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追悼2025年<1月〜> ことし逝去された方々を偲んで

👤今年(2025年)亡くなった人👤
デイヴィッド・ロッジ(作家、英文学者)。原広司(建築家)。リチャード・フォアマン(劇作家、演出家)。八木沢克昌(タイのスラム街などで教育支援、公益社団法人「シャンティ国際ボランティア会」理事)。江副隆秀(学校法人江副学園新宿日本語学校の理事長兼校長)。汐澤安彦(指揮者)。滝大作(喜劇作家、演出家)。伊藤孝雄(俳優)。MAYA MAXX(画家)。志茂碩敏(モンゴル帝国史研究の東洋文庫研究員)。艾怡英(南京大虐殺生存者)。李恢成(作家)。石原誠(サッポロ堂書店・店主)。趙漢珪(韓国の自然農法研究所の元所長)。李魁賢(詩人)。川島蓉子(伊藤忠ファッションシステム株式会社取締役。ifs未来研究所所長。ジャーナリスト)。澤畑勉(世田谷区の元児童館職員で、イギリスから日本にチャイルドラインを導入するきっかけをつくった人の一人)。藤井一興(ピアニスト・作曲家)。萩原貢(詩人)。臼井一美。御輿久美子(NPO法人 アカデミック・ハラスメントをなくすネットワーク(NAAH)代表理事)。ドン・キューピット(神学者)。津田英治(電鉄のナレーター)。黒瀬真一郎。George Bealer(哲学者)。植垣康博(元連合赤軍)。植松茂男。俵孝太郎(政治評論家)。ハン・ミョンスク(歌手)。野中郁次郎(経営学者)。秋山和慶(指揮者)。岸君江(原爆小頭症の被爆者)。堀場清子(詩人、女性史研究家)。川辺久造(俳優)。森永卓郎(経済アナリスト)。西山正啓(映画監督)。李春植(イ・チュンシク)。マリアンヌ・フェイスフル(歌手、俳優)。イ・ジュシル(韓国の俳優)。大島安徳(対馬丸事件の犠牲者の遺体の埋葬、漂流者の救助に当たった奄美大島宇検村の方)。八重樫信之(フォトジャーナリスト)。吉田義男(元阪神監督)。Brian Murphy(俳優、コメディアン)。山田火砂子(映画監督)。福島重雄(元裁判官。「長沼ナイキ基地訴訟」の札幌地裁での一審で裁判長を務め日本の裁判で唯一、自衛隊違憲判決)。緒方規矩子(舞台衣裳デザイナー)。袖井林二郎(政治学者、ジャーナリスト)。桂敬一(メディア研究者)。下條アトム(俳優)。和田登(児童文学作家)。野崎昭弘(数学者)。村瀬実惠子(日本美術史家)。吉元玉(日本軍性奴隷制サバイバー、人権活動家)。キム・セロン(俳優。『雪道』出演)。有本明弘(拉致被害者の父)。野﨑健。内藤隆(弁護士)。万代博実。李小江(現代中国を代表するフェミニスト)。マジカル・パワー・マコ。多賀一造(小学校教員ひとすじ。小説「温め石」で大原富枝文学賞。歌集も複数)。桂才賀(落語家)。

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・'Masterful' novelist David Lodge dies aged 89

以下は、イギリスの作家で英文学者のデイヴィッド・ロッジの白水社刊行の諸作品。

https://x.com/hakusuisha/status/1876173724187304049?s=46

・朝日新聞デジタル「建築家の原広司さん死去 梅田スカイビル、京都駅ビルなど手がける」2025/1/4 21:00

誰をも優しく、もてなす建築
 原広司さんを悼む 建築家・山本理顕
朝日新聞2025年1月14日 文化

 私が最初に原先生に会ったのは1971年だった。
 どういう時代だったかというと、全共闘運動があっけなく終わって、三島由紀夫が三文役者の死のように自死したのが70年である。水俣病が公害問題の象徴として認識されるようになって「チッソ」が激しく糾弾された。
 大阪万博が開かれたのも70年である。「月の石」を見るために長蛇の列ができた。ただの石ころだった。70年万博では心を打たれるような建築などなかった。実際、「建築」よりも「情報」だとか「映像」だとか、それまであまり馴染(なじ)みのなかった言葉が中心になっていたのである。連合赤軍が極端に自閉した党派の内側で次々と仲間を殺害した事件が起き始めたのも71年だった。
 嫌な時代だった。このままこの希望のない状態がいつまでも続くように感じられた。
 ところが一方では、70年に住宅金融公庫の民間分譲住宅向けの個人融資が開始され、マンションが一気に売れるようになる。72年には田中角栄が「日本列島改造論」という、結果的には地域社会の破壊につながる政策を掲げて総理大臣になる。このころから東京一極高度成長が加速し、建設業界は大活況の時代になるのである。この時代の多くの建築家はそれを歓迎した。
 私は就職する気はなかった。どこかの設計事務所に就職して設計活動をするというのは、この嫌な時代の恩恵を受けることになる。
 原研究室の研究生として迎え入れてもらえないかと思った。当時、原広司は35歳、東京大学生産技術研究所の助教授として東洋大学から移ったばかりだった。深刻な顔をした他の多くの建築家に比べて原広司だけが際だって明るかった。一人だけキラキラしていたのである。それは原さんのある著作が大いに関係していた。
 「さまざまな不条理を了解する過程で、なおかつ私たちは希望にあふれるだろう」(「建築に何が可能か」)
 未来は自らつくるものだと書かれていた。夢や希望は自らつくるものだと書かれていた。それが建築家の責任だと書かれていた。原広司が31歳のときの著作である。
 原研(ハラケン)に入ってすぐに集落調査の旅が始まった。とりあえず地中海に行ってみよう、という原さんの軽いノリで始まってしまったのである。大まかな旅程だけ決めた。スペインからジブラルタル海峡を越えて、モロッコへ行って、アルジェリアからアトラス山脈を越えてサハラ砂漠に行く。そしてその後エーゲ海に行く。その程度の大まかさであった。
 それ以降、原研は、後継メンバーによるものも含め62カ国、622の集落を調査することになる。
 私たちは世界の人がどのように住んでいるのか、それをつぶさに見た。集落に住む人びとは遥(はる)か昔から住み始めて、遥か先の未来まで永遠にそこに住み続けることができるのである。人々はそれを信じていた。そして集落はそのようにつくられていた。集落に住む人々は私たちを優しく迎えてくれた。集落は私たちをもてなすように設計されていたのである。
 原先生のつくる建築は集落のようである。原広司はおもてなしの舞台のように建築をつくる。原広司の建築を訪れて誰もが優しい気持ちになるのはそのためである。(寄稿)
    *
 やまもと・りけん 1945年生まれ。作品に神奈川県・横須賀美術館や東京都・福生市庁舎など。昨年、プリツカー建築賞を受賞。

 ■子供の心・夢、そのまま 大学院時代に師事した隈研吾さん
 原さんは人生で最も影響を受けた人であることは間違いありません。僕が建築を学んでいた1970年代後半は建築の曲がり角の時代。高度成長期をリードした丹下健三さんらが時代遅れに見え、一方で日本の伝統に回帰するのにも抵抗があった。
 そのとき教わりたいと思ったのが原先生。当時は小さな建築に世界に連なる思想を埋め込んでいた。子供の心で建築をつくる印象があり、それが巨大な建築になっても子供の夢を大きくしたようで、痛快でした。景気などをはるかに超えた長い時間で建築を考えていた人でした。

朝日新聞デジタル

・坂手洋二のブログより。
「リチャード・フォアマンの訃報。
1月4日に亡くなった。87歳。
1990年頃からフォアマン作品に惹かれる人がいることは知っていて、私も90年代後半、ニューヨークに初めて行ってから一挙に、リチャード・フォアマンの世界に出会っていった。
イーストヴィレッジ、アスタープレイスに近いセント・マークス・チャーチの、社務所みたいなところに彼のスタジオがあって、、フォアマンが1968年に創立し、劇作・演出・美術を一人で担当する「オントロジカル・ヒステリック・シアター」は、新年早々から三ヶ月くらいのロングランをやって、その後、欧州ツアーに出掛けていくというのが、毎年の通例だった。客席数百以下の小さなスタジオで、彼自身が音響操作をする形で冬から春にかけて長く上演するやり方が、ディフォルト。ストーリーなど蹴散らすディティールの積み上げ方、美術もコレオグラフもぶっとんでいたし、表面的な見映えを気にしない作品たちだった。
(中略)
昨年末に亡くなられた鴻英良さんも彼の翻訳・批評をしていた。
(中略)
日本に唐十郎、韓国にオ・テソク、ニューヨークにフォアマン、という言い方をする人もいた。さすがにそれぞれ作品も作り方も違いすぎるが、三人とも間違いなく「アングラ」だし、演劇づくりには「カンパニー」が必要だという信念、自分がいる街を代表するエネルギッシュなイデオローグという意味では、確かにそうだと思う。
ときに理不尽だが、だからこそ、それまでにないことを成し遂げた。
その三人ともが、亡くなられてしまった。
ああ、あっという間だ、こうして時間はあっという間に過ぎていくのだな、と、思った。」

