思い出 34 最終回
2023年11月、紗倉まなさんがNOTEを始めたことに触発され、ボケ防止と終活の一環として始めた 思い出NOTE も、現在に追いつき、今回が最終回となります。
過去を思い出して記録に残すことで、ボケ防止になり、終活にもなると考え、これまで文章を書くことがなかった爺が、思い切って書き始めました。思い出を綴ろうとスタートしましたが、すぐに気づいたのは、記憶の時間軸が曖昧で、実際の時の流れから大きくずれていることでした。
人間の記憶は不確かであり、正確な時間の流れを把握することが大切だと感じ、ネットで様々な年表を調べました。その中でも、個人でまとめられた以下のサイトが最も分かりやすかったため、これを基準にしました。
昭和22年~平成17年の出来事
https://www.across.or.jp/s-amano/dankai/mukasi/22-24.html
時事通信社が選ぶ10大ニュース
などを参考にしています。
この年表をエクセルに貼り付け、年別に行を作成しました。そして、自分および家族の列を追加し、生誕、入学、学年、卒業、就職、結婚などの出来事を年ごとに記入しました。こうして、基本となる自分の歴史年表が完成しました。
もし、NOTEへの投稿を考えずに記録を残していたとしたら、覚えている思い出を羅列するだけで終わっていたでしょう。
しかし、NOTEに公開することを意識することで、年代の流れに矛盾がないように年表を作成し、勘違いしていた思い出を訂正したり、忘れていたことを思い出したりすることができました。
一応、時代考証はネットで調べたので、自分の思い出とは関係ない懐かしい出来事を知ることもでき、楽しい経験となりました。
また、週1回の連続投稿を目指すことで義務感も生じ、続けられたのだと思います。
このような形で始めたNOTEですが、遂に現在に追いつき、今回が最終回となります。
番外編を含めて44週連続で投稿することができました。
今回の投稿で一区切りとし、今後は気が向いた時に不定期で投稿していきたいと思います。
思い出31から33で綴った「借金」、「福島単身赴任」、「妻の入院」といった出来事を振り返りつつ、1997年以降の主な出来事を以下にまとめます。
1997年(40歳) 課長に昇進 長女:13歳、次女:11歳、長男:7歳
2000年(43歳) 2年間福島に単身赴任 長女:16歳、次女:14歳、長男:10歳
2002年(45歳) 実家のおもちゃ屋が火事で焼失 長女:18歳、
次女:16歳、長男:12歳
2003年(46歳) 長女が就職、長男が不登校に
妻が糖尿病からの緑内障手術で入院
2004年(47歳) 次女が東洋大学に進学
長女:20歳、次女:18歳、長男:14歳
2005年(48歳) 長女が結婚し、初孫が誕生
2006年(49歳) 次長に昇進
2008年(51歳) 母が脳溢血で倒れ植物状態に
妻が父の介護のため四日市に移住。
父の弟である叔父に、父の妹である叔母の後見人を押し付
けられる。
長女:24歳、次女:22歳(就職し一人暮らし開始)
長男:18歳
2009年(52歳) 植物状態の母が転院、父を埼玉に連れてくる
長男:19歳(フリーター)、家族は父を含めた4名に
2010年(53歳) 母が77歳で永眠
長女:26歳(三男を出産)、次女:24歳(結婚)
長男:20歳
2011年(54歳) 父が腸閉塞で入院
2012年(55歳) 父が83歳で永眠
次女:26歳(長男を出産)
2013年(56歳) 部長に昇進
2014年(57歳) 次女:28歳 次男を出産(5人目の孫誕生 たぶん最後)
長女:30歳(男子3人の母)、長男:24歳
2016年(59歳) 役職定年、管理を行わないスペシャリスト
定年を迎え、契約社員として再雇用される
2017年(60歳) 四日市の父の土地の抵当権を外して相続し、
その土地を売却して叔父への借金を返済
2019年(63歳) 私が後見人を務めていた叔母が亡くなり、
葬儀などの後始末
母が借金していたらしい100万円をK叔父の奥さんに返済
2020年(64歳) 親父の所在不明株で、約60万円を得る
2022年(65歳) 契約社員を終了し、年金生活に移行
紗倉まなさんの推し活をスタート。
推し活資金のために同じ会社でパートとして働き続ける
2023年(66歳) 5月でパート契約が終了し、会社員生活を卒業
会社と個人で顧問契約(月17万円)を締結
2024年(67歳) 妻:61歳 長男:34歳
長女:40歳
(長男:大学1年 次男:高校1年 3男:中学2年)
次女:38歳 (長男:小6 次男:小4)
NOTE 思い出 最終回
来年3月まで 契約更新(最後?)
