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思い出11 楽しい大学生活の始まり。大学での思い出1

三重大学は、三重県にある唯一の国立大学であり、近鉄江戸橋駅から徒歩10~15分の場所に位置しており、伊勢湾に面しています。
当時、駅に近い方から医学部、教育学部、農学部、水産学部、工学部の5つの学部が設置されていました。
ちなみに、医学部は三重大付属病院に隣接しており、キャンパスや建屋も別格でエレベータ付きで立派でした。
入学時の身体検査で、身長165cmで体重が110kgもあったので、三重大付属病院で検査するように言われてしまいました。
一日中の尿を、時間帯毎に溜めて、大学病院に提出する検査でした。結果としては、お相撲さんと同じ食事を摂っていると言う事でした。要は、炭水化物、油脂、糖分などの太る要因物を一般の人より多量に摂取していると言う事でした。
考えてみれば、みそ汁には、大体牛肉が入っており、昼は揚げ物中心の弁当で、学校帰りには、ラーメンやスパゲティなどを食べ、夜はレストランなどから、好きな肉類を出前を取って食べる贅沢三昧でした。商売を行っていたので、一人での外食が圧倒的に多かったです。部活もしておらず、勉強も適当だったので、肥満児になったと思います。
大学に入ると、友達と遊びに行ったり、昼は学食で済ませることが多く、ダイエットはしていませんでしたが、卒業時には80kg台になっていました。
それでも、かなり肥満でしたが、普通の洋服が着られるようになっていました。
高校の制服や大学でのスーツなどは、市販品では合わず、オーダー品が多かったです。特にズボンの股ズレは酷く、高校時代はすぐに駄目になりました。
当時、ウエストが100cm以上あり、ジーパンやスラックスなども裾上げが必要でした。上着もバストが100cm以上あるため、袖が長くなり、セミオーダー品が多かったです。ただし、太っていたので一年中半袖で十分でした。
また、お相撲さんの体に見られる肉割れがあちこちに見られていました。
現在では体重は65kgになり、同窓会などでは見違えるようになり、痩せた話題から会話が始まることがよくあります。
当時の三重大学工学部には、機械工学科、電気工学科、工業化学科、機械材料工学科があり、それぞれの学科ごとに建物がありました。私が所属していた工業化学科の建物は海岸線に面しており、海風を直接受けていたため、窓は塩だらけになっていました。
エレベーターの必要がない4階建ての建物でした。そして、4年生になると各階ごとの研究室が振り分けられ、卒業論文の作成が始まります。

工業化学科は、化学物質を効率的に合成したり、環境や製品に含まれる化学物質量を把握したりする、一般的には理解しにくい学科です。
例えば、ポリ袋の原料であるポリマーを工業的に安価に合成したり、ポリ袋の硬度や臭い、浸透性などを改善する研究や、環境中での分解プロセスや生体系への影響を調査するなど、目立たないが重要な役割を果たす分野です。
現在では、この学科は「分子素材工学科」というカッコ良い名前に変わっています。
当時は、工業化学科の定員は40名で、すべて男性でした。年間の授業料は3万6千円で、私立大学との授業料格差が問題視されていました。翌年からは資源化学科が増え、初めて女性が2名入学しましたが、特に交流はありませんでした。
1~2年生の間は一般教養に重点が置かれますが、入学試験や勉強から解放されることで、遊びに夢中になり、全く勉強しませんでした。その結果、就職試験では惨憺たる結果になり、苦労しました。
3年生からは実験や専門授業に移り、4年生ではさらに4つの研究室に分かれて、専門分野で卒論を作成します。
現在では、優良企業に入るためには一般教養の評価が重視されますが、当時は専門分野に進むためだけで、不可がなければ進級できると考えていました。
成績に関しては、優が2つで、良と可が半々という芳しくない状態でした。
高校とは異なり、絶対評価が採用されており、優秀ならば全員が優、逆に不十分な場合は全員が不可と評価されます。
ちなみに、物理化学では全員が不可と評価されてしまいましたが、追試験で可に変更され、3年生への進級が可能となりました。
3年からの専門科目では、主に実験や報告書の作成が中心となるので、成績は優か不可のどちらかになります。
4年の卒論では、実験がうまく進まない場合は、実験の試行錯誤が必要となり、その結果、報告書の作成には徹夜作業になることもありました。
大学入学を機に、私は初めて家庭教師のバイトを始めました。
当時は河合塾などの予備校は存在していましたが、家庭教師派遣会社はまだなく、人々の口コミやつながりを通じて家庭教師の仕事を得ることが一般的でした。
時給はおおよそ2000円程度で、週1回2時間の場合は月2万円、週2回で1~1.5時間ずつの場合は月3万円程度が一般的でした。
私は、小学校3年生の塾講師、農業高校の男子の家庭教師、中学校女子の家庭教師の3つのバイトを掛け持ちしました。
しかし、基本的に勉強が苦手であったため、無理に勉強をさせる必要はないと考えていたため、この仕事は私には向いていなかったかもしれません。
塾では、8人の子供たちがいましたが、勉強よりも楽しい遊びに夢中になることが多く、そのためにクレームが親から入り、わずか2カ月で解雇されました。