・お父さんルペン死す。国民戦線のジャン・マリ・ルペン。昔はオルドル・ヌーボーだった。

・讀賣新聞オンライン「タイのスラム街などで教育支援、八木沢克昌さん死去…読売国際協力賞「シャンティ国際ボランティア会」理事」2025/01/08

・学校法人江副学園新宿日本語学校の理事長兼校長の江副隆秀氏が12月18日(水)、3年間の闘病の末、癌のために自宅で亡くなった。行年73歳。

・指揮者の汐澤安彦氏がお亡くなりになりました。

・スポニチアネックスより、「脚本家・滝大作さん死去 91歳 タモリ、赤塚不二夫らとG 大ヒット「コメディーお江戸でござる」」。
西条昇さん:「喜劇作家で演出家の滝大作さんが昨年10月に91歳で亡くなられていたことが昨日発表されました。私は11月に伺っておりましたが…。
滝さんと言えば、高校生時代からストリップ劇場の幕間コントに夢中になり、コント55号のブレーンとして演説コントや帽子屋コントに協力し、三波伸介さん主演のNHK『お笑いオンステージ』演出、タモリさん赤塚不二夫さんとの「面白グループ」の活動、東京ヴォードヴィルショーやザ・ニュースペーパーへのバックアップ、小堺一機さんのフジテレビ『いただきます』構成、浅草・常盤座での舞台『浅草バーボンストリート』作・演出、NHK『コメディーお江戸でごさる』脚本・監修、『古川ロッパ昭和日記』の編纂・監修、喜劇に関する数々の著作など、東京喜劇に多大なる貢献をされてこられました。
私は20代前半の時に初めて滝さんにお会いして常盤座での『浅草バーボンストリート』のお手伝いをさせて頂いて以来、笑いに関する様々なご教示を頂き、勝手に自分の喜劇や笑いの師匠は〈東の滝大作、西の澤田隆治〉のお二人と決めていました。
何度もご自宅で喜劇やコントについてのお話を伺い、一昨年9月に群馬県高崎市の医療施設に伺ったのが最後になってしまいました。
謹んで、心よりご冥福をお祈り致します。
滝さん、ありがとうございました。」

・MAYA MAXXを応援してくださったみなさんへ

2025年1月9日午後8時53分、MAYA MAXXが天国へと旅立ちました。
2023年夏に肺がんであることがわかり治療を続け、制作活動ができるほどに回復しましたが、2024年11月に骨への転移が見つかり入院し、眠るように最期を迎えました。
生前、みなさんが気持ちを寄せてくれていることで、病気から回復することができたと何度も感謝の言葉を語っていました。
そして、みなさんに喜んでもらえる絵をこれから描いていきたいとも語っていました。
2月には、札幌・茶廊法邑で「生きる MAYA MAXXの現代の掛け軸展」を開催します。
MAYA MAXXの生きるという願いは叶いませんでしたが、この生きるという言葉は作品が生き続けることではないかと考えています。
MAYA MAXXという活動をこれからも続けていきたいと思います。
随時焼香    1月12日(日) 17:30 ~
通夜式 1月12日(日) 19:30 ~
随時焼香          1月13日(月) 10:30 ~
告別式 1月13日(月) 11:30 ~
式場 JAいわみざわセレモニーホール
北海道岩見沢市駒園1丁目1番地
0126-23-8181
画像は2024年12月16日に描いた最後の作品です
MAYA MAXX_Luce
代表 來嶋路子

愛媛新聞記事

・モンゴル帝国史研究の志茂碩敏先生(東洋文庫研究員)の訃報が届く。享年84.7日、朝にゴミ出しをしたあと倒れられた。急性動脈性解離という。
先生は『モンゴル帝国史研究』序説、正篇、完篇の三部作を東大出版会から上梓され、さらに『モンゴル史』原典と『集史』「モンゴル史」原典を読者に提供すべく原典篇を準備されていた。2015年に日本学士院賞を受賞。
智子先生と二人三脚でご夫妻ともにまさに学問一筋の方だった。

・日本侵略による南京大虐殺犠牲者記念館によると、南京大虐殺の生存者である艾怡英(Ai Yiying)さんが木曜日に97歳で亡くなった。

・作家の李恢成さん死去、89歳 外国籍で初の芥川賞
2025/01/14

李恢成さん死去 自由な立場貫いた 文芸評論家の川村湊さんの話  毎日新聞2025/1/15

 非常におおらかで優しい人だった。韓国籍を取得したが、サハリンに生まれたこともあって、観念的な民族や国境にこだわらない自由な立場を貫いた。文化的、政治的にどこにも所属していないことを文学として表現した。戦後民主主義における在日文学は、李恢成さんから次の世代にバトンが託された。死去により、在日文学は一つの大きな節目を迎えたといえる。

毎日新聞2025/1/15

東京新聞の古い記事
李恢成さんが編集長&発行人をされていた在日文芸誌「民涛」(1987~90、全10号)

「〈在日〉文学は解放後=戦後、日本語文学圏で重要な位置を占め、日本の文学界に大きな影響を与えてきた。李恢成、李良枝、柳美里、玄月が芥川賞を受賞し、立原正秋、つかこうへい、金城一紀が直木賞を受賞。金鶴泳は数回にわたって芥川賞の候補になった。梁石日は山本周五郎賞を受賞。在日朝鮮人文学の種を植えた金達寿は文学賞などはるかに超えた衝撃を日本文学界に与えた。大長編『火山島』で大仏次郎賞と毎日芸術賞を受賞した金石範、『「在日」のはざまで』によって毎日出版文化賞を得た金時鐘の存在が聳(そび)えている。」
磯貝 治良(いそがい じろう、1937年 - )
作家、評論家、活動家。「在日朝鮮人作家を読む会」の主宰。金城学院大学非常勤講師。NPO法人「三千里鐵道」副理事長。2006年には、全18巻に及ぶ『〈在日〉文学全集』(勉誠出版)を黒古一夫とともに編集した。

訃報 李恢成さん 89歳=作家
毎日新聞2025/1/15 

外国籍初の芥川賞 在日文学
 外国籍として初めて芥川賞を受賞した、在日文学を代表する作家の一人、李恢成(り・かいせい、本名=イ・フェソン)さんが5日、誤えん性肺炎のため死去した。89歳。葬儀は近親者で営んだ。喪主は妻許承貴(きょ・しょうき)さん。
 1935年、在日2世としてサハリン(旧樺太)に生まれた。47年の引き揚げ後、札幌市で育つ。早稲田大ロシア文学科卒。卒業後は朝鮮総連に就職し、朝鮮新報社記者を経て、67年から本格的に小説を書き始めた。組織を離れ、在日2世の目から在日コリアンの生活や歴史、朝鮮人としての自己形成の過程を自伝的に小説として表現した。
 69年、サハリンから日本へ移住した朝鮮人一族の家庭を描いた「またふたたびの道」で群像新人文学賞を受賞しデビュー。在日コリアン青年と日本人少女の恋愛を描いた「伽倻子(かやこ)のために」(70年)は84年、小栗康平監督で映画化された。
 第二次大戦末期に若くして亡くなった薄幸な母への鎮魂を込めた「砧(きぬた)をうつ女」で72年、芥川賞受賞。70年代の韓国を舞台にして革命家たちを描き、79年に完結した大長編「見果てぬ夢」は民族統一への新たな潮流を捉えたとして高く評価された。実父の生き方への敬愛を込めた「百年の旅人たち」で94年、野間文芸賞。
 祖国統一と民族の主体性をテーマに在日コリアンの生き方を問い続けた。作品の中で北朝鮮の個人崇拝体制を批判していたが、統一を望む立場から南北分断以前の朝鮮籍を長年堅持していた。しかし98年、民主化を唱える金大中政権が誕生したため韓国籍へ変更した。

毎日新聞2025/1/15 

飯田橋文学会での李恢成さんのインタヴューが全編無料公開されています。

芥川賞作家이회성 リ・カイセイさん死去 89歳

小栗康平監督で映画化もされた。南果歩のデビュー作。

岡和田晃による追悼文

・【山峰潤也が逝去】
東京都写真美術館、金沢21世紀美術館、水戸芸術館現代美術センターで勤務したのち、様々な分野で活躍したキュレーター・山峰潤也氏が逝去しました。

・北方関係史資料で知られるサッポロ堂書店・店主の石原誠さんが1月13日に逝去されました。
サッポロ堂書店・店主 石原誠さんインタビュー記事

PDF版:

http://tonden.org/bucknum/entori/2012/10/30_di52hao_files/52_sisi.pdf?fbclid=IwZXh0bgNhZW0CMTEAAR2FOIUO1l-YasbuxIJCTEdZHfUAFyGK3K9Lh9tQbOh38FEuS6gYYi0a2V4_aem_NCSrvtdSFbg-qSPmrC9BcA

竹中英俊さんFB投稿(2025/2/14):「持田誠さんによる「サッポロ堂の石原誠さん」は心打たれる哀悼・愛悼の文章です。
持田さんは、北大出版会の元職員であり、わたしも2回、浦幌まで訪ね、親しく交歓しました。
また、石原誠さんが倒れた後は、札幌駅北口も店をたたみ、ネット書店に特化していますが、わたしも何度も注文をしてお世話になっています。
ご本人に会う機会はありませんでしたが、心より哀悼の意を表します。」

・田中博さんFB投稿(2025/1/15):「韓国の自然農法研究所の趙漢珪チョハンギュ 元所長が数日前に亡くなったと韓国親環境農業協会から僕へ連絡が入りました。
すみませんが、日本の自然農法や有機農業の関係者の皆さんにお知らせ下さい。」

