死刑執行人サンソンが見たフランス革命🇫🇷 ➕【放送大学】カリブ海の植民地から🇭🇹
NHKBSプレミアム『ダークサイドミステリー』「美しき処刑人が見たフランス革命 なぜ理想が恐怖に?」を視聴。フランス革命の死刑執行人シャルル=アンリ・サンソン、フランス革命で2700人以上を処刑。克明な日記。サンソン家は処刑の特殊技術を継承する一族。サンソンはパリ高等法院という重要な司法機関に所属する官吏で、国王から給料を貰っている。サンソンは国王の代わりに自分は正義の剣を振るっているという確信があった。「あなたの悪名高い職業は、ただの市民と一緒に食事をすることさえ許されないものです」「死に関わる仕事を忌まわしく思うのはごく自然な感情です。彼が人間を殺して血を流している限り反感を抱かれるのは当然のことでしょう」。
番組出演者:
(1)松浦義弘さん。著書に『フランス革命とパリの民衆』『ロベスピエール 世論を支配した革命家』など。訳書に、リン・ハント『人権を創造する』(岩波書店)など。ルイ14世時代以来の度重なる戦争、特にアメリカ独立戦争への参戦をしたことがきっかけで財政が完全に破綻状態に陥った、それにもかかわらず第三身分の平民だけが重税を課されて特権身分は免税だった、これがフランス革命の直接の原因。当時は17世紀後半の「刑事王令」という刑事裁判に関する手続きを定めた王令に基づいて裁判がなされていた。サンソンは裁判所で出された判決を正当なものと考え、それを忠実に粛々と実行・執行した。人間は権利において平等だと宣言した「人権宣言」はそれ以前の社会の全面的な否定という意味があり、歴史家の間では「アンシャン・レジーム(旧制度)の死亡証書」と形容する人もいる。当時のスローガンとして「自由か然らずんば死か」というスローガンがあるが、国王を犯罪者として処罰して共和国を守らなくてはいけないという考え方が強かった。元国王ルイ16世をギロチンが設置された革命広場で公開死刑することによって、過去の悪しき封建社会との決別を国民に非常にはっきりと印象付けた。
(2)西川秀和さん(「サンソン家回顧録」翻訳のほかアメリカ歴代大統領を研究)。
(3)フランス国立科学研究センター研究室長アンヌ・シモナンさん。
身分により異なる処刑方法を平等に、無用な苦痛を与えないようにすべきというサンソンの意見書がきっかけで開発された処刑道具ギロチンの発明。それまでの重い剣を振るうやり方よりはるかに正確で合理的。サンソンはひもを引くだけでいとも簡単に処刑できるようになった(⇨処刑される人の苦痛を減らすという目的だけでなく、処刑人自らの心理的負担の軽減という理由もあった?)。身分によらず平等にと目指した道具は、見境もない最悪の大量殺人機械に。少しでも人道的にというサンソンの願いは、より残酷に彼の手を血で染め上げていく。死の感覚が麻痺していく人々。元国王ルイ16世の死刑が議会で決まる。国王は憲法によると不可侵な存在であり、サンソンにとってこれはとんでもない話。ギロチンが設置された革命広場でルイ16世はギロチンで処刑。革命の敵とみなされた人々は次々とサンソンの手に委ねられる。シャルロット・コルデ。革命を進める国民公会では議員たちの派閥の対立が激しくなっていく:❶これまで国内での改革の主導権を握り、外国との戦争を進めてきたジロンド派。❷このジロンド派の政治は失敗だと攻撃したのが山岳派。指導者は弁護士出身のマクシミリアン・ロベスピエール。ロベスピエールは理想の革命を目指すため、ジロンド派の排除を決意。ロベスピエールの扇動でパリ市民8万人が議会を包囲、この圧力を利用しジロンド派議員29人を逮捕。ジロンド派議員は抵抗してパリを逃げ出し地方で内乱を扇動。悪化する事態に議会は1793年9月17日『反革命容疑者法』を制定。革命後、政治犯を裁くために新たに設置された「革命裁判所」では、容疑者が身の潔白を訴える弁明も制限された、そして判事と陪審員の下す判決の多くは死刑。サンソンの日記に「判事たち陪審員たちを見ていると死の狂乱とでも呼ぶべき病にかかっているかのよう」。人々が一種の集団的なパニック状態になって、極端な行動が人から人へ伝染することを「病」と表現。❸平原派(中道派)。