その後、医者の一人息子の家庭教師の話も舞い込みましたが、彼は高校2年生で、後1年半で医学部に入学する必要がありました。
私には無理だと思い、以前にお世話になった家庭教師に相談しました。彼はすでに教育学部の大学院に進学しており、彼から別の人を紹介してもらいました。
2年後、裏口かもしれませんが、無事に医学部に入学でき。良い先生を紹介してもらったと感謝されました。
同窓会で四日市を訪れた際に、その医院が健在であることを確認し、彼が無事に医者になったことを確信しました。

中学生時代は、集中力に欠けるおませな女の子でしたが、なんとか成績は維持できていました。
そこが時計屋を営んでおり、私は高校時代にスイスで購入したオーデマ・ピゲの修理を依頼しました。
スイス職人の手作り品であるため、日本では修理部品が手に入らず、スイスからの取り寄せ修理となり、約2万円かかりました。特別価格だったと思いますが、それでも高額でした。
その後、リューズが壊れた際には、埼玉の近くの時計屋に見積もりを依頼しましたが、10万円近い見積もりを聞き、修理を諦めました。
また、私は、3年生の専門授業が始まり、大学での忙しさが増し、留年していた高校からの友人のC君にお願いしました。
C君が、きちんと指導してくれて、成績が大幅に向上し、志望校に進学できたということで、感謝されました。
要するに、私は家庭教師に向いていなかったと思います。
親御さんが大学進学を希望されていた農業高校の男子に対して、最後まで責任を持って指導しました。
農業高校の特性から、専門教科が多く一般教科が少ないため、受験の必要のない推薦入学を目指しました。
中間試験や期末試験の前には、毎日のように学習させて、教科書を熟知するほど、徹底的にサポートしました。
結果として、専門教科以外の主要科目では、全て最高評価の10を取ることができました。
そのため、推薦枠に入り大学に進学させる事ができました。凄く親御さんに喜ばれて、7万円の特別ボーナスを頂いたのを覚えています。と言うか実際には、12月に推薦が決まったので、残り2か月分の月謝を頂いて終了したと言う事だと思います。
彼にはお兄さんがいて、クリーニング店を継ぐようで、大学に進学させて会社員にさせたかったのだと思います。大学1年の初めは、まだ車がなかったので、行きはバスと徒歩で通っていましたが、帰りは、その兄さんがよく送ってくれました。そのお兄さんは、国際ライセンスを持っており、ラリーやカーレースを行っているとのことで、クラッチ付きの軽自動車なのに、ギアの切り替えをまったく感じないスムーズな加速、乗り心地の良いふわっとしたブレーキングと、未だにあの異質な乗り心地の感覚を覚えています。やっぱりプロドライバーは違うなと思いました。
三重大学は地方に位置する大学であり、遠方から来ている人は少なかったですが、通学が1時間以上かかる場合には、近くに下宿する人が多かったです。
私のように、家から車で通学する人は、珍しかったです。
年間授業料が、3万5千円で、教養課程用の本代を全部合わせても数万円程度でした。
一般教養課程では、各担当教官の著書を無理やり買わされる事が多いですですが、先輩の古本を安値で購入したり、試験に必要な部分だけをコピーして使ったりして、年間で数万円のコピー代と本代でした。
下宿費は月に2万円程度で、その他の生活費を考えても月に5万円あれば生活できたと思います。
三重大学には教育学部・教養課程の校舎に隣接した大きなメインの第1学食があり、それに比べると小規模な第2食堂が工学部の近くにありました。さらに、水産学部に隣接して、木造建ての第3食堂がありました。
その他にも、総務棟の2階に、特別な来客があった際に利用する洒落たレストランがありましたが、その名前は忘れてしまいました。
第1学食ではカレーライスが極端に安く、70円で提供され、麺類は100円でした。
朝昼夕とこのカレーライスを食べている金欠の学生もいました。
ランチは150円であり、高めの定食でも200円でした。
当然ながら、お昼時には第1学食や第2学食が混雑し、学生たちが列を作っていました。