・詩人の李魁賢さんが死去 批判的精神に富んだ作品発表 台湾の詩壇に貢献

高雄文學館FB投稿:「【文學紀念冊】#敬悼詩人李魁賢

今日早上收到訊息,詩人李魁賢老師於昨日1月15日清晨離開人世,享壽87歲。

李魁賢老師1937年出生於台北,一生以淡水人自居,是台灣重要的 #詩人、#文學評論家、#翻譯家。
他畢業於台北工業專科學校化工科,於工業領域發揮所長,曾任輪胎廠助理工程師、台肥南港廠工程師,其後更投入發明專利事業,曾任臺灣國際專利法律事務所專利工程師、副經理、智慧國際商標事務所副所長等。

年輕時就熱愛文學的李魁賢老師16歲時開始發表詩作,開啟了往後超過一甲子的文學人生,一生獲獎無數,享譽國際。創作領域包含詩、小說、散文創作,以及評論、翻譯等,他尤以創作詩見長,因修習德語、英語翻譯了大量的外國詩作,也是將台灣詩人帶到國際文學舞台上的重要推手。

「詩人之所以成為詩人,是因為他的詩能展現社會集體意識,與被宰制的人民感情產生同源性的連接,他才能建立批評性角色的骨架。這種氣質是詩人首要的任務,是最基本的前提條件,他是站在人民的線上。」——李魁賢

1964年參加 #笠詩社 後,李魁賢老師不僅一直持續在《笠》詩刊上發表詩作,並翻譯引介了許多外國詩作,亦透過詩論表達他對現實社會的關懷與本土精神。往後他更積極投入文學運動,不僅於1987年籌設 #台灣筆會,更推動成立台灣文學系、倡議台灣文學,2005年和詩人鄭烱明一同策劃 #高雄世界詩歌節,2016年與 #世界詩人運動組織 共同策劃 #淡水福爾摩莎國際詩歌節,不遺餘力以詩、以文學關愛這片土地與社會。

向李魁賢老師致上最深的敬意,感謝他一生為台灣文學培育創造了豐腴的沃土,讓更多的新血可以在這片土地上持續茁壯。
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照片提供:#謝碧修 老師」

・柳瀬博一さんFB投稿:「川島蓉子さんが急逝されました。[中略]消費の最先端に、ふわっと降り立って、すっと入って、あっという間に、現場の人、トップの人と仲良くなる。記者やジャーナリストではできないアプローチ。
あの消費の現場へのアプローチは、川島さんしかできなかったように思います。ご冥福をお祈りします。」

・デビッド・リンチ監督死去「ツイン・ピークス」などで知られる 2025年1月17日 7時33分

「アイデアは魚のようなもの。小さな魚を捕まえたいなら浅い水域にいればいい。でも、大きな魚を捕まえたいならもっと深く潜らなくてはならない。深く行くほど、魚はより力強く、より純粋になる。巨大で抽象的だ。そして、とても美しい。」ーデイヴィッド・リンチ(1946〜2025)

・西野博之さんFB投稿:「また大事な人が天国に旅立ってしまった。世田谷区のもと児童館職員で、イギリスから日本にチャイルドラインを導入するきっかけをつくった人の一人でもある澤畑勉さんだ。ヒゲさんの愛称で親しまれたこの人から、私はとても大きな影響を受けた。私が19年前に初めて出版し、8刷りの今まで長くロングセラーになっている著書『居場所のちから』の中にも、澤畑さんの言葉を紹介している。「子どもの話を聴くとか、寄り添うとか、受けとめるとかいうのは、すべておとなが勝手に使っている言葉。子どものほうが話を聴いてもらえたとか、受けとめてもらえたと思ったときにしか成立しない」「話を聴くっていうのは、言葉を聴くっていうんじゃないんだ。子どもは辛さを言葉にするんじゃないんだ。つらければつらいほど、そのことはしゃべらない。思い出したくないって思うから、それは飲みこむ。どんなに飲みこんでも飲みこみきれないものがある。飲みこみきれずにそこからこぼれてしまう。たぶん言葉にはならないんだろう、ため息とかうめきとか叫びとかウワァーとかヤダーとかね。そういった言葉にならないものが出てくる。それを受けとめようと、オレはここにいるぞっていうことを伝えて、待つしかないのだ。話を聴くっていうことは、そういう聴く準備をもって、わたしはあなたのそばにいるんだよっていうことを、子どもに理解されるように伝えることなんだ」
 家庭や学校や地域の中に居場所を見つけられない子どもたちに、とことん寄り添った人だった。暗闇の中で一緒に温泉に潜り込んだ仲間だった。茶目っ気のあるやんちゃな親父だった。子どもから大人まで、たくさんの人に愛された人だった。彼が始めた「ボランティアと福祉を考えるまつり」である世田谷の「雑居まつり」は今年50回を迎えるので、澤畑さんに実行委員長をやってもらおうと、昨年10月のお祭りの日にみんなで話しあっていたばかりだった。寂しいね。昨晩開かれた「お通夜」は、「家族葬」だけど、どうしてもお別れしたい人は入れてくれるというので、こっそりお邪魔しようと斎場についたら、まさかの長蛇の列。200人は優に超えていたんじゃないかと思われるほどの人が別れを惜しんでいた。なるほどこれぞ血縁を越えた「大家族葬」だったんだね。
 本当にお世話になりました。心からありがとう。あなたのあとを継いだ若者たちが、しっかりとそれぞれの地で、豊かなつながりを育んでいくことでしょう。天国から見守っていてくださいね。」

・【訃報】ピアニスト・作曲家の藤井一興さんが亡くなられました。70歳でした。
年明けにもコンサートに出演していました。ドビュッシーやフォーレ、師でもあったメシアンなどの作品が印象に残っている方も多いかと思います。
謹んで御冥福をお祈りします。

曲の紹介はこちらの記事をご参照ください。

・柴田望さんFB投稿:「■萩原貢さんの突然のご訃報に接し、いまだ信じられない思いです。謹んで哀悼の意を表するとともに、心よりご冥福をお祈り申し上げます。
 昨年12月11日にご逝去の報を14日に受け、詩の世界にとって、私たちにとって、あまりにも大きな存在、昨年5月の北海道詩人協会の総会で、ご一緒のタクシーでお話できたのが最後になりました。一昨年、詩話会の1月例会(60周年の準備会議)でお会いしたとき、沢山の貴重なお話を戴きました。第三回小熊秀雄賞を受賞されたとき、河邨文一郎さんが「貰っておきなさい」と仰ったこと、旭川で鈴木政輝さんとお会いされたこと、詩人協会の歴史、在籍した小説家、他にも様々な北海道の詩のグループの動き、小樽詩話会の創刊からの編集の方向性、「フラジャイル」へのご助言も戴きました。「青芽」が70周年のとき、富田正一さんは萩原さんに励まされて、続けていくことを決意したといつも仰っていました。8年前に豊平館で初めてお会いして、小樽詩話会にお誘い戴き、入会したとき、詩誌「フラジャイル」を創刊した際にも激励のお言葉を賜りました。幽玄の磁場の小樽で、喫茶コロンビアでの合評会で詩を褒めて戴き、もっと面白い詩があなたには書ける、あの詩誌にはこういう詩も書いていたでしょう、と厳しく温かくご指導戴き、「指名手配」の私の詩もいつもお読みくださり、あまりにも大きな存在なのに、私のような者にも透き通った言葉で接してくださったこと、過去の「北海道詩集」や「核詩集」、「北方文芸」など、萩原さんの詩は膨大に刻まれており、忘れられない凄い詩が沢山あります。
 沢山の感謝を申し上げなければなりません。
 心よりご冥福をお祈り申し上げます。

*

もう絶対におりたつことはないだろうから
だから足を捨てる
飛ぶ
飛ぶ
そして飛ぶ
飛ぶために必要なものは
やわらかく勁い
この翼だけ
もはや攻撃のために飛ばない
逃亡のために飛ばない
ただまっすぐに飛ぶ
飛ぶ
飛ぶ
飛ぶ

(萩原貢「飛ぶ」より 『核詩集』1969年刊)」

・老衰のため亡くなっていたことが分かりました。97才でした。三浦洸一さんは、作曲家の𠮷田正氏に師事し、昭和28(1953)年5月『さすらいの恋唄』でデビュー。

・「聖書と力関係を考える」をフォローしてくださっている皆さま
いつもご支援いただきありがとうございます。
これまで聖書と力関係を考えるための勉強会は、臼井一美さんとわたくし安田真由子の二人で企画、運営してきました。
しかし、臼井一美さんは1月20日に脳出血のため急逝されました。
19日にご自宅で倒れているのを発見され、緊急搬送されましたが、20日の午前4時34分に息を引き取られました。
あまりにも急なことで、驚かれる方も多いかと思いますが、彼女のことを心に留めてお過ごしくだされば幸いです。
25日(土)の午後に千葉県の市川八幡キリスト教会にてお別れ会がございます。
参加を希望される方は、ご連絡いただければ詳細をお知らせいたします。
また、遠方の方でご協力いただける方は、お花料を以下へお振込みください。葬儀の費用とガザへの献金にあてられます。
郵便振替 00250-0-107417 市川八幡キリスト教会
一美さんはわたしにとってかけがえのない友人であり、一緒に考え行動できる仲間であり、たくさんのことを教え導いてくれる人でした。
彼女から学びたいことはまだまだたくさんありましたし、この勉強会でもより一層一緒に学びを深めていきたいと思っていたところでしたが、それが叶わなくなってしまったこと、残念でなりません。
今後の運営については、方針が決まり次第、またお知らせいたします。
どうぞ皆さまも心身の健康にお気をつけてお過ごしください。
これまでわたしたち二人をご支援くださった皆さまに感謝しつつ。
安田真由子