ジロンド派の女王と呼ばれた理論的指導者ロラン夫人の言葉「自由よ汝の名のもとでいかに多くの罪が犯されたことか」。バスティーユ襲撃の1ヶ月前、国民議会を率いて貴族と対立、革命運動の先駆けとなったジャン=シルヴァン・バイイ。
革命指導者ロベスピエールは当時、清廉の人Incorruptibleと形容されたが、Incorruptibleは腐敗し得ない人・買収し得ない人という意味。特に憲法制定、国民議会の時は、人権宣言の二大原則である国民主権と権利の平等を徹底的に実現しようと情熱を注いだ。フランス革命で人権宣言が出されたが、人権宣言の下で恐怖政治が起きてしまっている。ロベスピエールは革命初期にはロベスピエールは死刑廃止論を唱えるが、国王裁判では国王の処刑を積極的に主張する。要するに状況とか内外の危機とかそういうものの変化に応じてロベスピエールも変わっていっている。
サンソンの発言「ロベスピエールは斧🪓を使う人で、自分は単なる斧🪓だ」。斧と言っても実際は人間なわけで、人間だけど斧として死刑対象を処刑しなければならないという苦悩。
映画🎬『ダントン』。ロベスピエールの演説「恐怖とは即座に行われ厳格で確固とした正義である」。厳しい法律を制定すると政敵を生み出すだけ。「永続的な粛清システム」が出来上がってしまった。ロベスピエールは遂に「プレリアール22日法」というとんでもない法律を制定。しかしサンソンは自動機械のように執行しなければならなかった。ものすごい犠牲の上に人権宣言は現代まで届けられている。
参考資料①:YJC第1巻発売記念特集「死刑人サンソン」が生きた時代 『イノサン』サンソン家の歴史出典 『死刑執行人サンソン』著者 安達正勝氏 インタビュー
参考資料②:オノレ・ド・バルザック『サンソン回想録』
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【放送大学テレビ/視聴メモ📝】専門科目『近現代ヨーロッパの歴史ー人の移動から見るー』第2回「フランス革命とナポレオンの時代ーカリブ海の植民地から」担当講師:前田更子さん(明治大学教授)
18世紀末フランス革命期におけるフランス本国と植民地の関係 〜封建制を廃止し、近代的な社会の成立を模索した革命家たちが植民地をどのように捉えていたのかを検討〜 ハイチ革命🇭🇹(1791〜1804)
・大西洋奴隷貿易とカリブ海のフランス領植民地について(概観)
16世紀から19世紀にヨーロッパ諸国が展開した大西洋奴隷貿易いわゆる三角貿易。緑の矢印は、ヨーロッパの商人が奴隷の対価としてアフリカへ持ち込んだ商品(ヨーロッパ発の交易品)のルートである。オレンジの矢印は、黒人奴隷の強制連行(アフリカ発の奴隷船)のルートを示しているが、南北アメリカ大陸・カリブ海地域だけでなく、インド洋のフランス植民地であるブルボン島(現在のレユニオン島🇷🇪)やフランス島(現在のモーリシャス島🇲🇺)にも向かっていることが分かる。紫の矢印は、奴隷労働の結果生み出されたサトウキビ・コーヒー・タバコなどの植民地物産がヨーロッパへ運ばれたことを示している。
奴隷船の劣悪な環境を表したこちらの図はとても有名である。アフリカ西岸からカリブ海への航海はおよそ2ヶ月に及んだ。この図のような酷い条件下での船旅ゆえ航海中の死亡率は高く、18世紀前半でおよそ10%、18世紀後半で約7〜8%だったと推定されている。近年の研究によれば、大西洋奴隷貿易が実施されていた350年ほどの間に1250万人以上の黒人がアフリカから奴隷船で運び出されたことになる。平均すると毎年3万5000人強という膨大な数である。
