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小沼丹さんの遺作「馬画帖」の馬の瞳と和泉式部の和歌

『うるわしきあさも 阪田寛夫短篇集』(講談社文芸文庫)に収録されている阪田寛夫の遺稿「鬱の髄から天井のぞく」の末尾の「鬱の髄から天井みれば」の中で、阪田氏が小沼丹さんの遺作「馬画帖」の馬の瞳について追想を寄せている。

「鬱の髄から天井みれば」

見えるのは内田百閒先生の闇の土手でなく
小沼丹さんの遺作「馬画帖」の馬の瞳です
本名を救(はじめ)という小沼さんのお父さんは牧師さん、
下町のセツルメントの館長でもあり、絵が上手
集ってくる貧しい家の子供たちに絵を描いてみせた
私小説風な作家に分類されている小沼さんの作品に
そんな話が一切でてこないのがふしぎでした。
その小沼さんが亡くなる前に黙りこくって大学ノートに毎日描きつづけたのは、
かつて小屋の中で誕生した幼な子を見守った筈の短い足の馬たちでした
その優しく和らいだ瞳の絵でした
私はもはや言葉を失い文章も書けませんが、
「馬画帖」の馬の瞳を思い描くことはできます
小沼丹さんありがとうございました

この小沼丹さんの遺作「馬画帖」について調べたが、そのような小説は見つからなかった。これはあるいは、小沼丹さんが絵を書き付けていた画帖のことなのか。小沼丹全集などを見れば分かるのだろうか。そう思って図書館の調査・相談(レファレンスサービス)に相談したところ、「馬画帖」は作品ではなくて絵であるということと、それは私家版で出されているので図書館に所蔵はないとのこと。小沼丹全集(未知谷)の第一巻の月報に阪田寛夫の文章が載っていて、少しだけ馬の絵が載っていて雰囲気が分かる。全集の第四巻の年譜にも記載あり、とのこと。

レファレンスの詳細な回答は以下の通り:

『小沼丹全集第1巻』についている月報に阪田寛夫の「クリスマスの馬」が掲載されており、その中に「次女の川中子李花子(かわなご りかこ)さんから『馬画帖』という私家版が送られてきました。(中略)李花子さんの指摘の通り、やわらかな鉛筆描きの、小沼さんの馬の目が優しくあどけない」とあり、絵の画帖であることがわかった。
また、「『馬画帖』より」として、馬の絵が添えられている。
さらに、③『小沼丹全集第4巻』には年譜があり、そこにも1997(平成9)年に「九月、小沼丹が病床で描いていたデッサンを集め、次女の川中子李花子編『馬画帖』(私家版)刊。」とある。
そして、④『小沼丹全集補巻』の月報にある久世光彦氏の「エトランジエの含羞(はじらい)」でも「晩年に彼が描いた馬のデッサンや、スペイン人らしい男の絵を見たことがある。『馬画帖』というらしい」とあり、阪田寛夫氏の遺稿に小沼丹の馬の絵のことを
書いていることについても述べている。
また、⑤「随感ゆりかごの小沼丹」でも「多年持ち続けたイメージをスケッチしたと思われるそれらの絵は、(中略)『馬画帖』という私家版に収められている」とあり、『馬画帖』が絵であることを示している。


以下のブログ記事で、「馬画帖」の本の写真が載っている。


この小沼丹「馬画帖」の馬の瞳についての阪田寛夫の遺作詩を知ったきっかけは、2021年2月2日に、NHKラジオ第2 宗教の時間 選「土の器 ー父 阪田寛夫のキリスト教ー」(長女・内藤啓子さん、鈴木健次)を聴いた中でその詩が紹介されていたことだ。内藤啓子さんは『枕詞はサッちゃん―照れやな詩人、父・阪田寛夫の人生―』(新潮社、2017年)という本も書かれている。

このラジオ放送の記録は以下の通り。阪田寛夫は両親が熱心なキリスト教の信仰者で、14才で洗礼を受けた。旧制高知高校で三浦朱門と同級生。東大の音楽美学に入学。阪田の祖母は、矯風会の大阪支部を立ち上げたメンバーの一人。阪田寛夫は「音楽入門」(『文學界』昭和41年/ 1966年7月号)で小説家としてデビュー。1975年に『土の器』で芥川賞を受賞。最初は、自分のハラワタを覗くような暗い小説ばかり書いていた。先輩の庄野潤三について一年かけて書いた阪田寛夫『庄野潤三ノート 』(講談社文芸文庫)が大きかった。『夕べの雲』庄野 潤三 解説:阪田 寛夫(講談社文芸文庫)は子供のことを書いていてすごく良い。内藤啓子さんの母方の吉田家は戦争で多く亡くなったが、父方の阪本家は戦死者は出ていない。中国の廃墟は主に日本軍が作ったもの。
晩年は内藤さんの母親も度々大病(認知症に)を患って、阪田寛夫も妻の看病・介護の中で重篤な鬱病になり、二人とも苦労した。阪田寛夫の遺稿となった七編の詩(阪田が、自分が亡くなってから掲載してほしい、と亡くなる二年前に『群像』編集部に送っていたそうだ。)の中の最後の詩は、小説家の小沼丹(おぬまたん)(小説家、英文学者:1918-1996)が病床で描いた遺作『馬画帖』に「馬の瞳(め)」をたくさん描いたことを歌った「鬱の髄から天井みれば」 という詩。これはやはり馬小屋で生まれたイエスを見守っていた「馬の瞳(め)」というような思いが阪田寛夫の中にあったのかも知れない。内藤啓子さん曰わく、『「鬱の髄から天井をみれば」という題なんですけれども、「自分は言葉を失って、文章も書けないけれども、その小沼さんの描かれた「馬の瞳(め)」を思い描くことは出来ます」というふうに書いていて、私はそれを読んだときに、本当に絶望してたんだけれども、その思い描く「馬の瞳(め)」が、キリストの誕生を見守っていた「馬の瞳(め)」であるということになんかは少し救われた思いがしました。もう絶望の真っ暗闇ではなくて、その「馬の瞳(め)」のことを思い出せたのは、何か一つ救われた思い出がいたします。』

ちょうどこの放送を聴いた同日、NHKラジオ第2『おしゃべりな古典教室』「和泉式部」(2)(出演:木ノ下裕一(指南役)、小芝風花(女優))も聴いたが、そこで和泉式部が性空上人(しょうくうしょうにん)に送った歌とされている歌「暗きより 暗き道にぞ 入りぬべき はるかに照らせ 山の端の月」が紹介されていた。月は仏のメタファーとして和歌によく登場するが、山の端の月は、天空に煌々と照っている月ではなく、光が弱いかすかに明るい月。どんな小さな明かりでもいいからお月さん私を照らしてくださいという非常に謙虚な姿勢。少しでもいいから私を照らしてください。そもそも人生というものは暗いものなのだということを実感するような感性を持っていた女性なのかもしれないと木ノ下裕一さんは解説されていた。

この和泉式部の和歌「暗きより暗き道にぞ入りぬべきはるかに照らせ山の端の月」と、阪田寛夫の遺作詩「鬱の髄から天井みれば」の「馬の瞳」がどこかで一脈相通ずるものに思えた。

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