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生まれてから、就職するまで23年暮らした実家の変遷

小学校に上がる頃までは、四日市市役所の傍で祖母が旅館を営んでいました。
実家は、2棟建てになっており、道路側に平屋の木造建屋、奥側に2階建ての木造建屋がありました。その2棟は、内庭を挟んで、渡り廊下で繋がっていました。
敷地は100坪でしたが、敷地いっぱいに家が建てられており、2棟の間は、庭になっており、端には、大きな物干し場がありました。
その物干し場は、ジャングルジムのように、鉄パイプと鉄板で作られた2階ぐらいの高さがある大きな物でした。たぶん、今では建築法違反になると思います。
基本的に道路側の平屋が、家族が住む居住空間で、奥の2階建て建屋がお客様用になります。旅館と言っても、食事は出さない素泊まりの宿です。
奥の棟一階にある共用の休憩所に、お茶やお菓子などを用意しただけでした。
お風呂は、道路側の居住空間にあり、薪で、親父が沸かしていました。
大人が2人くらいは、余裕で入れるタイル張りの湯船および洗い場でした。
シャワーなどは無く、すべて、湯船のお湯を使う昔のお風呂です。椅子も風呂桶もすべて、木製で重かった記憶があります。
素泊まりなので、作業着を着たガテン系の労働者が多く、風呂で疲れを取って、外で飲食をして、夜遅く帰ってきて、朝早く仕事に向かったと思います。道路側の平屋にあるお風呂は共用で、私らは右側から入るので、だれか入っているか確認してから中に入りました。基本的にはお客様優先でした。
お風呂は、夕方と夜中に入るお客が多かったようで、お風呂場で出くわす事もほとんどなかったです。
数日間の滞在が多かったようで、洗濯も行っていたようで、そのための大きな物干し場だったと思います。作業衣など種々の物が干されていた事を覚えています。
旅館の玄関や2階奥の洋間への階段など、連れ込み宿のような雰囲気満載でした。ただ、物心付いた時には、女性の声を聞いたことが無かったです。
旅館名の下に満室のネオンが設置されていましたが、点灯した記憶はありません。当時、ホテルや旅館はありましたが、今のような格安なビジネスホテルなどは無かったので、常に2、3人は泊まっていたと思います。
当時、自転車で10分くらい離れたところに、お城の形が目印の四日市ヘルスセンターがありました。大浴場、食事できる演芸場、室内遊技場などが設置されており、子供から大人まで楽しめる四日市市民の憩いの場でした。
そこで演芸を行う芸人さんが、良く泊まりにきた事を覚えています。
近鉄四日市駅とJR四日市駅の真ん中で、両駅に10分以内で歩いて行けるので、便利な場所にあり、安かったからだと思います。
人間ポンプ芸人とスネーク芸人は鮮明に覚えています。
人間ポンプは、色んな物を飲み込んで、それを出すと言う芸です。後に、テレビでも観たことがありますが、白黒テレビだったので、気持ち悪さは、有りませんでした。実際、目の前で見ると、すごくグロテスクでした。
数種のコインを飲んで、コインの種類毎に出して来たり、数個の飴玉を飲み込んで、色を分けて出して来たりする芸は、まだ楽しめました。しかし、金魚を飲み込んで、それを出して、泳がす技では、よだれが金魚鉢に漂い本当に気持ち悪かったのを、今でも覚えています。
なぜ、目の前で芸を行ったか覚えていませんが、数人の観客が居ました。
また、出前を取って、飲食を部屋で行いたいなど、結構わがままを言って、祖母を困らせていたと記憶しています。
今と違って、人より秀でている技を持っており、傲慢な態度も芸の内と言う自負があったと思います。
また、ターバンを巻いて笛を吹いて、レッドスネークカモンと言って、色の異なるスネークを呼び出す スネークショー芸人も覚えています。3個壺が並んでいる手前の台の中には、相方が入っており、赤、黄、緑のスネーク手袋をして、蛇に見立てて壺から出してくると言うパフォーマンスです。
話芸と振る舞いが面白く、楽しめました。
最後は、3匹を同時に呼び出して、相方が出てくると言う落ちだったと思います。
その相方のお姉さんが優しかったです。実際に使う手袋を見せてくれたり、ターバンを被せてくれたりして、お菓子をくれたりした記憶があります。ヘビの形の手袋は、厚手の布できており、すごく大きかったと記憶しています。すごく雑な作りで、ゴワゴワしていて、私には、うまく動かせずにヘビには観えない代物でした。しかし、お姉さんが動かすと、本当に生きたヘビのように観えてびっくりした記憶があります。
そのような感じで、芸人さんが泊まりきていた事も結構ありました。

