渋川・金井東裏遺跡 ヨロイの古墳人が語る古代群馬 榛名山の大噴火
世界ふしぎ発見!「日本のポンペイ!?ヨロイの古墳人が語る古代群馬の謎」(2020年8月1日21時放送)を視聴した。
こんにゃく生産量日本一の群馬県。群馬県といえば富岡製糸場、草津温泉。
❶2012年、群馬県渋川市で火砕流の下から出てきた古墳時代の人骨。うつ伏せの姿勢で見つかったその男は鎧をまとっていた。人骨が鎧を着たまま発見されたのは国内初。「渋川・金井東裏遺跡で出土、6世紀初頭 榛名噴火被災の首長か 国内初 鎧着た人骨」(上毛新聞、2012年12月11日火曜日)。男が生きた6世紀は全国に王や豪族を埋葬する巨大古墳が次々に作られた時代。1500年前、群馬で何が起きたのか。火山が生んだ極上温泉、渋川市の伊香保温泉。「黄金の湯」と呼ばれる鉄分を含んだ茶褐色のお湯が特徴。その色をイメージして作ったのが温泉まんじゅう。戦国時代には武田軍の湯治場としても利用されていた。この温泉を生み出したのが古来山岳信仰が残る榛名(はるな)山(さん)である。今からおよそ1500年前、水蒸気爆発で始まった噴火により、時速100kmを超える火砕流が発生、村や人々を次々と呑み込んでいった。群馬県埋蔵文化財センターにヨロイの古墳人が保管されている。今回の案内役は群馬県高崎市出身の考古学者、若狭徹(明治大学准教授)、温泉巡りが趣味という。原寸大のレプリカ。鉄の鎧。ひざまずきうつ伏せの状態で火砕流に呑み込まれた。総重量14kgにもなるこの鎧は小札(こざね)鎧と呼ばれ1800枚もの鉄の板を組紐でつなぎ合わせて作られている。日本の土壌は酸性のため骨や鎧が残ることはほとんどない。しかしここでは火山の噴出物が2メートル以上堆積し水の侵入を防いだため奇跡的に遺物が守られた。ちょうどこの頃に導入された最新式の鎧で、特に選ばれた豪族に与えられる最上級の鎧と考えられている。鎧の装備からするとトップクラスの豪族であり、火山災害で亡くなっていなければ恐らくは大きな前方後円墳に埋葬されたようなランクの人だと考えていい。出土した人骨の状態から男の年齢は40代、身長164㎝のガッチリとした体型であることが分かっている。榛名山から8km離れた場所にある金井東裏遺跡。ここからは大量の土器と共に、男が所有していたと思われる金属製の兜や鉾も見つかっている。ヨロイの男の他に、3人の人骨が見つかっている。この遺跡からは半径20mの範囲に4体の人骨が出土している。「ヨロイの古墳人」、30代と推定される女性(身長143㎝、石やガラスで出来たネックレスを身に付けていたことから「首飾りの古墳人」と名付けられた。)、5歳の乳児、乳児。高崎市にある保渡田八幡塚(ほどたはちまんづか)古墳(全長96メートルの前方後円墳)。王が埋葬された場所が後円部の下にある。舟であの世へ渡るという死生観から作られた舟形石棺。直径3メートルもの巨大な凝灰岩は10キロ離れた丘陵で切り出された。この前方後円墳にこそ古代群馬を知る手がかりがある。前方後円墳というのはヤマト王権に承認されて作ったと考えられているので、ヤマトとの繋がりを示すシンボルでもある。ヤマト王権とは古墳時代、近畿地方を中心に誕生した政治組織。その強力な権力をもとに全国に支配領域を広げる過程で王権と盟約した者だけに前方後円墳を作らせた。古代群馬には前方後円墳が密集している。東日本最大の古墳、太田天神山古墳(全長210メートル、5世紀前半〜中期)を筆頭に、綿貫観音山古墳(全長97メートル、6世紀前半)など巨大な前方後円墳がいくつも存在する。そのぐらいヤマト政権に重要視された地域だった。いわばここは東のヤマトであると言っても過言ではない。七つの鈴のついた七鈴鏡(しちれいきょう)と呼ばれる鏡、鈴の音は神を引き寄せる神聖なもので古墳時代の副葬品として多数出土している。実はかつて群馬は古墳大国だった。埼玉の県北の群馬寄りのところも古墳が多い。
❷人骨考古学が専門の舟橋京子さん(九州大学准教授、熊本県長洲町出身、3児の母)が所属する九州大学の研究チームは出土した4人の骨を分析。様々な事実が判明。首飾りをしていた女性の頭骨は、古くから日本列島に住んでいる人達の顔立ちをよく表している。それに対して、鎧を着ていた男性の顔立ちは朝鮮半島から来た渡来人に非常によく似た特徴を持っている。ヨロイの古墳人は朝鮮半島をルーツに持つ可能性がある。さらに歯を分析した結果、この二人は群馬の金井東裏遺跡から出土しているが、どうやらこの遺跡の周辺で生まれ育ったわけではないということが分かっている。人間の歯には育った場所の地下水に含まれるストロンチウムと呼ばれる元素が残されている。つまりこの値を比較することで幼少期に育った場所を特定できる。考古学的な様々な研究成果を踏まえて考えると、長野県の伊那谷(いなだに)周辺の可能性が高い。長野県南部に位置する伊那谷は天竜川に沿って南北に延びる盆地。