・2025年1月21日
特定非営利活動法人              
アカデミック・ハラスメントをなくすネットワーク
(NAAH)
訃  報
NPO法人 アカデミック・ハラスメントをなくすネットワーク(NAAH)
代表理事 御輿 久美子儀
1月17日急病のため永眠いたしました。
ここに謹んでご通知申し上げますと共に、生前のご厚情に深く御礼申し上げます。
つきましては下記のとおり通夜、告別式が行われますのであわせてお知らせいたします。
なお御香典につきましては、故人の遺志により固くご辞退申し上げます。
通 夜 1月24日(金)18時より
告別式 1月25日(土)13時半より
喪 主 ご令嬢 御輿(石田) 真穂様
場 所 公益社千里会館
     〒565-0854吹田市桃山台5-3-10
      電話 06-6832-0034
      大阪メトロ御堂筋線経由北大阪急行
          「桃山台駅」 徒歩約5分
    https://www.koekisha.co.jp/information/w_osaka/suita/senri_detail/
以 上

・The theologican Don Cupitt has recently died. He was a significant influence on Murdoch's thinking, as this obituary in The Telegraph highlights.
神学者のドン・キューピットが最近亡くなった。彼は、この『テレグラフ』紙の訃報・追悼記事が強調しているように、マードックの考え方に大きな影響を与えた。

https://archive.is/G35U7

In his essay 'Iris Murdoch: A Case of Star Friendship' (Palgrave, 2012), published in 'Iris Murdoch: Texts and Contexts' he discusses his engagement with her fiction from an early age, how he came close to her philosophy in 1980, but they had significant disagreements on meeting in 1990. For Murdoch he appears as an interlocuter in 'Metaphysics as a Guide to Morals'.
『Iris Murdoch: Texts and Contexts』に掲載された彼の論文「Iris Murdoch: A Case of Star Friendship」(Palgrave, 2012)では、幼少期から彼女の小説に親しみ、1980年には彼女の哲学に接近したが、1990年に会った際には大きな意見の相違があったことを論じている。マードックにとって、彼は『道徳への導きとしての形而上学』の対話者として登場する。

キューピット,ドン[キューピット,ドン][Cupitt,Don]
1934年英国ランカシャーに生まれる。ケンブリッジ大学で自然科学、神学、哲学を学ぶ。1959年に英国国教会の助祭に、1960年には司祭に叙せられる。1968年から1996年までケンブリッジ大学イマニュエル・カレッジで宗教哲学を講じる。現在、同カレッジの終身フェロー。多数の著作や、BBCテレビの宗教番組への出演をとおして、正統的キリスト教神学や教会のありかたに対して大胆な批判を試み、非実在論的立場から新しい時代の新しい宗教のあり方を探っている。「世界でもっともラディカルな神学者」、「もっともリベラルな宗教思想家」の一人と言われている

・2025年1月13日、東京・大阪・名古屋の3大都市圏において、多くの鉄道に関連したアナウンスを担当された津田英治さん(本名 津田栄司)がご逝去されました。多くの人に愛され、多くの人に別れを惜しまれた伝説の「電車の声」

・平和教育や文化振興に長年取り組み、学校法人広島女学院理事長や広島YMCA理事長を歴任され、奥田元宋・小由女美術館理事長だった黒瀬真一郎さんが、1月17日お亡くなりになりました。
黒瀬さんは、広島女学院大学理事長・院長時代、大学の図書館内に「栗原貞子記念平和文庫」(2008年10月7日)開設することに賛同・設立のために尽力くださいました。
会の活動に関しても、多くのお力添えをいただきました。
謹んで哀悼の意を表するとともに、改めて感謝申し上げます。
2025年1月22日
広島文学資料保全の会

・Philosopher George Bealer has died.

・元連合赤軍植垣康博さんが死亡 殺人罪などで服役後に静岡で生活

・植松茂男先生逝去。

・俵孝太郎さん死去、政治評論家、アクタスで連載 94歳
「団地文化」という言葉が流行った時代があった。いまや現代の平成時代の若者たちによきにつけても悪しきにつけても「昭和レトロ」と懐かしまれる時代のことだ。俵孝太郎も不破哲三もその「団地文化」の時代の落とし子だった。こうして時代はその時代を生きてきた者たちだけに通じる1ミリあるかないかのような傷痕を遺して昨日と同じように今日も過ぎていく。
俵孝太郎氏が死去
『俵 孝太郎氏(たわら・こうたろう=政治評論家)1月1日、肺がんのため死去、94歳。葬儀は家族で行った。喪主は長男、陽一氏。
産経新聞社政治部記者などを経てフリーに。文化放送のキャスターを務めた後、フジテレビ「FNNニュースレポート」のキャスターを担当した。〔共同〕』(日本経済新聞 2025年1月27日)
原武史さんの俵孝太郎追悼コメント
『貴重な体験談フジテレビに激震が走ったのと同じ日に、フジテレビのニュース番組のキャスターを長くつとめた俵孝太郎氏のご逝去が伝えられたのは歴史の皮肉と言うべきか。団地の研究の一環として、1960年に皇太子夫妻が訪れたことで知られる東京郊外のひばりが丘団地の60年代の居住者について調べたとき、俵孝太郎、俵萌子夫妻と、不破哲三(上田健二郎)、上田七加子夫妻が同じ団地に住んでいたことを知って驚いた。俵氏と不破氏は同じ1930年の生まれ、全く同じ時期に東京大学に在学していた。もちろん二人の政治的立場は全く異なっていたが、不破氏と会った際、団地の自治会で俵氏と活動をともにしたことがあったと話されていたのを思い出す。』(同上)

・『黄色いシャツの男』で人気を集めた歌手ハン・ミョンスクさんが22日に亡くなった。享年89歳。

訃報:『黄色いシャツの男』で知られる歌手ハン・ミョンスクさん=享年89歳(朝鮮日報日本語版) - Yahoo!ニュース

・野中郁次郎 経営学者

・◇指揮者の秋山和慶さん死去 84歳 幅広いレパートリーで国際的活躍
1月上旬に出演予定だった東京交響楽団のニューイヤーコンサートを降板。23日に音楽活動からの引退を表明していました。

下野竜也さんFB投稿:「秋山和慶先生へ
秋山先生と私が初めてお会いした時の秋山先生の歳になりました。同じ55歳でもこんなに違うのかと思います。如何に先生が偉大でいらっしゃったか。
先生の事を初めて知ったのは、先生がN響を指揮なさった番組を子供の頃に見た時です。コントラバスのケースからドラキュラの格好をして登場された事を良く覚えています。後年、門下の末席に座らせて頂いた折にお尋ねしたら、「そうそう」と笑っていらっしゃいました。
誰よりも耳が良く、ピアノもお上手で万能の音楽家でいらした先生の別の顔をその頃から見る事が出来たのでした。
音楽が好きになり、田舎に居ながらも、情報収集していると秋山和慶という存在を目にする事が多くなり、テレビ等で見る度に、惚れ惚れする流麗な指揮に釘付けになりました。無謀にも指揮者を目指し、秋山先生の弟弟子にあたる堤俊作先生、その後、同じく黒岩英臣先生にご指導頂きました。そして、遂に、秋山先生のレッスンを受けるチャンスが廻って来ました。ベートーヴェンの7番とシューマンのラインでした。天にも昇る様な気持ちで先生の前で指揮をした事は僕の大きなターニングポイントとなりました。その折、図々しく先生のリハーサルを見せて下さいとお願いしたら、「良いよ」とご許可下さいました。
以来、大久保の東京交響楽団の練習場に通い先生の素晴らしい指揮、とても合理的で緻密なリハーサルを見学出来た事は今でも目に浮かぶ大きな財産です。多忙を極めていらした先生は、我々門下生に時間を割いて下さり、指揮レッスンの合宿にも参加して下さり、レッスン後は夜通し遊んでくださいました。華麗な舞台姿からは想像も出来ない程、茶目っ気のある先生でもありました。
ヴァンクーヴァーのご自宅に仲間と遊びに行った時は大きな車で空港まで迎えに来て下さり、そのまま観光に連れ出して下さり、みんな時差で朦朧としている中、先生はお元気で、翌日のヴァンクーヴァー交響楽団のリハーサルも颯爽となさっていらっしゃいました。街を先生と歩いていると「Hi, Maestro!」と声を掛けられていらっしゃるお姿に感動したものです。
誰もが先生は温厚でお優しいと仰います。先生が声を荒げて怒っていらっしゃる場面を、私の記憶でも一度も見た事がありませんでした。でも優しいだけではありません。絶対目だけは笑っていらっしゃらない時が多かった様に思います。言葉使いは丁寧でも、いい加減な事はどんな時もお許しになられませんでした。きちんと丁寧に音を磨き、良い演奏に育む事を最後まで諦めずに時間いっぱいリハーサルなさっていました。音楽に向き合う事の厳しさは、齋藤秀雄先生のお考えを徹底して受け継いでいらしたのだと思います。
ある賞を私が受賞した時に、先生をお食事に招待しました。終わりの頃、「今日はありがとうね。自分もデビューした時にトーサイ(齋藤秀雄先生)にご馳走した時にトーサイが喜んでくれてね。その時を思い出したよ。」と目に涙を浮かべて下さいました。
兄弟弟子の吉田行地さんと大阪で3人で食事した時に「君達には言っておくけど、音楽を利用して偉くなろうなんて思うんじゃないよ。これは齋藤先生に言われたんだよ。」と仰られた事は指揮者としての在り方として1番大切にしている事です。
先生と最後にお目に掛かれたのは昨年11月でした。偶然、同時期に名古屋での仕事で同じホテル。ご自身のお仕事の後、お疲れなのにも関わらず、私のコンサートに来て下さいました。ブルックナーの9番でした。門下になって30年ですが、初めて本当に褒めて下さった様に思います。いつも、決して口調は厳しくなくとも、的確な指摘とアドバイスを下さる先生でしたが、その時ばかりはいつもと違い、恐縮し通しでした。
今、自分も指揮者として音楽をする事が出来るのは秋山先生のお陰ですし、近づこうと走ってみても先生の背中は遥か遠くにあります。
そして、先生とのお別れが間近など思いもしていませんでした。
その名古屋での2ヶ月前に先生の指揮者生活60年をお祝いするコンサートで先生が取り上げたのもブルックナーでした。歌に溢れ、神との対話、自然界の美しさを讃える名演でした。
終演後、お伺いしたら「大丈夫だった?やり過ぎてなかった?」と仰る先生。とんでもありません、素晴らしかったですと申し上げました。どんな時でも謙虚な先生、虚飾を嫌う先生らしいと言えば先生らしいですが、大巨匠がそんな事を仰る事に襟を正す思いでした。
この1月には先生の兄弟弟子にあたられる齋藤秀雄門下の指揮の先生方や我々秋山門下や先生を大好きな仲間で先生の84歳のお誕生日をお祝いしようと計画していましたが、突然のお別れとなりました。先生も楽しみにして下さってました。
もっともっと先生の指揮する音楽を聴きたかったですが、叶わなくなってしまいました。先生ご自身も驚いていらっしゃると思います。
先生ともっと馬鹿騒ぎもしたかったです。と言っても騒いでいるのは僕らで、先生は笑っていらっしゃるだけですが。
先生に会いたいです。もっとご指導頂きたかったです。イタズラもしたかったです。
先生、寂しいです。
でも先生は今頃、齋藤秀雄先生、小澤征爾先生、飯守泰次郎先生方が迎えて下さっている天国にいらっしゃるのですね。ほんの少し前にそちらに行かれた汐澤安彦先生も天国の新人としていらっしゃいますね。
先生は、「自分は齋藤先生の亡くなられた歳を遥かに超えたけど、自分は何をしているんだろうって思うんだよ。」と仰せでしたね。
私が申し上げるのは失礼ですが、齋藤先生は、先生のご活躍、ご功績をとてもお喜びだと思います。
思いっきり褒めて貰って下さい。
先生こそ、齋藤秀雄先生の教えを最初から最後まで全うなさった最高のお弟子さんで、私達には最高のお師匠様でした。
ありがとうございました。
先生がお風呂で頭をすすいでいらっしゃる時に、ずっとシャンプーをかけ続けた不肖の弟子
下野 竜也より」