17世紀のカリブ海の分割の状況を表した図。ヨーロッパから遠く離れたこの地域全体がヨーロッパ人によって占領され分割されたことがはっきりと分かる。フランスの植民地に話を絞ると、フランスは1635年にマルティニーク島🇲🇶とグアドループ島🇬🇵に入植し、次いで1697年のライスワイク条約によってスペインからサン=ドマングを獲得した。サン=ドマングは1492年にコロンブスが到達したイスパニョーラ島の西半分に位置しており、現在のハイチ共和国🇭🇹に当たる。サン=ドマングの獲得はフランス経済に莫大な富をもたらした。というのも、肥沃なこの土地には短期間の間にサトウキビやコーヒーの広大なプランテーションが設けられ、その結果18世紀末にはサン=ドマング産の砂糖は世界の消費量の40%、コーヒーは60%を占めるまでに成長する。サン=ドマングはその生産力の高さから「カリブの真珠」「アンティルの女王」と称されたほどである。しかしそうした繁栄を生み出していたのが黒人奴隷たちの過酷な労働であったことは言うまでもない。
この表は、革命前夜にフランスが保有していた奴隷制植民地の人口構成を表しているが、総人口の8割から9割が黒人奴隷であったことが分かる。イスパニョーラ島の東半分に位置するスペイン領サント・ドミンゴでの奴隷の割合は2割弱でしかなく、ブラジルやアメリカ南部でも5割程度であったことと比較すれば、フランス領の植民地の奴隷の多さは際立っている。また、サン=ドマングの人口がほかの島に比べて圧倒的に多いことも分かる。実際、フランスがカリブ地域へ送った黒人奴隷の8割ほどがサン=ドマングに送られた。他方、コロンブス以前にこの地に先住していた民族はヨーロッパ人による殺戮やヨーロッパから持ち込まれた感染症などにより16世紀にはほぼ絶滅していたことも知っておくべきである。
・フランス革命と植民地
フランス革命の直接的なきっかけは逼迫する国家財政を改善しようと財務総監カロンヌが提案した新しい税制の創設を巡る問題だった。この改革の是非を審議するため1789年5月5日に聖職者・貴族・平民の代表がヴェルサイユに集まり、全国三部会が開催される。議論は紛糾し、6月17日、平民つまり第三身分を中心とする一部の人々は、自分たちこそが国民を代表していると主張して、独自に「国民議会」の成立を宣言するに至った。7月14日には、よく知られているようにパリで民衆が武装蜂起しバスティーユ城塞が陥落する。その後、各地で封建領主に対する農民の不満が爆発し、「大恐怖」と呼ばれる全国的規模の農民反乱が起こった。そうした動きに対して議会は封建制を廃止し、8月26日にはかの有名な「人間と市民の権利の宣言」いわゆる人権宣言を採択する。続いて議会は、教会財産の国有化、行政・司法機構の中央集権化、経済活動の自由化、度量衡の統一、ギルドなど中間団体の廃止といった改革を矢継ぎ早に実施する。そして1791年9月3日にはフランス史上初の憲法、1791年憲法が制定された。
人権宣言は前文と17の条文からなる。第1条では「人は自由かつ権利において平等なものとして生まれ、生存する」と宣言されたが、この「人」に黒人奴隷や有色自由人も含まれるのかどうか、明記されていなかった。第3条では国民主権が約束された。また第2条は「あらゆる政治的結合の目的は、人間の生得の消滅することのない権利を保持することにある」とし、それらの権利として「自由、所有権、安全、および圧政への抵抗」の4点を挙げている。こうして少なくとも文章のうえでは、フランスは絶対王政の身分制国家から自由で平等な個人からなる近代国民国家へ移行したことになる。しかしながら、当時のフランス社会の現実は人権宣言の理想とは異なるものだった。革命期において、自由な人間とは市民とは一体誰のことだったのか。
フランス革命の最初の憲法である1791年憲法の前文には「国民議会は、人権宣言にもとづいて〜」とある。ところがこの憲法において、選挙権を有する「能動市民」として認められたのは、一定の税を納める25歳以上の男性のみだった。人口の半数を占める女性のほか、奉公人、貧民、植民地の奴隷、子どもなどは「受動市民」として政治的権利を持ち得ない存在とされた。さらに植民地の位置付けについて、91憲法の第7編第8条は「アジア、アフリカ、アメリカのフランス領植民地はフランスの一部であるが、本憲法は適用されない」と定めている。つまり植民地は、本国とは別扱いだとはっきり述べられているわけである。