長野県飯田市にある塚原二子塚古墳(全長73メートルの前方後円墳)、飯沼天神塚古墳(全長74.5メートル)、御射山獅子塚古墳(全長58メートル)、馬背塚古墳(全長46.4メートル)など、この伊那谷には23基もの前方後円墳が密集している。上郷の宮垣外遺跡から発見された馬の骨。周辺には古墳があり、その古墳の埋葬者が亡くなった際にこの馬を殉殺という行為を行って、人が亡くなったことに対して言ってみれば「生け贄」みたいな形で葬られたと考えられる。伊那谷では古墳時代に埋葬された馬の骨が馬具とともに28例も見つかっている。かつてヤマト王権の命を受け、ここで大規模な馬の生産が行われていた。当時の馬は今風に言うと乗用車でありトラックであり戦車であり万能の物だった。この馬をどのくらい持つかによってその人の権力の大きさが決まった。当然、馬をたくさん供給することにより、当時のヤマト王権の中枢から認められるという状況になって、結果として多くの古墳づくりが、特に前方後円墳を作ることを許される地域になった。長野県の木曽郡では今も馬の生産が行われている。木曽山脈の麓で古くから生産されてきた在来馬「木曽馬(きそうま)」、平均体高133㎝の中型の馬で、かつては木材の運搬など労働力として重宝されていた。木曽馬の里、中川剛さん。馬が変えた古代日本史。古墳時代より前は日本に馬はいなかったと言われている。大陸系の馬を朝鮮半島を経て日本へ持ってきたと言われている。ではなぜ古墳時代に大陸から馬がやってきたのか?その頃、朝鮮半島は高句麗、百済、新羅を中心とした動乱の時代を迎えていた。4世紀後半、ヤマト王権は百済と同盟関係を結び、高句麗と戦うため半島へ出兵。そこで目にしたのは馬の圧倒的な攻撃力と移動手段としての有用性だった。これはカルチャーショックを受けたと思われる。映画『安市城 グレート・バトル』も参照。高句麗の騎馬軍団にコテンパンにやられたと思うので、これからは東アジアで渡り合うためには馬が必要だということで国産化を進めていく。ちょうどその頃から日本で馬に関する遺物が出土し始めるので、馬の生産がスタートしたと考えられる。ヤマト王権が持ち込んだのは馬だけではなく、馬の飼育や調教を担う職人集団を丸ごと連れてきた。舟橋准教授によれば、ヨロイの男の大腿骨の分析結果から、彼が日常的に馬に乗っていたことが明らかになっている。これらを踏まえ、若狭准教授はヨロイの古墳人の正体をこう推測する。彼は朝鮮半島からやってきた渡来人の二世か三世。西の地で生まれて地元・長野の女性と知り合って、集団とともに群馬に馬を生産するためにやってきた。ヨロイの古墳人たちによって始まった馬の生産は奈良時代に入るとさらに発展を遂げた。その頃「上毛野(かみつけの)」と呼ばれていたこの地に新しい名前がついた。「馬が群れる場所」、そう、「群馬」である。
古墳時代、渡来人達は馬の他にも鉄や絹織物、須恵器など様々なものを日本にもたらした。中でも人々の暮らしを変えたのがかまど。これにより強い火力が使えるようになり、食生活に大きな変化をもたらした。茨城県かすみがうら市にある「かすみキッチン」で古墳時代の食事を再現したものを試食、鹿肉のハンバーグに、かまどで蒸した黒米(古代米)、蘇(そ)という牛乳を煮詰めた古代のチーズ(5世紀になると馬や牛が大陸からもたらされて渡来人によってこういう食べ方も教えられたと考えられている)、レンコンのはちみつ漬け(養蜂も大陸から伝わった)。渡来人によって日本に持ち込まれたもの、埼玉県日高市にある渡来人を祭ったお寺、「高麗山 聖天院(しょうでんいん)」。境内には大陸の文化を感じる特徴的な建物が残されている。渡来人によって馬と一緒に持ち込まれた動物は羊。大陸では古代から縁起物として重宝された羊。そのため、「善」「義」「養」「祥」など「羊」が入る感じがよい意味を持つことが多い。「美」は「よく肥えた美味しい羊」という意味。
❸大噴火を起こし、ヨロイの古墳人を呑み込んだ榛名山。降りかかる大量の火山灰。それは数日にわたって続き、村を徐々に呑み込んでいった。金井東裏遺跡からは、避難したと思われる大勢の村人達の足跡が見つかっている。逃げる時間があったにもかかわらず、なぜ4人はこの場所にとどまったのか?甲(ヨロイ)を着た古墳人は山のほうに頭を向けて倒れ伏していた。古代に『風土記(ふどき)』という文献があって、その中には「祟り神に対して、地域の長が、鎧を着、鉾を構えて、邪悪な神を追い払い戦う」という記事がある。「村人に害をなす祟り神は、祀ってもだめならば、武力をもって戦う」というのが古代の王の使命。村人を守るため、武装して邪悪な神に立ち向かったヨロイの男。しかし山の神は容赦しなかった。程なく巨大な火砕流が発生、時速100キロを越す高温の塊が目の前に迫る中、男は最後まで山に背を向けることはなかった。ヨロイの男が腰からぶら下げていた石には或る実用的な使い道があった。これは提砥(さげと)と呼ばれ、腰からぶら下げて持ち歩く携帯用の砥石。小型のナイフとセットで持ち歩くのが渡来人の習慣だったという。