【朝日新聞デジタル】心のタクト、師・秋山和慶さんを悼む 井上道義さん、下野竜也さん
2025年2月3日 5時00分

2022年、サントリーホールの楽屋で。「斎藤門下はおふざけ大好きの悪童ぞろい。この日もふざけて『秋山先生に教育的指導される僕』を撮ろうとしたら、なぜか棒の先が光り『神が奇跡を与えるの図』に」(井上さん)

 日本の音楽界を朗らかに照らし続けた指揮者の秋山和慶さんが1月26日に逝った。84歳だった。年末まで指揮台に立っていたが、年明けに転倒。頸髄(けいずい)に重傷を負い、引退を表明してからわずか3日後の旅立ちだった。若き日に指導を受けた井上道義さんと、長年の教え子である下野竜也さんが悼む。(聞き手 編集委員・吉田純子)

 ■無駄ない動き、斎藤先生の作法体現 井上道義さん

 昨年、僕は自分自身の意思で引退させていただいた。なのに、僕の先生である人が、思いがけない形で引退し、そしてあっという間に旅立ってしまうなんて――。

 秋山さんは僕の6年上。10代の頃から指揮法を教えていただいた。もちろん僕の師匠は斎藤秀雄先生なんだけど、先生は忙しかったから、秋山さんや飯守泰次郎さんが僕や尾高忠明くんの面倒をみてくれていた。

 斎藤先生の一番弟子は小澤征爾さんだけど、秋山さんこそが斎藤指揮法の最上の体現者だった。無駄な動きをどう削(そ)ぎ、意図を分かりやすく伝えるか。指揮法とは、つまりは「作法」なのだ。秋山さんって、指揮中に汗をかかないんだよ。脱力が完璧にできているから、体力的に楽なんだ。

 秋山さんのカナダのご自宅で、いろいろ相談にのってもらったこともある。よく褒めてくれる人だった。何を言っても、真正面からすべて受け止めてくれた。

 アメリカですごく人気があったから、本人さえ望めば、ヨーロッパでもっと活躍するという道もあったのかもしれない。でも、そういうギラギラした世渡りの世界は性に合わなかったんだろうね。

 クラシック音楽の源であるキリスト教の価値観を、ごく自然に心の中に持っていた。エゴとか野心とか、そういうものとは最後まで全く無縁のまま。手向ける言葉がいまは本当に見つからないです。

 ■被爆地に世界と対話するオケ育て 下野竜也さん

 昨年末、55歳になりました。出会った頃の先生の年齢です。比類ない深化を遂げてゆく先生の背中を30年間仰ぎ続けてきました。

 皆さん、「優しい」というイメージをお持ちでしょうけれど、こんなに厳しい先生はいなかったと僕は思います。斎藤秀雄先生みたいに怒鳴ったり眼鏡を投げたりはしないけど、勉強していない人には淡々と「はい、次」。一方、しっかり勉強してきた人には突っ込んだ議論を投げかけてくる。

 2004年から16年まで広島交響楽団の音楽監督を務められましたが、世界と対話できるオーケストラを被爆地で育てることに格別の使命感を持っておられました。僕が先生の後を継いだとき、オーケストラをあずかるということは、独裁者になるのではなく、楽団の人たちのことをよくわかる人間になることなんだよと言われました。指示を出す前に、相手の心を聞くのだと。奏者たちの心も、そして、そのオーケストラがある地域に暮らす人たちの心も。

 完璧すぎてそつがないという声もあったかもしれませんが、実はそうじゃなく、様々な感情を熱く解き放つことのできる方でした。結構テンポを揺らすことも。心に触れる即興性がありました。

 ここ最近の指揮姿は特に、楽しくてしょうがないという感じでした。いろんな重責からようやく解放され、少年の心で、これからはやりたい音楽に存分にとりくめるとワクワクしておられたのだと思います。昨年の暮れにお会いした時も、「あと10年はやるよ」と力強くおっしゃっていました。

 先生の写真を前に置き、先生が大好きだったスコッチウイスキーを飲みながら語りかけています。先生、寂しいです。会いたいです。お別れの言葉はまだ言えません。たぶん、これからもずっと。

1月26日に亡くなった指揮者・秋山和慶さんをしのんで、テレビ特番が放送されます。アルテスも制作に協力させていただきました。
NHKプレミアムシアター|指揮者 秋山和慶さんをしのんで
2025年2月10日(月)午前3:31〜(=9日(日)27:31〜)
曲目:マーラー:交響曲第10番から「アダージョ」
出演:指揮:秋山和慶/管弦楽:広島交響楽団
収録:2013年8月5日 広島国際会議場フェニックスホール「平和の夕べコンサート」

・原爆小頭症の被爆者の岸君江さんが、けさお亡くなりになりました。心よりお悔やみいたします。
ここ数年、体調を崩されており、きのこ会の誕生会ではリモートでの参加が続いていました。
やっぱり、直接会いたかったです…

・訃報:堀場清子さん 94歳=詩人、女性史研究家
毎日新聞2025/1/28

 堀場清子さん 94歳(ほりば・きよこ<本名・鹿野清子=かの・きよこ>詩人、女性史研究家)10日、老衰のため死去。葬儀は営んだ。喪主は夫で歴史学者の鹿野政直(かの・まさなお)さん。
 共同通信記者を経て、詩作と評論の道へ。被爆体験に基づく「原爆詩」を詠んだほか、高群逸枝ら女性史家を研究した。連合国軍総司令部(GHQ)占領下での検閲の実態にも迫った。詩集「首里」で現代詩人賞。著書に「青鞜の時代」「禁じられた原爆体験」「堀場清子全詩集」など。

高橋博子さんFB投稿:「原爆検閲の問題は、日本では堀場清子さんが先駆的に取り組まれていました。(スウェーデンではモニカ・ブラウ氏が『検閲』を出版)『原爆 表現と検閲―日本人はどう対応したか』(朝日選書、1995年)などは、私の博士論文やその後の研究に大変影響を受けました。
占領期、原爆報道・出版が検閲されていたことにより、核兵器によって何が起こるのかが世界的に共有されない状態でしたが、堀場さんはその実態を浮き彫りにされました。
その時代を乗り越えて、被爆者が活動してきたこと、その歴史を尊重してノーベル平和委員会が平和賞授与を日本被団協に決めたことには、堀場さんやモニカ・ブラウさんたちの先駆的な研究で、この問題を浮き彫りにしたからこそでもあると思います。
ご冥福をお祈りします。」

・ORICON NEWSより、「俳優の川辺久造さんが肺炎のため死去 92歳 大河ドラマにも多数出演」。

・【訃報】森永卓郎さん 死去 67歳 原発不明がんのため きょう自宅で 長男・康平さん「闘病中は本当に多くの方から応援のメッセージをいただき、本人だけでなく私たち家族も勇気づけられていました」
TBSテレビ 2025年1月28日(火) 22:40