この結果、植民地では革命以前の封建的システムが維持されることになってしまう。この決定の背景には植民地経済を動かしていた白人プランターや貿易商、海運業者、金融業者などからの圧力があった。彼らは革命の理念が植民地に普及し奴隷貿易や奴隷制度が廃止されることで自らの地位がおびやかされ、富を失うことを恐れていた。彼らは植民地の「自治」を要求していたのである。そうした利害を代表する最も有名なロビー団体に「マシヤック・クラブ」があった。経済面で植民地貿易に大きく依存していた当時のフランスは彼らの声を軽視することができなかった。21世紀の視点から見れば、議会はこの段階では普遍的人権よりも経済的利益を優先したと言えるのだろうか。他方、当時のフランス国内にも非人道的な黒人奴隷貿易を告発し、奴隷制を段階的に廃止すべきだと訴えた人々が存在した。啓蒙思想に導かれイギリスやアメリカでの奴隷制廃止運動に影響を受けた彼らは1788年2月にパリで「黒人友の会」を創設する。「黒人友の会」のメンバーにはブリソ、コンドルセ、グレゴワール、シェイエス、ミラボー、ラファイエットなど、のちの革命の展開の中で主要な働きをする人々が名を連ねている。
こちらの2つの図像のうち、左側が1787年にロンドンに創設された奴隷貿易廃止促進協会のメダルで、有名な陶芸家のウェジウッドが制作したものである。奴隷廃止論者たちはこのメダルを装飾品として身につけたといわれている。右側はパリの「黒人友の会」のマークである。黒人友の会の創設者ブリソは、ロンドンの奴隷貿易廃止促進協会の中心メンバーであったクラークソンの友人だった。鎖に繋がれた一人の黒人がひざまずいて自由を求めている姿が描かれ、「私はあなたの兄弟ではないのでしょうか」という文が刻まれている。ロンドンの協会と同じイメージを利用していることからも黒人友の会が反奴隷制を巡る国際的な運動に呼応しようとしていたことが分かる。
当時のフランスと植民地の関係を見るうえではもう一つの集団の存在を無視することはできない。それは植民地出身でフランス本国に住む有色の人々である。彼らの一部は革命勃発の2ヶ月後、1789年9月に既にパリにおいて「有色市民協会」を結成したとされている。革命前夜のフランス本土の人口はおよそ2700万人だったが、そのうち黒人や混血の有色人の数は4000人から5000人だった。彼らの地位は1791年憲法制定直後に出された9月28日の政令により「いかなる肌の色であろうと、いかなる出自、いかなる国の出身であろうと、フランス国内においてはすべての人間が自由となり、憲法が要求する諸条件を満たす限り能動市民の権利を享受する」として法的に保障された。
他方で、植民地在住の有色人については事情が異なる。先ほどのフランス領奴隷制植民地の人口構成の表にもあった通り、植民地には黒人奴隷と白人のほかに有色自由人というカテゴリーの人々がいた。彼らは解放された元奴隷や自由身分の母親から生まれた黒人・混血などで、中には奴隷を所有し、プランテーション経営をする富裕層もいた。しかし有色自由人は植民地社会の中で白人とは法的に区別され、行政機関で働くことも医師になることもできず、白人と同じ食卓につくことも白人と同じような服装をすることも禁止されていた。また実は1777年に出されたフランス国王宣言によって彼らは肌の色を理由にフランス本国へ入国することさえ禁じられていた。この植民地の有色人のために立ち上がったのが、パリの「有色市民協会」に集った人々だった。彼らの運動に黒人友の会が賛同した結果、1791年憲法発布前の1791年5月15日には一つの政令が出された。「自由人の母と父をもつ植民地の有色自由人に市民権が与えられる」というものである。ところが、同政令は結局施行されず、マシヤック・クラブをはじめとする白人入植者の圧力により破棄されてしまう。ただし、そのおよそ10ヶ月後の1792年3月28日には、植民地在住の有色自由人の権利が再び法によって認められる。では1791年5月から1792年の3月末までの間に何が起こったのか。それはサン=ドマングでの奴隷の蜂起だった。
