに僕の背後にいた常連さんのようだった。
その常連さんとも今ではラインを交換するまでになった。名前までは書かないが、バーレスク大阪が始まった頃から通っている名物の常連さんで、彼と仲良くなれたことで、僕のバーレスクでの認知度も格段にあがった。気がつくとバーレスク専用に作ったtwitterのフォロワー数は学生としての本垢の数を軽く超えていた。

僕はあの夏の日以来、行くたびにシャンパンをすぐ入れる若い常連ということで有名になって、いつもおとさんを指名することでさらに名を知られることとなった。別にシャンパンを入れなくてもいいと知ったのは3回目のときだったが、後にひけなくなった僕は、バイトに精を出し、シャンパン代を稼いではバーレスクに行くという日々を送っていた。
ただ、バーレスクは本当に良心的なお店だった。僕のように変な決まりを自分に作らなければ、基本の入場料だけでショーを堪能でき、ダンサーとも交流ができた。
今では水着の美女との会話も自然になってきた。まだ幾人か緊張する人もいるにはいるが、いやらしい目で見ることはなくなり、後ろめたさも消えたので、心が軽くなったのだ。そうなったのは、このお店のショーがあまりに素晴らしく、いわゆる夜のいかがわしい店という感じではなく、高尚な芸術を見せてくれる場所と感じさせてくれたからだろう。実際、ショーが始まると体感で数分で全パフォーマンスが終わったように感じる。その時間間隔はまさに竜宮城で接待を受ける浦島太郎そのものだった。

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さて、僕の女神、おとさんは今やコロナ自粛明け(この店では自粛後をREBORNという言葉で表していた)のアイコン的存在となっており、古くからの常連さんからも一目置かれる存在となっていた。
そんなおとさんがある日、僕のテーブルでこんなことを言った。
「ねえ、あたしが卒業する時ってこんなにたくさん来てくれると思う?」
その日はちょうど、バーレスクの初期から踊り続けていたあるダンサーさんの卒業イベントの日だった。
「もし、明日やめるとか言ったら、あきれて誰も来てくれないよね」
おとさんは冗談のように笑ったが、僕はなぜか怒ったように答えた。
「おとさんはまだまだやめないし、もし客が少ないなら、僕が100人分のシャンパンを入れる!!」
おとさんは、急に大きな声を出した僕に、初めて電車で会った時と同じような顔で驚いたが不意に大笑いして、
「やめてよ、冗談でもちょっと泣けるわ」と言って、僕の肩を叩く真似をした。僕は本当に叩いてくれたいいのに。と思った。
ちょっとお化粧なおしてくるね。と席を離れようとしたおとさんは思い出したように振り向くと、BGMの爆音にかき消されそうな声で、だけど口パクを大きめにして、僕にちゃんと届くようにこう言った。
「もちろん、私はやめないけどね」と・・・


冬の音

「嘘つき・・・」
そのツイートを見たとき、僕は無意識に呟いていた。

ご報告
突然ですが12月28日をもちましてバーレスク大阪を卒業することになりました。
このご時世の中、大変心苦しいのですが、違う夢へと進むための前向きな決断です。
バーレスク大阪では沢山の方と出会え、沢山経験をし、本当に幸せな時間を過ごせました。

悪い冗談だと思いたかった。
でも、それから数日待っても「嘘でーす」みたいなツイートはなく、僕以外の常連さんからのリプからも、この情報が本当なのだということを思い知らされた。
生きがいを失ったきがした。いや事実失った。僕はバイトにも学校にも行く気力がなくなり、そのツイートが上がった日から完全に引きこもった。
おとさんの卒業までの出勤日も、行きたいという気はあるものの、予約すら入れられないままだった。
違う夢へと進むため・・・
どの常連さんも、この言葉に反応して「頑張れおと!」だったり「寂しいけど、おとちゃんの決めた道を応援するよ!」なんて言葉を並べている。
・・・そんなのキレイゴトだよ。
・・・耐えられない。嫌だ。イヤだ。いやだ。いやだ・・・

・・・でも。
本当は分かってる。
そんなの僕がどうこう言えることじゃないってこと。
本当におとさんのことを思うのなら、ちゃんと最後まで応援をして、その卒業をお祝いしなくちゃいけないんだってこと。
・・・でも!!