テレビの森永卓郎さんの訃報、すべての局が代表的著作から『ザイム真理教』を除外しているという投稿を見た。毒の回り方、すごいですね。

最後に出演したラジオ

息子さん出演の動画

・貞末麻哉子さんFB投稿:「悲しいお知らせです
 2025年1月26日、映画監督の西山正啓さんが亡くなられました。
 監督の奥さま いづみさんより承り、わたしのページにて関係者のみなさまにお報せさせていただきます。
 昨年末に食道がんが見つかり、初めての抗がん剤治療が始まったばかりだったそうです。数日体調を崩されていたところ、26日に吐血され、そのまま病院で帰らぬ人となってしまわれました。
 76歳でした。
 家族葬にて静かに見送られるとのこと。一切のお気遣いはご遠慮くださいとのことです。
 1992年「水からの速達」で初めてチームを組んで以来、西山さんの監督作4本に関わらせていただきました。記録映画は完成して終わりではない・・・そこから始まる上映のしごとが重要だと教えられ、全国津々浦々にお連れいただきました。小室 等さんはじめ、金城 実さん、ウォン・ウィンツァンさん、2014年に亡くなった松下竜一さんなどなど、多くの方々にご縁をつなげていただきました。まちがいなく、今のわたしが現在もこの仕事を続けているのは西山監督のおかげです。わたしと夫の結婚の立会人でもあり、監督の愛娘 藍ちゃんがまだ小さなころから、家族ぐるみのお付き合いをさせていただいてきました。
 横浜から福岡県古賀市に引越されて以来、なかなかお目にかかれる機会が少なくなっていました。もっともっといろいろご指導いただきたかった......。
 西山監督の言葉より
『我々の社会が決定的に欠けているのは他者の痛みに寄り添う教育や経験を曖昧にしてきたことである。アジア太平洋戦争の加害責任はその最たるものであろう。その結果が従軍慰安婦の存在も無きものにし、大日本帝国憲法復活を公約にするような政治家が大手を振って歩く今日を招いたのだ。戦後生まれの我々団塊世代は親にその責任を問うてきた。その我々世代が、戦争に匹敵する原発震災の責任を子どもたちから厳しく問われているのである。それを自覚するなら、ここで引き下がるわけにはいかない。』
 いのちある限り、
 わたしも引き下がらないことを西山監督にお約束します。
 心から、安らかな旅立ちをお祈りしたいと思います🙏
西山監督の公式Webサイト
https://aaaa810aaaa.wixsite.com/nishiyamamasahiro/
西山監督フィルモグラフィー
1982年「 みちことオーサ」
1984年「もうひとつのライフスタイル」
1985年「おもしろ学校の一日~名取弘文の公開授業」/「信州ちくまの夏」
1987年「ゆんたんざ沖縄」
1989年「世直し準公選~東京中野区の教育改革
1990年「しがらきから吹いてくる風」
1993年「水からの速達」
1995年「大量廃棄社会に未来はあるか(NHK)」
1998年「ボクのスケジュールがほしい~自閉症・ヒロ君の世界(NHK)」/ 「心の言葉を聴く~自閉症・大野城すばる園の試み(NHK)」
1999年「ベトナムに生まれて~枯葉剤を浴びた村から(NHK)」/ 「生き生き体験隊バングラデシュを行く(NHK)」
2000年「原爆・公害を伝える旅~写真パネルでアジア交流(NHK)」/ 「国軍体育部隊サッカー部~徴兵制と若者たち(NHK)」/ 「韓国闘牛物語(NHK)」/「未来世を生きる~沖縄戦とチビチリガマ(NHK)」
2001年「梅香里<メヒャンニ>」
2002年「朋の時間~母たちの季節~」
2004年「ぬちどぅ魂の声~韓国・沖縄・日出生台~」/「松下竜一・日出生台 2000~2004 いのちきの思想」
2005年「水俣 わが故郷~ほっとはうす流もやい直し」
2006年「米軍再編 岩国の選択」
2009年「知花昌一 沖縄読谷平和学」
2010年「チビチリガマから日本国を問う」/「恨を解いて浄土を生きる」
2009年「知花昌一 沖縄読谷平和学」
2010年「チビチリガマから日本国を問う!」
2011年「脱原発 いのちの闘争」
2012年「主権在民~フクシマから東海村へ」/「武藤類子・脱原発ワークショップ~会津磐梯山を踊りながら廃炉アクション」
2012年「現場主義~服部良一の政治センス」
2013年「主権在民2~女たちのレジスタンス」
2013年「のさり~杉本栄子の遺言」
2014年「獅子たちの抵抗~国策の強制に抗う人々」」

・97年に日本で、05年には韓国で慰謝料を求める訴えを日本製鉄相手に起こし、18年10月に韓国最高裁で勝訴した李春植(イ・チュンシク)さんが27日朝、亡くなりました。1924年生まれの101歳。日本の裁判では「強制労働」と認められもしましたが日本製鉄は最後まで謝罪しませんでした。この冷たさ。写真は19年8月のもの。

・ロバート・キャンベルさんFB投稿:マリアンヌ・フェイスフルがロンドンでご逝去、78歳。歌手で女優、ミック・ジャガーの恋人にしてミューズからドラッグ依存、ホームレスから立ち直って1979年リリースの #BrokenEnglish で暗くて美しい大輪の花を咲かせました。大学時代からずっと大好きでした。どうぞ安らかに🙏
#MarianneFaithfull

薬物依存や路上生活、別離を乗り越えた歌手マリアンヌ・フェイスフルの人生観
「LGBTQのファンたち無くして私の存在はないし、自分の存在を肯定してくれる大切な人たち」「私は男性とも女性とも深い関係を持ち、LGBTQの友人も沢山います。私にとってこれはごく自然なこと」

・Christophe CharlesさんFB投稿:「2025年1月29日に、山本圭吾先生は他界されました。
ご逝去を悼み、謹んでお悔やみ申し上げます。
1988年より大変お世話になりました。福井国際ビデオビエンナーレに呼んで頂き、その後数多くのネットワークアートイベントに参加させて頂きました。山本先生のご尽力によって武蔵野美術大学での非常勤講師、そして専任教員に就任することができました。山本先生の思想と実践を生かし大学での授業に反映させてまいりました。山本先生は世界の芸術界において非常に重要なお立場でした。
山本先生の影響力や業績は一言では申し上げられませんが、作家として研究者として教育者としての姿を今後も伝えていきたいと思っております。
ご冥福をお祈りしております。
I wish to express my deepest condolences on the passing of Prof. Yamamoto Keigo on January 29, 2025.
Yamamoto Sensei held a very important position in the world of art. His influence and achievements cannot be summed up in a few words.
I have been greatly indebted to Yamamoto Sensei since 1988. He invited me to participate in the Fukui International Video Biennale and many other network art events in the 1990s and 2000s. Thanks to Yamamoto sensei, I was appointed as a part-time lecturer and then a full-time teacher at Musashino Art University, Tokyo. I think I have been able to understand and put his ideas into practice and reflect them in my teaching and experiments at the university. I hope to continue to pass on Professor Yamamoto's work as an artist, researcher and educator.
I pray for the repose of his soul.」

・イ・ジュシルさんご逝去。「新感染」など映画にも出演されていて、いろんな役に見事に没入していましたね。イカゲーム2も観たばかり

・平良次子さんFB投稿:奄美大島宇検村の大島安徳さんが亡くなられました。98歳でした。
対馬丸が沈められて、たくさんの犠牲者の埋葬や漂流してきた生存者を助けた村の人たちのお一人でした。
当時はあまりにも酷い腐敗臭や夥しい漂流物の中、酒を浴びるようにしなければ作業ができなかったそうだ。
また当時のお年寄りが、沖縄の人がきっと家族を探しにくるから名前がわかる人は1人づつ埋葬してわかるようにと指示したという。
そして海岸に流れ着いた人をよく確認しなさい。横に流れ着くものは亡くなっているが縦に流れ着くものは、息をしている可能性があるとも年配の方が教えたそうだ。
そんな当時に様子も大島さんは私たちに教えてくださった方です。
箝口令の中、あの惨たらしい情景の記憶を後世に伝えなければと戦後になり、証言をしてくださり、記録も残してくださった方でした。
記憶のない私たちは、記録を頼りに過去を辿るしかありません。ありがとうございました。
ご冥福を心からお祈りします。
※写真は宇検村のふのし海岸に建つ対馬丸の慰霊碑

戦争を考える/中 大島安徳さん/溝口不二子さん
有料記事
2021/8/17 東京夕刊

・外山俊樹さんFB投稿:「八重樫信之さんが2月1日朝、病気のため亡くなりました(享年81歳)。朝日新聞写真部の先輩で、私が東京本社に入社した1985年にはバリバリの撮り手、特に企画ものの写真は秀逸で、当時の地上げの現場を実にフォトジェニックに表現されていたのは今も先鋭に覚えています。その後福岡でもご一緒し、さらにAERA編集部でも席を並べました。2000年に「外山君よろしくね」とAERAのフォトエディターを引き継ぎました。
 八重樫さんがデスク業を離れてからは、解き放たれたかのようにパートナーの村上絢子さんとすでに始めていた元ハンセン病患者の作品制作に注力されました。この企画ではハッセルの中判表現にこだわって、時に韓国、インドなどでも取材されていました。時々、AERAの誌面でも発表されていましたが、 地味なテーマなせいか渋めの顔の編集長に売り込む姿は、黒澤明の映画「生きる」で、志村喬演じる死期迫る職員が、最後の仕事となる公園整備の許可をとる嘆願姿に重なりました。
 昨年、7月14日に開かれた「ーフォトエッセイーそれぞれのカミングアウト ハンセン病と関わって28年」の出版記念会では「今日だけ見せるけど」とユーモアたっぷりの「遺影」を見せてくれました。ご冥福をお祈りします。」

・元阪神監督・吉田義男さんが死去 91歳 脳梗塞 85年猛虎史上初の日本一に導く 「牛若丸」「ムッシュ」の愛称で親しまれたレジェンド 球団発表

・Brian Murphy, an English actor and comedian best known for his roles in the ’70s sitcoms “Man About the House” and “George and Mildred,” died on Sunday. He was 92.