1791年8月22日の夜から23日にかけてサン=ドマングの北部において奴隷の一斉蜂起が発生する。蜂起に先立つ8月14日の深夜にはアフリカ由来の精霊信仰とキリスト教が混交したヴードゥー教の儀式がカイマンの森で執り行われた。200名ともいわれる各奴隷集団のリーダーたちが女性神官の周りに集いアフリカの神々の加護を祈り、蜂起の誓いを立てたとされる。この儀式の中心にいたのはジャマイカ🇯🇲出身のブクマンという名の奴隷だったといわれている。8月22日・23日に始まった奴隷蜂起は綿密に計画され組織だっており、僅か数週間の間に200ヶ所あまりの砂糖プランテーション、1200ヶ所以上のコーヒープランテーションに火が放たれ、女性と子どもを含む1000人以上の白人が殺害された。1791年末までに蜂起に参加した男女の奴隷の数は少なくとも5万人、文献によっては15万人と見積もられている。11月にブクマンが殺害されたあとリーダーとなったのはジョルジュ・ビアスーで、彼の補佐役に抜擢されたのが、のちに独立の英雄として名を馳せる解放奴隷のトゥサン・ルヴェルチュールだった。フランスにサン=ドマングの奴隷蜂起の知らせが届いたのは1791年10月、つまり蜂起の2ヶ月後のことだとされている。当初は蜂起の信憑性が疑われていた。それは黒人には蜂起を組織する力などないという偏見ゆえだった。しかしその頃、議会で指導権を握っていたジロンド派のブリソらはまもなく白人入植者を糾弾し、蜂起を鎮圧するためには有色自由人との同盟が不可欠であると主張した。その結果として、植民地の有色自由人の政治的権利が1792年3月28日の政令で認められるわけである。続いてこの政令を適用するために3名の政府代表委員がサン=ドマングへ派遣されることになる。
その3名とは、黒人友の会に近い人物でレジェ=フェリシテ・ソントナクス(1763〜1813)のほか、エティエンヌ・ポルヴレルとジャン=アントワーヌ・エローである。3万丁の銃を備え6000人の兵士を伴った移動であり、彼らの最終目的が奴隷蜂起の鎮圧であることは明らかだった。到着した彼らを待ち受けていたサン=ドマングの状況は混乱を極めていた。ソントナクスらは奴隷の反乱に直面しただけでなく、実は白人入植者たちの激しい抵抗にも遭ったのである。なぜならば白人プランターの多くは特権階級出身の王党派で、革命政府が植民地自治へ介入することに強く反発していたからである。
また、政府代表委員が大西洋上を移動している間に、フランス本国ではブルボン王政を打倒する8月10日事件が起こり、9月22日には共和政が樹立する。そして1793年1月21日にはかつての国王ルイ16世が死刑されている。この知らせに植民地の白人たちは動揺し、共和派との対決姿勢を更に強めていくことになった。
更に、植民地を危機的状況に陥れたのが戦争だった。ヨーロッパにおいてフランスは1793年2月から3月にかけてイギリスおよびスペインとの戦争に相次いで突入したが、このヨーロッパでの戦争が即座に植民地へ波及したのである。イギリスとスペインはそれぞれ莫大な富を生み出す仏領サン=ドマングを奪取しようと英領ジャマイカ🇯🇲あるいはスペイン領サント・ドミンゴなどから侵攻を開始する。これに対するフランス側はといえば、前述のとおり内部での分裂や対立が激しく、王党派の白人の中にはプランテーションと奴隷制の維持のために革命フランスを裏切り、敵国イギリスと密通する者が現れた。他方、蜂起した奴隷の一部はスペインの側に合流したのである。フランス軍も共和派と王党派に分裂し、王党派の将校の中にはサン=ドマングから脱走する者もいた。