第3学食はメニューが定食しかなかったため、比較的穴場で列に並ばずに食事をすることができるので、第3学食を利用していました。
3年生以降は授業が少なく、時間が自由になるため、豊富なメニューと安い料金が特徴の第1学食を利用するようになります。
レストランは利用したことがありませんでしたが、大学の正面にある国道23号線の向かい側にはうなぎ屋がありました。時々、特別な来客があると、うな丼を買ってくるように指示され、お裾分けでうな丼を頂いたことが数回ありました。ご飯の間にも鰻が入っているうな丼でしたが、それほど高級ではなく、約千円ほどだったと思います。
当時は、校内に車を乗り入れることが可能で、自動車部があり、砂利のコースでラリー風の活動が行われていました。
車で通学する学生はほんの一握りでしたが、我が物顔で校内を走行していました。
大学の周辺には多くの下宿があり、自転車通学が一般的でした。自転車と軽くぶつかったこともありましたが、車が優先されていました。
麻雀やパチンコが全盛期であった当時、大学前の国道23号線の反対側にあるパチンコ屋には、時間が空いた際にはよく遊びに行きました。その頃は電動式に変わりつつあり、短時間でも楽しめるようになっていました。
1時間以上の時間が空いた際には、雀荘にも足を運んでいました。
大学の周辺には多くの雀荘があり、麻雀を楽しむことができました。当時は喫煙者が多く、吸わない人に、文句を言う権利は無い良き時代でした。
パチンコ屋や雀荘も煙で満ち溢れていました。ちなみに、教室でも灰皿のある場所では喫煙が許可されていました。
現在では電子タバコを使用していますが、当時の煙のモクモクさや体に染みついたタバコの臭が懐かしく感じます。
授業をサボって、朝から雀荘に行ったり、下宿先や実家などで徹夜麻雀をしたりしました。麻雀は4人で行われ、点棒が25,000点ずつ配られ、3万点原点で計算されます。東場と南場で親が2回回ってくる半荘(ハンチャン)で、約30分で終了します。
トップが3万点以上行かないと、西入りします。
終了時の点棒と原点3万点の差額が、トップに入ることになります。
例えば、終了時点で、トップが32,000、2位が25,000、3位が23,000、4位が20,000だとすると、3万点の原点から差額を1,000で割った数値が点数になります。
2位が-5、3位が-7、4位が-10となり、トップは22点となります。さらに、順位に応じてウマを付けるのが一般的です。始める前に決めますが、10-20ウマが一般的だと思います。
さらに、順位に応じてウマを付けるのが一般的です。始める前に決めますが、10-20ウマが多かったと思います。
10-20ウマの場合、トップに+20、2位に+10、3位に-10、4位に-20が加算されることになります。
したがって、先ほどの合計点は、トップが42点、2位が5点、3位が-17点、4位が-30点となります。
賭け事は違法ですので、空想としてですが、大学の時はテンゴで、1点50円のレートでしたので、トップは2,100円、2位は250円、3位は-850円、4位は-1,500円となります。数千円前後ですので、大学生にとって健全な遊びだったと思います。
会社員になると、テンピンのレートで、1点100円のレートになりますが、1万円前後で健全です。
雀荘などでピンピン誘われることもありますが、十万円単位になり893が関与する可能性もあるので、辞めた方が良いです。
刺激が欲しい場合には、インフレルールを用います。
テンゴで行わないと怖いです。
箱点で終了: 誰かが箱点(持ち点ゼロ)になった時点で終了する。
焼き鳥ルール: 終了時にアガリがない場合、全員が10点ずつ罰金を支払う。
割れ目のドボン: 配牌し始めた場所(割れ目)から和了したり、振り込んだ場合には、その得点が2倍になる。
赤牌利用: ドラとして扱われ、役が1つ上がる。
以上のようなインフレルールがあります。
点数が極端に上がるため、ハコテンになり途中で終了することが多くなります。そのため、差が大きくなり、あっという間に100点(テンゴで5,000円相当)ほどのやりとりが生じます。
大学の近くに下宿している友人の家や、近隣から通っている友人の家などで、徹夜マージャンをよく行いました。
徹夜マージャンは、5人で行い、半荘ごとに2位の人が変わることが多かったです。皆を車で拾いながら、途中で買い物をして、友達の家に夜集まり、スタートするパターンがよくありました。
夕食前だと、その家に迷惑をかけることになるので、8時頃に到着するように、近隣の観光地などで時間をつぶすことが多かったと思います。夜8時ごろから始めると、翌朝の朝5時頃には、タバコがなくなってきて、一度吸い終わって消したタバコなどを再度火をつけて吸っていたのが懐かしいです。コンビニがない時代で、近所のタバコ屋が開く9時ごろまで、シケモクで我慢するしかありませんでした。タバコを買いに行くついでに、朝食を摂ることが多かったです。2人抜けの人が買い出しに行くこともありました。
そして、その日の昼過ぎごろに終了して清算するという感じです。多くても1万円程度の負けで、楽しく遊べました。
麻雀は大声を発することもなく淡々と進みますが、牌を混ぜる音は結構響くため、徹夜マージャンができる家は限られていました。
結局のところ、家が広く近所迷惑にもならないため、私の家で行うことが多かったと思います。
また、親が家にほとんど居ないため、出前を取ることが多く、その出前目的もあったかもしれません。3年生後期で専門授業が始まるまでは、月に1回はどこかで徹夜マージャンをしていたと思います。

