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伝説のF1ドライバー、アイルトン・セナ選手

2015年05月13日放送のアナザーストーリーズ・運命の分岐点 『アイルトン・セナ事故死 不屈のレーサー 最期の真実』(NHK・BS)を観た。ブラジルの国民的英雄であり伝説的なレーシング・ドライバー、アイルトン・セナ選手(Ayrton Senna da Silvan,1960年-1994年)の最後のレースとなった1994年サンマリノグランプリでの死亡事故に関する関係者の証言などを取材した番組だ。 セナは1988年、弱冠24歳でF1世界選手権のワールドチャンピオンに輝き、さらに1990年、1991年と、計3度ワールドチャンピオンを獲得した天才レーサーであり、今日までF1を語る上で欠かすことのできない一人である。日本にF1を根付かせた立役者でもある。セナは、勝つためには妥協を許さない不屈の精神力と抜きん出たテクニックを武器に、ぶっちぎりの速さでレースに勝ち続けた。たとえ雨天のレースでも、誰もが慎重になる中、セナだけはアクセルを全開にして猛スピードで戦いに挑み、「レインマスター」との異名を取ったほどである。市街地コースや難関コースでの速さも尋常ではなかった。またコーナリングの際も、「セナ足」と呼ばれた小刻みのアクセルワークで、減速せずにコーナーへ突入してなおコースアウトしない卓越した技術を見せた。まさに「マジック・セナ」であり「音速の貴公子」(日本の古舘伊知郎アナウンサーが実況中継で使用した言葉)であり「史上最速にして最高のF1ドライバー」(イギリスのF1 Racing誌)だった。ところが、1994年5月1日、イタリア中部のイモラ・サーキットで開催されたF1世界選手権の第3戦サンマリノグランプリにおいて、7周目の高速コーナーでセナのマシンがなぜかそのまま直進、時速200キロでコース右脇のコンクリートの壁に激突して、セナは救急搬送されたが、脳の損傷が激しく、34歳で帰らぬ人となった。セナは試合前からチーフ・エンジニアに何度もマシンの不調を訴えていたが、マシンの調整が追いつかないまま試合に臨んだことが事故につながったのではないかと言われている。開催地のイタリアでは、セナの死亡事故の責任を追及するために何度も裁判が起こされ、航空機事故の調査並みの事故の解析と原因究明が続けられたが、事故の原因やセナの直接の死因については結局、解明されないまま結審を迎えた。しかし、これまでに判明している事実から推測すれば、⑴もし94年のルール変更で一斉に禁止されたアクティブ・サスペンションやトラクション・コントロールなどのドライバーの運転を補助するハイテク技術(マシンの挙動が乱れそうになってもコンピューターが自動修正してくれる機構)がセナのマシンに装備されていて、かつ⑵グランプリ直前に緊急改造されたステアリング・シャフト(ハンドル操作を車輪に伝える軸)がしっかりと補強され(この軸が破断してマシンが操縦不能になったことが直接の事故原因であるという説が有力である)、さらに⑶アメリカのインディカー・シリーズのように、ドライバーの周囲を緩衝材を内蔵したプロテクターで覆う安全対策をとっていれば、死亡事故は起こらなかった可能性が高い。セナが亡くなった日、祖国ブラジルのサンパウロのスタジアムでは、セナの死を試合直前に知ったサッカーのブラジル代表チームがグラウンドの上で黙祷を捧げたが、その時、観客たちの間から「ole ole ole ola Senna ole ole ole ola Senna 」という満場一致のコールが自然と湧き起こるシーンが印象的だった。その後、ブラジル政府は国葬の礼をもってあたり、セナはサンパウロのモルンビー墓地に埋葬された。カトリック教徒だったセナの墓碑銘には、新約聖書のローマの信徒への手紙8章39節に因んで、ポルトガル語で「NADA PODE ME SEPARAR DO AMOR DE DEUS(何ものも神の愛から私を引き離すことはできない)」と書かれている。

セナがF1の舞台で活躍したのは、1984年から94年までである。ブラジルは1985年まで軍事独裁政権が約20年続いていたが、80年代から90年代前半にかけての時期は、ハイパーインフレが恒常化し、経済の低迷と格差や不平等の拡大に苦しんだ時期であり、サッカーでも70年のメキシコ大会を最後にワールドカップ優勝から長らく遠ざかっており、国全体として厳しい状況に置かれていた。そんな中で、セナの活躍はブラジル人に喜びや自信を与えたのだった。1994年のF1世界選手権サンマリノグランプリとサッカーW杯アメリカ大会を前にして、セナとブラジル代表の選手団はお互いに4度目の優勝を果たすことを約束し合ったと言う。セナは不幸な事故に見舞われ優勝は叶わなかったが、セナの死の2ヶ月後に開かれたサッカーW杯でブラジルチームは実に24年ぶりに悲願の優勝を果たしたのであった。イタリアとの決勝戦の最後のPK戦を制して、4度目のW杯優勝が決まった瞬間、ブラジル代表の選手たちが、セナに敬意を表して『SENNA...ACELERAMOS JUNTOS, O TETRA E NOSSO!(セナと一緒に加速した。4度目の優勝は僕たちとセナのものだ)』という横断幕を掲げた情景は胸を打つ。セナは今でも多くのブラジル人に慕われ、語り継がれるヒーローであり続けている。 2010年のイギリス製作のドキュメンタリー映画『アイルトン・セナ~音速の彼方へ』もいずれ観てみたい。


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