ピエール・ジャン・ボケの『燃えさかるカップ・フランセ、1793年6月21日』という絵は1793年6月の状況を捉えたものである。サン=ドマングの北部に位置する中心都市カップ・フランセを海から臨む構図の絵で、激しく燃える町の様子が伝わってくる。この状況に直面して政府代表委員が下した決断が奴隷を解放するということだった。奴隷を味方につけるためにソントナクスは1793年8月29日、サン=ドマングの北部で奴隷制の廃止を宣言する。次いでポルヴレルが9月に西部で、10月に南部で奴隷制の廃止を告げた。つまり奴隷制廃止の直接的なきっかけとなったのは戦争だった。植民地防衛という政治的・経済的理由から奴隷制が廃止されたことになる。9月23日ソントナクスはある程度平穏を取り戻していた北部において、本国の国民公会へ送るサン=ドマング代表を選ぶ選挙を実施し、6名が選出された。そのうち黒人のベレ、混血のミル、白人のデュフェの3名はアメリカ合衆国経由で大西洋を渡りフランスに到着する。
1794年2月4日、国民公会が次のような歴史的な宣言を行うが、サン=ドマングの代表者たちもここに出席していた。「すべての植民地における黒人奴隷制が廃止されることを宣言する。植民地に居住する人はすべて肌の色の区別なしにフランス市民であり、憲法が保障するすべての権利を享受する。」こうして国民公会はサン=ドマングでの決定を追認するのみならずフランス領の全植民地における奴隷制の廃止を宣言した。その後フランス各地の少なくとも37ヶ所で奴隷解放を祝う祭典が開催されたことが分かっている。繰り返しになるが、奴隷制の廃止はサン=ドマングにおける奴隷の主体的な蜂起行動によって、そして革命フランスを取り巻く国際関係の推移により実現されたものだった。つまり人権宣言の理念を具体化したのが奴隷制の廃止だとは言い難いのである。しかしそうだとしても、黒人友の会の人々や奴隷解放を祝う祭典の例が表しているように、差別を乗り越えようという理想や黒人との連帯・友愛に喜びを表現する人々も確かに存在していたことは記憶されてよいだろう。
こちらは黒人初の国会議員となったジャン=バティスト・ベレの肖像である。彼はサン=ドマングの元奴隷でアメリカ独立戦争に従軍した功績によって奴隷身分から解放された人物だとされている。彼がミルとデュフェとともに国民公会の議場へ到着したことは議員たちの間に一大センセーションを巻き起こし、議会を奴隷制廃止決議へと向かわせる一因になった。ベレは国民公会に次いで総裁政府期の五百人議会でも議員を務め、1797年に任期を終える。この絵はその頃に制作されたもので、ベレの向かって右側の背景にはサン=ドマングのカップ・フランセ付近の風景が描かれている。ベレが寄りかかっている彫像は聖職者のギヨーム=トマ・レナル(1713〜1796)である。レナルは奴隷制と植民地主義に反対を表明してきた啓蒙思想家でもあり、1796年に死去している。この絵の構図はレナルへのオマージュなのだろうか。啓蒙思想とフランス革命がベレのような立派な黒人議員を生み出したのだという露骨なフランス礼賛のようにも解釈できる。しかし他方では、生存しているベレの隣に死去した古代風のレナルの銅像を並べることで、ベレがレナルを超えて次の世紀の象徴として君臨しているかのようでもある。実際、1795年11月から1799年11月まで続く総裁政府の時期には本国と植民地の法律レベルでの同等性が一定程度追求された。この点については印刷教材を参照のこと。
このコーナーの最後に奴隷制廃止の実態について説明しておく必要がある。果たして国民公会が決定したとおり奴隷制は廃止されたのか。実は1794年2月4日の政令に基づき実際に奴隷制が廃止されたのはグアドループ🇬🇵と南米のギアナ🇬🇫においてだけだった。確かにそのほかの植民地にも共和国委員が派遣され、国民公会の決定を伝える努力はなされたようである。しかし当時、マルティニーク島🇲🇶はイギリスの占領下にあって阻止をされ、またフランス島とレユニオン島🇷🇪は白人入植者が激しく抵抗したために共和国委員は結局、奴隷に解放を知らせることすらできず本国へ引き返す始末だった。つまりこうして数万人の黒人奴隷が本国から見捨てられてしまったと言えるだろう。
・ナポレオンとハイチの独立
