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【放送大学テレビ/視聴メモ】『エセー』の作者モンテーニュと「義理の娘」の契りを結んだマリー・ド・グルネー(1566〜1645)

放送大学テレビ『歴史と人間』第8回「モンテーニュとマリー・ド・グルネー-『エセー』の作者と「義理の娘」-」(担当講師:宮下志朗)を視聴。高等法院の同僚で、サルラで生まれたエチエンヌ・ド・ラ・ボエシとの運命的・決定的な出会い。ラ・ボエシは若くして病死。1565年にはボルドーの有力者の娘フランソワーズと結婚。子供は6人できるが娘一人を除いて夭折。モンテーニュは新大陸から来た3人のネイティブ・アメリカンと通訳を介して会見している。1571年2月28日の誕生日の「隠遁の辞」38歳。1571年と言えば宗教戦争のさなか、日本では織田信長が比叡山焼き討ちをした頃。1580年に『エセー』の初版本を自費出版。隠遁の辞の9年後の翌日の3月1日付けの序文。自覚的なセレモニー。essai 「試みること」。判断力のあれこれの試みの集成が『エセー』。1年半にわたる大旅行、寄り道趣味、行ったり来たりでいいという彷徨宣言、持病の胆石の温泉治療の細かな記録、温泉めぐり・温泉評論家の元祖。旅行を中断して帰郷して市長に就任。市長とモンテーニュ個人は二つに峻別される、と述べ、皮膚とシャツは区別しなければならない、とも。世界は永遠のブランコだ、存在ではなく推移を描く他ない。世界も自分もその思考も揺れ動いている、そうした移り変わりを描く試みでいいじゃないかという画期的な居直り。1592年逝去。手沢本(しゅたくぼん。モンテーニュは死ぬまでエセーに加筆・訂正している、そういうものを手沢本という)、こうした書き込みがあるボルドー本。モンテーニュの死後、この加筆・修正を生かして新しい版をつくる動きが出て来る。それに携わったのがマリー・ド・グルネー嬢Marie de Gournay(1566〜1645)。グルネー嬢は『エセー』を読んで大ファンになって、モンテーニュがパリを訪れた時に実際に会って意気投合してモンテーニュがグルネー嬢の館に長期間滞在することもあった。グルネー嬢はその後作家となり、『男女の平等性』という評論などを始めとして多くの作品を書く。1595年版『エセー』は、グルネー嬢による「序文」が付いている。この1595年版をデカルトもパスカルもルソーも読んで、時に共感し時に反発したりしたのである。


参考文献①:宮下志朗「モンテーニュ『エセー』を読む」第6回 グルネー嬢とノートン嬢


参考文献②:「Marie de Gournay」『フリー百科事典 ウィキペディア フランス語版』

Marie de Gournay

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