・映画監督の山田火砂子さん死去、92歳 障害者福祉や女性の自立描く 2/5(水) 14:00配信

【訃報】山田火砂子さん(映画監督) 1月13日、都内の病院で誤嚥性肺炎・敗血症のため逝去。92歳。葬儀は近親者のみで行われた。3月25日、ウェスレアン・ホーリネス教団淀橋教会でお別れの会が行われる予定。1932年 東京都生まれ。日本映画テレビプロデュサー協会功労賞受賞。
監督作に『筆子・その愛 天使のピアノ』(07年出演:常盤貴子)、『大地の詩・留岡幸助物語』(11年、村上弘明、工藤夕貴)、『母 小林多喜二の母の物語』(17年、寺島しのぶ、渡辺いっけい)、『一粒の麦 荻野吟子の生涯』(19年、若村麻由美、山本耕史)、『われ弱ければ 矢嶋楫子伝』(22年、常盤貴子、石黒賢)ほか多数。

三井マリ子さん:山田火砂子監督は90歳。矢島かじ子を描いた映画「われ弱ければ」を見に行ってお会いしました。矢島は「婦人参政権獲得期成同盟」代表・久布白落実が師と仰いだ女性。映画であらためて勉強しました。日本は、明治まで、妻と妾を戸籍に二親等として認めていました。それを変えようと、矢島は政府に直訴。そのとき「お上にたてつくのだから」と死に装束で出かけるシーンがありました。文字通り決死の覚悟・・・。遊女の逃亡を助けた矯風会は、こわもてやくざの男たちに殴り込まれて乱暴されたり・・・。私たちから見ると問題点が多く風前の灯の「売防法」です。でも、カネがなくなると娘はみな売られていた時代でした。そんな時代に、売春禁止の先陣を切ったのが矢島かじ子。中高生にぜひ見てほしい映画です。

・◇元裁判官の福島重雄さん死去 94歳、札幌地裁で自衛隊違憲判決
「長沼ナイキ基地訴訟」の札幌地裁での一審で裁判長を務め、日本の裁判で唯一、自衛隊を違憲と判断した弁護士の福島重雄さんが死去しました。

・坂手洋二さんFB投稿:「舞台衣裳デザイナーの緒方規矩子さんが亡くなられた。
私の演出作では、『荷』でご一緒した。
追悼の意を込めて、『荷』ダイジェスト版の動画を挙げたいと思います。
東京演劇アンサンブル 『荷』
2012年2月24日(金)~3月4日(日)
ブレヒトの芝居小屋
作 鄭福根
訳 石川樹里
演出 坂手洋二
音楽 大友良英
装置 加藤ちか
衣裳 緒方規矩子
照明 竹林功
音響 島猛
振付 矢内原美邦
演出助手 赤澤ムック 志賀澤子
宣伝美術 沢野ひとし 奥秋圭
舞台監督 松下重人
制作 太田昭

出演
金潤植(キム・ユンシク) チョン・ソンギル
小野芳子 原口久美子
斉藤亮二(芳子の祖父) 伊藤克
老婆(金潤植の祖母) ウ・ミファ
李貞和(イ・ジョンファ) 桑原睦
朴昌秀(パク・チャンス) 大多和民樹

金仁植(キム・インシク) 本多弘典
李泳浩(イ・ヨンホ) 尾崎太郎
崔満沫(チェ・マンス) 松本暁太郎
趙(チョ) 神成美忍
黄(ファン) 天利早智
明玉(ミョンオク)  洪美玉
鈴木忠義 坂本勇樹
金田三郎 三木元太
森賢太郎 熊谷宏平」

・「法政大学名誉教授の袖井林二郎先生の訃報に接する。享年92.先生はわたしにとっては高校と大学の先輩にあたり、1982年の竹前栄治『戦後労働改革』出版記念会でお会いして以来の付き合いである。2015年8月の松下圭一先生追悼会でお会いしたのが最後になる。その際、わたしたちの同郷出身である吉野作造について書かれないのですかと尋ねたところ、「その前に吉野作造を尊敬していた自分の親父のことを書かなければならない」とおっしゃられたのが記憶に残る。ご冥福をお祈りします。」(竹中英俊FB2025/2/11)
 南曇和夫さんコメント:「一度日本軍慰安婦の問題で、占領下の沖縄で駐留していた英国軍兵士?が、南朝鮮に朝鮮人女性を送還する作業に携わった話を聞いた、とおっしゃってました。当時の話をもう少し詳しく聞いておくべきでした。祈ります。」

◇政治学者の袖井林二郎さん死去 92歳
占領期研究の第一人者で、専門は米国政治論や戦後日米関係史。GHQの最高司令官、マッカーサーの人物像や政策を検証した「マッカーサーの二千日」で大宅壮一ノンフィクション賞や毎日出版文化賞を受賞しました。

政治学者の袖井林二郎さん死去    
 占領期研究「マッカーサーの二千日」
1970年、丸木位里・俊夫妻の『原爆の図』をアメリカ合衆国で展示紹介。「原爆の図展」が初めてアメリカで開催され、ニューヨークのニュースクール・アートセンターをはじめ各地を巡回した。(袖井林二郎「丸木夫妻「原爆の図」展がニューヨーク市民に与えたショック」『週刊朝日』1970.11.6)
朝日新聞2025年2月12日
https://digital.asahi.com/articles/AST2C2CY6T2CUCVL00GM.html
 占領期研究の第一人者として活躍した政治学者で法政大名誉教授の袖井林二郎(そでい・りんじろう)さんが10日、老衰で死去した。92歳だった。葬儀は近親者で営む。喪主は社会学者でお茶の水女子大名誉教授の妻孝子(たかこ)さん。
 専門は米国政治、戦後日米関係史。米カリフォルニア大ロサンゼルス校で政治学を学び、大宅壮一ノンフィクション賞や毎日出版文化賞を受賞した著書「マッカーサーの二千日」をはじめ、幅広い資料を駆使した占領期研究に取り組んだ。ほかの著書に「私たちは敵だったのか」「拝啓マッカーサー元帥様」など。
 原爆の惨禍を描いた丸木位里・俊の「原爆の図」を米国で展示紹介したことでも知られる。

・金平茂紀さんFB投稿:「遅きに失しましたが、合掌。謹んでご冥福を祈ります。桂さんの逝去は、何か今の日本の言論状況の象徴的な区切りのように思います。昭和天皇の空前絶後の記者会見を実現させたことに加え、日本記者クラブ(プレスセンター移転後)の運営立ち上げ、西山太吉さんの密約訴訟での原告参加など、朗らかなアクティビストとしての姿が浮かんできます。そんな人、もういないですよ。あと岩波『世界』での「メディア批評」の立ち上げも。そのうちのわずかでも引き継いでいければ……。ふたたび合掌。」

・【訃報】俳優・下條アトムさん死去、78歳
「世界ウルルン滞在記」では、「出会ったぁ~」といった独特のナレーションで視聴者を楽しませました。

・「戦争と平和」テーマに多くの作品 児童文学作家・和田登さん死去 [長野県]:朝日新聞

「松代大本営(長野市)など「戦争と平和」をテーマに多くの作品を残した同市の児童文学作家、和田登(わだ・のぼる)さんが4日、死去した。89歳だった。葬儀は7日に近親者で営んだ。後日、しのぶ会を開く。喪主は長男海彦さん。
 小学校の教員を30年余り務め、信州児童文学会長や日本児童文学者協会評議員、長野県信濃町の黒姫童話館長などを歴任した。100冊ほどの作品を世に送り、半数近くは反戦・平和を訴えるものだった。
 戦後70年にあたる2015年7月、取材に対し「原爆や空襲など被害の側面だけで戦争の実相は語れない」と、加害の視点へのこだわりを口にしていた。
 その代表作と言えるものが、1971年から3年以上、自身で現地などを取材して書き上げた「悲しみの砦(とりで)」(77年、岩崎書店)。松代大本営の工事にかり出された朝鮮人労働者を取り上げた。
 歴史と向き合い、過去をきちんととらえて知ることが大切だといい、「書いたものを次の世代につなげなければ」との思いも強かった。
 17年9月、当時の安倍晋三首相が臨時国会の冒頭で衆院を解散し、野党から森友・加計問題の「疑惑隠し解散」と批判された。まっとうな政治が機能していないとして「暗澹(あんたん)たる思い」を言葉にしていた。
 一方で、悲観に打ち勝つ理想主義も大切にしていた。それは「人間として、あすも幸せでありたい、いい世の中にしたいと願う本能的なもの」だった。
 世界で戦火が絶えず、自国第一主義を掲げる国が幅をきかせようとする中で戦後80年を迎える。和田さんともう一度、率直に理想主義を語り合いたかった。