ナポレオンの登場は植民地の制度的位置づけを変えていくことになる。1799年11月9日、ブリュメール18日のクーデタで政権を奪取したナポレオン・ボナパルトは同年12月15日交付の共和歴8年の憲法で再び植民地を特別法のもとに置く。次いで1802年には奴隷制を復活させるのである。まず1802年5月20日の法律によって植民地における奴隷制の再建が決められた。正確にはアミアンの和約でフランス領に戻ったマルティニーク島🇲🇶、更にインド洋のフランス島とレユニオン島🇷🇪において奴隷制は「維持」されると述べられている。これらの島では事実上、奴隷制が一度も廃止されていないという理屈で法文上、「復活」や「再建」ではなく「維持」という言葉が使われているわけである。また、奴隷貿易については「1789年以前の法や規則に従って行われる」と明記され、再開が決定した。ここに植民地をアンシャン・レジームの時代へ回帰させようとするナポレオンの意思が感じられる。この時点ではカリブ海のグアドループ🇬🇵、南米ギアナ🇬🇫、そしてサン=ドマングは対象外だったが、グアドループについては1802年7月に、ギアナについては同年12月に奴隷制の復活が決定している。つまりサン=ドマングだけが別の歴史を辿ることになるのである。
では、サン=ドマングに話を戻そう。こちらに描かれている人物、トゥサン・ルヴェルチュールは1794年5月にフランス軍に加わり、イギリス、スペインとの戦いにおいて軍人としての功績を挙げる。これが評価され、1796年にはサン=ドマングの総督補佐官に抜擢され、1799年にはナポレオンからサン=ドマングの総督兼軍司令官に任命された。
島での実権を握ったトゥサン・ルヴェルチュールは1801年7月、独自に「フランス領植民地 サン=ドマング憲法」を公表する。これは国としての独立を掲げた憲法ではなく、サン=ドマングは「一にして不可分なるフランス共和国の一部をなす植民地」であり、「人はすべて自由かつフランス人として生まれ、生存し、死ぬのである。」と宣言する、むしろフランスへの「同化」を志向する内容だった。しかし同時に、立法・行政・司法の三権を植民地に帰属させるとし、トゥサン・ルヴェルチュールは自らを終身総督と位置付けてもいる。トゥサン・ルヴェルチュールのこの行為にナポレオンは苛立ち、イギリスとの間の一時的和平を利用して1801年12月以降、膨大な数の兵士をサン=ドマングとグアドループへ送った。そして1802年6月にトゥサン・ルヴェルチュールを捕らえることに成功した。しかしその後戦争は長引き、兵士たちは黄熱病の蔓延と食糧不足に苦しむ。イギリス軍との戦争も再開したことに加えて、グアドループ🇬🇵での奴隷制の復活を知った黒人たちの抵抗が1802年10月以降、更に激しくなっていったのである。結局、1803年11月フランスは降伏した。ナポレオン軍の敗北だった。
この写真はジュー要塞というフランスのジュラ山脈にある建築物である。実はトゥサン・ルヴェルチュールが非業の最期を迎えたのがここだった。トゥサン・ルヴェルチュールはフランス軍に捕らえられ、フリゲート艦でフランス西部の港ブレストへ運ばれたのち、秘密裏に海から最も遠いという理由でこのジュー要塞の監獄に収監された。彼は正当な裁判を受けることなく数々の虐待を受け、病気の治療も拒絶されたまま1803年4月7日にこの牢獄で死亡した。
他方、ナポレオン軍についに勝利したサン=ドマングは1804年1月1日にハイチ共和国として独立を宣言した。史上初の黒人共和国の誕生である。ハイチの誕生はフランスのみならず、奴隷制を維持していたアメリカ合衆国やポルトガル領のブラジルなどにも大きな衝撃を与えた。また、イギリスを中心に高まりつつあった奴隷貿易および奴隷制廃止の運動は更に勢いを増し、イギリスでは1807年に奴隷貿易が廃止され、1833年には奴隷制自体の廃止が決まる。フランスで再び奴隷制が廃止されるのは1848年の第二共和政期のことである。それから150年後のことになるが、ユネスコは1998年に、サン=ドマングで黒人奴隷が蜂起した8月23日を「奴隷貿易とその廃止の国際記念日」と定めた。またフランスは2001年にトビラ法を制定し、奴隷制と奴隷貿易を「人道に対する罪」と認めた。
このようにフランス革命・ナポレオン期における植民地支配や奴隷制の過去に注目が集まるようになったのは実は2000年前後と比較的最近のことである。