僕は過去にアイドルを好きになったこともなければ、ひょっとしたら恋をしたことだってなかったのかもしれない。
心の拠り所を失うという経験が一度もないのだ。こんなに心が張り裂けそうになるなんて、初めての経験だったし、どう対処していいのかすら分からなかった。

そうこうしているうちにおとさんのラスト出勤のカウントダウンが始まった。
行かないと。。
と思うのに、どうしても予約ができない。いや、部屋からも出られない。おとさんの写真を見ては泣き、ツイートを見ては泣く日々が続いた。
もうおとさんの卒業まで日がなくなっていた。卒業は28日の月曜日。そして今日は前日の日曜日、心の中ではめちゃくちゃ行動していた。おとさんへ感謝の手紙を書く。卒業記念のプレゼントを買いに行く。おとさんが忘れられないサプライズを考える・・・どれも脳内で思うだけで、一つも実行に移せなかった。

何も行動を起こせないまま、ベッドに横たわりぼんやりと天井を眺めていると、夢を見ているのか現実なのかもわからなくなってくる。
やることもなく、惰眠をむさぼり夢の中で現実逃避ばかりしていたコロナ自粛期を思い出す。時はまさに、今もまたコロナの第3波が押し寄せてきて、いわゆる夜の街からは人々が遠ざかりだしていたのだ。
おとさんの卒業にはみんな行ってくれるだろうか、僕は100人分シャンパンを入れるって言ったのに何やってるんだろう・・・

そんなことを考えていると、目の前におとさんが現れた。

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「明日来ないの?」
「行きたいよ」
「じゃあ来てよ」
「・・・行くのが怖いんだ」
「何で?」
「自分が・・・」
「・・・うん」
「自分が本当におとさんのことを好きだって思い知らされるのが分かってるし・・・」
「・・・」
「・・・おとさんが・・・」
「・・・」おとさんは何も言わず僕を見つめている。
「おとさんが、僕のことなんて何とも思っていないって思い知らされることになるから!!」
そう言った瞬間、僕は涙を止めることができなくなってしまった。
涙だけならまだしも、まるで幼児のようにわあわあと声をあげて号泣してしまった。
こんな姿、見られてしまっては、ますますおとさんに嫌われてしまうだろう。僕はもう顔すらあげられなくなった。
すると・・・
僕の両手を温かくつつむ感触があった。顔をあげるとおとさんが微笑んでいた。両の掌で僕の手をそっと包んでくれている。僕は思わず手を引きそうになった。というのも、バーレスク大阪はコロナ感染対策にものすごく敏感で、絶対に接客中の接触をしないようにしていたからだ。
でも、おとさんは僕が引こうとした手をさらにグッと力を込めてつかんでくれた。
そして脳内でガンガンなっているBGMにかき消される声を配慮して、口パクで伝わるようにこう言った。
「だいじょうぶ」

そこで、僕は目が覚めた。
いつの間にか完全に眠っていたようだ。
号泣した記憶だけが鮮明で目もとに手をやってみた。思いのほか涙は出ておらず、僕の夢も手をやった行為も滑稽に感じられた。


身体を起こして、スマホに目を落とす。日付が変わっていた。28日午前1時・・・もうおとさんが卒業する日なんだ・・・
最近なるべく見ないようにしていたTwitterを開いてみた。そして僕は驚くこととなる。
DMが10件以上来ていたのだ。慌てて開くと、常連さんたちからおとさんの卒業に関しての相談や、連絡がないことへの心配やらが書かれていた。
一番驚いたのはスタッフのDさんからもDMがあったことだ。彼直々に僕にはぜひ来てほしい。座席は一つ空けてある。という連絡が来ていた。

考えたら、夢の中で出会ったはずの女神がおとさんだった。
本当に会えるようになって、僕は夢の中でおとさんに会うこともなくなった。
今日、久しぶりに夢の中で会えたおとさんは、やはり僕が知る限り世界で一番美しい女性だった。
そんな女性と今日会いに行かなかったら、僕は本当に一生後悔しながら生きることになるかも知れない!!

気がつくと勢いよくベッドを飛び出していた。
僕に残された時間はあまりない。おとさんに手紙を書くのも無理かも知れない。サプライズも思いつかない。ましてやプレゼントなんて何を買えばいいのやら・・・

だけど!!
と、僕は思うんだ。

今日、僕が行かないでどうするんだって。
おとさんが待ってるはずだって自分に言い聞かせた。

本当は分かっているけど・・・
僕なんて、おとさんからしたら、ただの大勢の客のうちの一人に過ぎないのだろう。

それでも構わない。
それでも構わない!!
おとさんに会って、この気持ちを伝えないと、僕は一生クズのまま生きていくような気がした。
おとさんに伝えに行く気持ち。それは・・・

「出会ってくれて、ありがとう」

~未完~


※ 筆者はバーレスク大阪を、バーレスク大阪のダンサーを、スタッフを、常連さんたちを心より愛しております。
この小説は完全フィクションですが、実在のダンサーさんの卒業を題材にさせていただきました。
愛を持って描きましたが、関係各位が快くなく思われた際はすぐにでも公開をやめますので、ご連絡ください。

おとちゃん、本当に卒業おめでとう。そしてありがとう。
あなたがくれた希望を、僕たちは忘れないでしょう。

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いつか投稿がたまったら電子書籍化したいなあ。どなたかにイラストか題字など提供していただけたら、めちゃくちゃ嬉しいな。note始めてよかったって思いたい!!