・【訃報】 #コンピュータ科学 の基礎理論、 #情報数学 が専門の数学者・ #野崎昭弘 先生が、先月亡くなりました。88歳でした。
#数学セミナー 』『 #数学文化 』への寄稿、『算数・数学の真珠』『不完全性定理』など多くの著作を出していただきました。
童話屋さんから刊行されている #安野光雅さん 絵の『赤い帽子』などを幼い頃に読んだ方もいらっしゃると思います。
弊社からは2021年刊行の『算数・数学の基本常識』が最後の著作となりました。
謹んで哀悼の意を表します。
#数学 #日本評論社 #本 #book #書籍

・「コロンビア大で長く日本美術史を講じられた村瀬実惠子先生が亡くなられたとの報がニューヨークから届く。御年101歳になられていたか。学部生の頃、日本美術史の概説やゼミを取って、基礎を教えていただいた。院生の頃は、LAのプライス・コレクションにみんなで訪れたことも忘れられない。僕はその後、日本美術史とは随分縁遠いところに来てしまったから、不肖のなんたらということになるだろう。マシュー・マッケルウェイさんや手塚美和子さんやキム・イルさんから、100歳を超えてもお元気だと聞いて驚愕していたが。哀悼の気持ちをここに書いておきたいと思います。」(佐藤守弘さんFB2025/2/16)
昨年の記事

・韓国の吉元玉(キル・ウォノク)ハルモニの訃報。

Nachruf für Gil Won-Ok 길원옥 (1928–2025)

Mit tiefem Bedauern nehmen wir Abschied von Gil Won-Ok Halmoni, die am 16. Februar verstorben ist. Als Überlebende der japanischen Militärsexualsklaverei kämpfte sie unermüdlich für Gerechtigkeit, Frieden und die Rechte von Frauen in Kriegsgebieten.

Ihr Mut und ihre Stimme werden uns fehlen – ihr Vermächtnis lebt weiter.

Ruhe in Frieden, Gil Won-Ok Halmoni.
길원옥 할머니, 편히 쉬세요.

Fotos von Tsukasa Yajima

Gil Won-ok, one of the last survivors of sexual slavery in brothels for Japan’s World War II troops, who campaigned to bring international attention to the suffering of thousands of women like her​, died this week at 96.

関西ネット より。
《訃報》
みなさま
2月16日、吉元玉ハルモニが永眠されました
享年96歳でした
2004年の初来阪以降、関西ネットの求めに応じて度々関西の地を訪れ、私たちと歩みをともにしてくだいました。
詳細は公式サイトまで

・訃報 女優キム・セロンさん 自宅で遺体発見=24歳

韓国の天才子役女優が自宅で死亡 24歳 
 2022年に飲酒運転で事故→罰金刑 友人が心肺停止状態で発見

キム・セロン 김새론
2000年7月31日 - 2025年2月16日
元子役、女優。ソウル特別市出身。中央大学校演劇映画科在学中。
9歳の頃から子役としての活動を始め、映画初出演で主演を務めた2009年の映画『冬の小鳥 여행자』では孤児院に捨てられた少女を演じ、カンヌ国際映画祭に韓国の俳優史上最年少で招待された。
2010年の映画『アジョシ 아저씨』では、ウォンビンと共演し、大韓民国映画大賞新人女優賞を史上最年少で受賞した。
2014年の映画『私の少女 도희야』では第35回青龍映画賞新人女優賞を受賞した。

記事 韓国精神科教授「キム・セロンさん、再起の機会なく葬られ…イカゲームのよう」2025/2/17(月) 14:30配信

・拉致被害者有本恵子さんの父、明弘さん96歳で死去「ぎりぎりいっぱいまで生きてきた」 神戸
 朝鮮民主主義人民共和国による拉致被害者で、神戸市出身の有本恵子さん=失踪当時(23)=の父、有本明弘(ありもと・あきひろ)さんが14日未明、老衰のため死去したことが分かった。96歳。

・中野敏雄さん:「野﨑健が亡くなった。野﨑は70年代初頭の京都大学でわたしより一学年上の先輩で、京大C戦線という活動家集団をわたしと共に担い、その後、大阪の釜ヶ崎の労働運動にかかわって半世紀以上をそのために尽くして、その拠点であった労働組合である全港湾西成分会から毎日配布してきた大衆ビラ「大阪城」はすでに10000号を越えるに至っている。

野﨑と共に西成分会を担った故片田幹雄についてはわたしの新著『継続する植民地主義の思想史』のあとがきで少し触れることができたが、存命中の野﨑についてはそこでは触れなかった。とはいえ野﨑は、わたしの著書をいちばんに捧げたい人の一人である。というわけでわたしは、新著刊行の昨11月末に大阪の釜ヶ崎を直ちに訪ね、直接にそれを手渡している。その時には思いのほか元気で、「また話そうな」と約束して別れているのに。

その野﨑が、急死した。痛恨の極みである。大阪の釜ヶ崎では「あいりん労働福祉センター」の強制建て替えに抗議する「占拠」行動が強制的に排除されてしまって、運動の局面としても重大な転機を迎えている。そんなときの野﨑の死は、その意味でも痛恨の極みなのだ。

突然のことなのでまだ気持ちの整理がつかないが、まずは「野﨑の死」という事実を確認すべくここに報告する。野﨑が書いている「大阪城」10000号記念資料集への寄稿もスキャンしてお知らせしよう。野﨑健という存在がそのようにして生きてきて、ここに亡くなったということを多くの人に知っておいてもらいたいと、思っている。」

・去る1月6日に急逝された内藤隆弁護士の追悼記事(『救援』2月10日号)

・万代博実さん、肺癌にて死す。享年74才。芥正彦と同じ東大全共闘出身のマネージャーとしては稀有な存在だった。

柄本佑、伊藤沙莉ら所属アルファエージェンシー万代博実社長が肺がんで死去、74歳
2025/2/17(月) 13:55配信
 豊川悦司(62)柄本佑(38)伊藤沙莉(30)ら映画俳優が多数所属する、芸能事務所アルファエージェンシーの万代博実社長が11日午前0時2分、肺がんのため亡くなった。74歳だった、同事務所が17日、公式サイトで発表した。「2月16日、故人の遺志により、家族、所属俳優、スタッフのみで葬儀を済ませましたことをご報告いたします」とした。
 アルファエージェンシーは、万代さんの経歴を紹介。「芥正彦と出会い、1976年中島葵のマネージメントからアルファエージェンシーは始まりました。以降、一貫して『俳優からの信頼が財産』をモットーに、所属俳優がより良く生きることの出来る『場』を求め、本当に最後の時まで俳優のことを考え、まさに生命をかけて邁進しておりました」とつづった。
 万代さんは生前、所属俳優が出演する映画の舞台あいさつや試写会、取材会などにも先頭に立って足を運び、記者とも現場で俳優のことを語り合うなど、現場主義の姿勢を貫いた。「現場が大好きだった万代は、お世話になっている共演者、スタッフの方々のことも常に気にかけておりました。このような突然のお知らせとなりましたことをお詫び申し上げますと共に、静かに見送ることができましたこと、深く感謝申し上げます」と続けた。
 そして「後日、万代らしいお別れの会を開催させていただきたく検討しております。すこしお時間をいただけましたら幸いです。
 これからもどうぞよろしくお願い申し上げます」と、お別れの会を開催すると明らかにした。

・中国女性史研究会
◆訃報
 現代中国を代表するフェミニスト・李小江さんが2月12日逝去されました。
彼女は1980年代に中国の女性解放に関する理論を発表し、「婦女研究運動」を牽引してきました。心から哀悼の意を表します。
中国女性史研究会は早くから彼女の活動を評価し、東京・鄭州・大連などで交流を重ねました。本研究会メンバーで李小江さん関連の紹介をしたのは、主に末次玲子さん(研究会初代代表)と秋山洋子さんでした。二人の関連業績をまとめましたので添付します。
中国では『新京報』が2月13日に李小江さんの逝去を報道しましたので、あわせて添付します。報道中には「改革开放初期,她曾在《马克思主义研究》
上发表的《人类进步与妇女解放》,首次质疑中国的妇女解放道路,对“男女都
一样”的理论与实践提出挑战,引起巨大反响(改革開放初期、彼女は『マルクス主義研究』誌に「人類の進歩と婦女解放」の一文を発表し、初めて中国の女性解放の道に疑義を呈し、「男女はみな同じになった」という理論とその実践に対して挑戦し、極めて大きな反響を呼び起こした)」とあります。
また、昨年9月5日の「腾讯新闻」には張月さんによる李小江さんのインタビュー記事が掲載され、上野千鶴子さんがWANのサイトに日本語訳とともに掲載されています。https://wan.or.jp/article/show/11498(李小江~「フェミニズムから距離を置く、中国の女性学研究のパイオニア」)

・マジカル・パワー・マコが死去  

・「合掌 多賀一造先生、満96歳の大往生。今日告別式。昭和22年から小学校教員ひとすじ。幡多作文の会会員、旧大正町の打井川小学校ではこども文集「こだま」を発行、小砂丘賞。退職後は三里、島の宮の鮎鯉庵で悠々自適。昔の川を知り尽くし、舟母の船頭をしながら、小説「温め石」で大原富枝文学賞。歌集も複数。粋でかっこよく、カラオケ大好き、女性ファンに囲まれ、自由に生き尽くした人生。先生、私もあやかりたいです。」(田中全さんFB2025/2/22)

・落語家・桂才賀さん死去 「笑点」大喜利メンバーとしても活躍 虚血性心疾患で21日に

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