最後に知っておいてほしいことは現在ハイチ共和国が西半球の最貧国の一つであるということである。黒人初の共和国として独立を勝ち取ったが、その後の道のりは容易ではなかった。諸外国はハイチの独立をすぐには認めず、フランスに至っては1825年に承認するもののその代償として最恵国待遇と1億5000万フランという法外な額の賠償金をハイチに要求したのである。これがハイチの経済を悪化させてしまった一因であることは間違いない。グアドループ🇬🇵とマルティニーク🇲🇶が現在でもフランスの海外県にとどまり、本土からの資金などにより比較的安定した社会生活を送っているのを見ると、植民地の同化と独立を巡る問題はいまだ未解決であると言わざるを得ない。(講義終わり)
【年表】
《ブリッソ・ドゥ・ワルヴィルがパリに「黒人の友の会」を設立 1788.2.19》
①バスティーユ襲撃事件 1789.7.14
②憲法制定国民議会による「人権宣言」(正式には「人の権利と市民の権利の宣言」)の採択 1789.8.26
※人権宣言の採択(1789)から黒人奴隷制廃止宣言(1794)までの4年半の間、フランス人には人権宣言という「人権の正典」、植民地の黒人には「黒人法典」という「奴隷制の正典」というダブルスタンダードを持っていたことになる。
《ブリッソが執筆した1790.1.21付の「国民議会宛パリの黒人の友の会の公開状」が国民議会に提示される。「黒人の友の会」は黒人奴隷貿易の廃止を要求し、有色自由人の法的平等を支持するが、黒人奴隷解放のためのプログラムまでは持たない。植民地の放棄を唱導するのではなく、むしろ植民地の保持を自明の前提とした「改革」を提唱するに過ぎない》
《サン=ドマング出身の有色自由人でパリに在住していたヴァンサン・オジェやジュリアン・レイモンらが1790年1月30日の議会に、有色自由人の法的平等を求める「公開状」を提出》
《武装蜂起の首謀者であるオジェとシャヴァンヌがサン=ドマングで「車裂きの刑」を執行される 1791.2.6》(「オジェ事件」)⇨植民地当局に対する批判が噴出⇨1791年5月、フランス本国議会でようやく有色自由人の法的平等について本格的に論議される。
③国王ルイ16世一家のヴァレンヌ逃亡未遂事件 1791.6.20-21
《「カイマン森の儀式」(ハイチ革命の発端)1791.8.14》
《サン=ドマングで黒人奴隷の一斉蜂起開始 1791.8.22夜》
④フランス革命の最初の憲法である1791年憲法が制定 1791.9.3
《 サン=ドマングにおける黒人奴隷の一斉蜂起の初報が本国の議会(当時は立法国民会議)に届く 1791.10.27》
《黒人奴隷蜂起の首領ブクマン・デュティが捕らえられ処刑される 1791.11.7》
⑤王政の廃止 1792.9.21
⑥ルイ16世の処刑 1793.1.21
《マカヤ事件(黒人による白人の虐殺事件)1793.6》
《ソントナクスがサン=ドマングで奴隷解放を宣言 1793.8.29》
《フランス本国の議会、国民公会が植民地黒人奴隷制の廃止宣言を採択 1794.2.4》=ほかのヨーロッパ諸国に先駆けて奴隷制を廃止=「黒人法典」の破棄を意味する。
※ただし、フランスこそが自由の担い手であり、黒人奴隷はその恩恵に与るのだというフランス本国の「上から目線」のスタンス(解放する者=フランス人(あるいはフランス革命)、解放される者=黒人奴隷という主客の関係)↔️ハイチ人にとって、奴隷解放は恩恵として与えられたものではなく、300年の長きにわたる苦難の末に闘いとったものに他ならない。
《ナポレオン・ボナパルトが黒人奴隷制廃止宣言を反故にして奴隷制を復活させる 1802.5.20》
《トゥサン、逮捕され連行される 1802.6.7》
《トゥサン、フランス南東部のジュラ山脈のジュー要塞にて獄死 1803.4.7》
《ハイチ独立宣言🇭🇹 1804.1.1》=歴史上最初の黒人国家がカリブ海に誕生。西半球でアメリカ合衆国に次ぐ二番目の、そしてラテンアメリカ・カリブ海地域では最初の独立国。