止まった時計
実家に、10時10分台で止まった壁時計がある。
もう10年ほど電池を替えていない。
この時計がいつ止まったかはもう覚えていないし、きっと単に電池切れで止まっただけだろう。原爆や震災のような、とてつもなく大きな外圧があって止まったわけではない。
でもなぜか、いつまでも10時15分に進めない時計を見るたび、ここで何かが同時に止まってしまったのではないかという気がしてくる。
止まるきっかけが些細なものであったとしても、止まるときは止まる。あるいは、気づかないだけできっかけに何か意味があったのかもしれない。
「時計は電池の寿命で止まる」――これに異を唱える人はおそらくいない。そして世界に流れる時間は間違っても電池の寿命で止まらない。でも「時間」が単一のものでないとしたら? 時計は何を示しているのだろう。
時計を支える電池は、いつなくなるのかよくわからない。私は電池の寿命を数えてみたためしがない。数えるまでもなく、個体差があって当然だ。ここに電池にとっての「時間」も潜んでいる。他にまぎれこんだりしていないだろうか。
時計。こんな、厳格な顔をしながらその実ふわふわした装置が、ある日どこかで針を止める。たぶん意味はないだろう。ないだろうと思いつつ、今日も10時15分にならない世界に閉じ込められてしまった「何か」をぼんやりと記憶の中から探している。
心なしか、少し長針が動いている気がする。
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