名古屋のM君の家で、徹夜マージャンをした際には、駐車違反で罰金を取られることもありました。
駐禁場所ではなかったのですが、夜間8時間以上車を停めたため、駐車違反とみなされてしまいました。
ミラーに目立つ黄色のチェーンである駐車違反ステッカーが貼られました。
警察署に行って罰金を処理し、ステッカーを外してもらうのですが、ナビや携帯電話がない時代で、地図を頼りに警察署を探しに行くのが一番大変でした。
一番驚いたのは、12月30日から伊勢のS君の家での徹夜マージャンの時でした。
伊勢神宮に歩いて行けるほど近い場所で、12月30日に無料駐車場に車を停め、その夜はS君の家ですき焼きをご馳走になり、徹夜マージャンを楽しみました。
四日市から伊勢までは車で約1時間ほどで、それほど遠くないのに、食文化がまったく異なることを知りました。
関東のように、肉を割り下で煮込むのではなく、肉に砂糖、醤油、お酒をかけて焼いてから、野菜や焼き豆腐などを加えていくのが関西風です。
野菜として、四日市では、青くて太いネギを入れるのですが、伊勢では、ネギの代わりに白菜を入れることを初めて知りました。白菜はネギより甘味があり、それなりに美味しかったですが、やはりガツンと来るネギの方が好きでした。
お世話になり、誰が勝ったかは覚えていませんが、徹夜マージャンも楽しく終了し、31日の昼過ぎに駐車場に行くと、進路表示板があちこちに立っており、様変わりしていました。
その場所は、初詣参拝客用の駐車場に変わっており、観光バスも止められ、できるだけ多くの車が停められるように、配置が変更されていました。
徐々に車が入ってきましたが、私の車は停めた場所にはなく、数十メートル離れた新しい配置の一番奥に置かれていました。サイドブレーキは引かれていたので、皆で運んだのだと思います。
車が満車になった後では探せなかったと思いますが、初詣には興味がなく、そのまま皆を送り届けながら、家路に着きました。
色々な意味で楽しい大学生活の始まりでした。

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