私が2歳の時に、伊勢湾台風が直撃し、四日市市は水浸しになりました。道路側の1階建ての建屋は、土間は冠水し、床下まで水が来たと聞いています。奥の2階建ての建屋は、土地が少し高かったようで、水にはまったく浸からなかったようです。
道路側の平屋は、その床下浸水の影響で土台が弱くなり、私が小学校に上がる前に、建屋を壊し、旅館は廃業しています。
道路側は、一階建ての離れと、プレハブ倉庫と駐車場になります。
離れは道路側に玄関があり、風呂は無かったですが、8畳2間の和室と台所、トイレが完備されており、一軒家として使えました。
親父の2番目の弟夫婦が、2年ぐらいその離れに住んでいました。子供ができた時に、自分の家を建てて引っ越しました。
その後、この離れが、中学校に上がるまで私の部屋になりました。
当然、台所は使わないので物置になり、和室の一つにベッドを置き、もう一つの部屋は、遊び場と言う贅沢な自分部屋でした。
一軒家ですので、気兼ねなく入れるので、男女問わず同級生が行き来していました。
リカちゃんハウス、ダッコちゃん人形、レーシングコース、プラレール、人生ゲーム、野球盤などの各種ゲームなどもあり、奥の棟の1階の大広間には、節句時には、段飾り人形などがお客に見せるために、十数台飾ってもあり、それらを目当てにして、行き来していたと思います。
また、おやつのあられも人気でした。
小学校時代のわいわいとした子供部屋での遊びは楽しかったです。
一方、2階建て建屋の1階の左側に都市ガス式の台所と居間とお風呂が新設され、左の大広間は、節句人形を飾る陳列場になっていました。店の方にも、数セットの人形は飾られていましたが、歩いて5分くらいの距離でしたので、もっと見たいお客様用に、大広間に陳列されていました。
また、庭には、鯉のぼりの竿が、3本建ててあり、大きさなどが異なる鯉のぼりが飾ってありました。
両親は、2階の左側の和室で別々に、祖母は右側の和室に、私は、離れに住む前は、右奥の洋室に居ました。2部屋の洋室の壁が外されて、一つの洋室にリフォームされていました。
祖母は、私が中学校に上がる頃には、娘さんと暮らすために、車で20分くらいの郊外に引っ越しました。親父の一番下の妹になりますが、精神的な病になり、離婚して戻ってきました。私と同じ年の娘さんが居ましたが、夫が引き取っています。病院に、入退院および通院するために、病院の傍に家を建て、祖母と暮らすようになります。
一方、私の方は、中学校時代から、大学まで、ずっと2階の奥の洋室を使うことになります。
ただ、弁当が必要となった中学校時代は、前話で話した叔父さんが経営する鉄工所の寮に、一時期お世話になっていました。
朝、実家を出て、そのまま寮に行き、朝飯を食べて、作ってもらった弁当を持って学校に行くのが日課でした。夕方は、実家に帰るのですが、途中で店によって夕飯を食べたり、実家で出前を取ったりしていました。
好きな肉類ばかり食べていたので、運動不足と相まって、中学校3年の時には、身長165cmで、100kgを超える肥満児になっていました。当時、お相撲さんになった同級生より体重だけはありました。その同級生は、大鵬部屋に入り、関脇までになっています。
お袋が、一時期居なくなり、寮で数か月寝泊まりした事もありました。
不倫して家出したと言う噂もありましたが、入院していたと言う事に落ち着いています。子供の頃から、親父とお袋がいっしょに居るところを観たことが無かったので、離婚と言う結末になっても不思議には思わなかったです。実際には何事も無かったように丸く収まっていました。
その家出事件後から、親父が朝から夜まで一日中、店に行くようになりました。
それで、お袋が、家で、弁当、朝・夜飯を作るようになり、私も実家に戻りました。典型的な昭和の男尊女卑だった親父が、折れて店の手伝いに行くようになりました。
その血を引いた私は、当然、その男尊女卑に憧れたので、娘から良くダメ出しされています。娘に弱いのが親父です。
大学も、実家から車で30分くらいだったので、実家から通っていました。
大学の頃に、祖母と叔母さんが実家に戻って来ていました。叔母さんは、入退院を繰り返していましたが、安定してきたので、病院の傍の郊外の家を引き払ったようです。2階の右の和室を二人で使っていました。
その後、私は大学を卒業して、埼玉に就職します。
一方、実家の方は、郊外に大型デパートやトイザラスやゲーム専用小売店の台頭などがあり、一般の小売り玩具店では昔ほどの利益が得られにくくなり、火の車状態になり、最後は本当に火事になり、借金を残して、閉める事になります。
ただ、同じ商店街にある玩具店は、今でも同じ場所で営業しているので、結局は商売は、その才覚の影響が大きいと実感しています。親父は、おっとりタイプの流されるままのお坊ちゃまタイプで、自分で行う商売は向いていなそうでした。また、お袋は何でも進めて行くが、後先何も考えないタイプなので、赤字でも気にせず、借金が膨らむ事になります。人当たりは、良かったので、周りにも結構借金していました。
実家もその残った借金で没収され、今では、何も残っていません。
その借金後始末や両親や叔母さんの介護から看取りに関しては、後ほど紹介する予定です。
以上が生まれてから、埼玉に就職するまでの実家の変遷です。思い出すと結構色々と変わったという事を改めて感じました。

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