推し活も最後?
2005年頃、長女が結婚し、次女も一人暮らしを始めたことで、私、妻、そして長男の3人家族となります。
この頃から、妻は富士大石寺顕正会に入信しています。これは、大宮に本部を置く宗教団体で、日蓮大聖人の法華経こそが釈迦の真実の教えであり、個人の幸福と真の国家安泰をもたらす法であると説いています。
妻は布教活動の一環として、長男も入信させています。
現在も、妻と長男は顕正会の活動を続けており、特に妻は毎週日曜日に大宮の本部に通っています。
そのため、日曜日は私の自由な時間となり、紗倉さんのDVDや動画をゆったりと楽しむことができています。
当時、妻は次女にも入信を勧めましたが、次女はこれをきっぱりと拒否しました。そのため、次女の前でこの話題を持ち出すことは禁じられています。
私自身、幼少期に祖母に連れられて真光会に通ったり、会社に入社した際に先輩の勧めで創価学会に入った経験があるため、宗教に対して特別な抵抗感はありません。
本人が信じ、精神的な支えとなるのであれば否定はしませんが、深くのめり込むこともありません。私も妻や長男に誘われ、1年ほど顕正会の本部や各種式典に参加しています。
祖母が入会していた真光会では高額な寄付金が必要でしたが、統一教会のようにすべてを奪い取られるわけではなく、各種式典に応じた一定額の寄付でした。脱会も比較的容易でした。
創価学会に関しては、女子と会えるという下心から先輩に誘われるまま入会しましたが、寄付金は年間6千円程度、聖教新聞の購入が主な負担で、金銭的には続けやすい宗教団体でした。
ただ、終わりなき「南無妙法蓮華経」の唱題が必須で、これが大変で、私は1年足らずで座談会への参加をやめました。
御本尊を返却して脱会を試みましたが、引き留められなかなか簡単にはいきませんでした。しかし、結婚に伴う引っ越しで支部が変わり、そのタイミングでうまく退会できました。活動期間は短かったものの、5年間脱会できませんでした。今でも選挙の時期になると公明党に投票するよう電話がかかってきます。
顕正会は、朝夕2回、5分から10分の勤行を行い、機関誌と自由意志による年1万円から6万円の寄付が求められる点は合理的だと思います。
妻と長男に連れられ、2年間ほど参加していましたが、その後は約10年間活動に参加していないので、自然退会していると思われます。
入信した記憶がないので、最初から正式な会員ではなかったのかもしれません。
宗教団体は、心の拠り所が必要になった時に癒しを与えてくれるので良いと思いますが、年費用や脱会時の問題については十分に確認しておくのが賢明です。
今でも妻と長男は顕正会の活動を通じて生き生きとしており、私はその様子を見守っています。
一方で、1996年に会社から借金した816万円は、2002年に完済しましたが、店や実家は残った借金で二束三文で没収されています。
借金の抵当権が設定されていて手を付けられなかった父の土地は、父が亡くなった5年後に弁護士に依頼し、簡易裁判で抵当権を外してもらいました。
私が相続し売却して得た資金で、父の弟である叔父への借金を返済します。
すべてを弁護士と叔父に任せたので、四日市まで出向いたのは、依頼時と売買時の2回だけで済んでいます。
弁護士報酬と税金を差し引いた後、手元に残ったのは20万円ほどでしたが、叔父から借金の請求をされる事はなくなり、問題は解決しました。
2019年に入院していた父の妹が亡くなり、葬式など、後処理で夫婦で四日市に行っています。その際、会社を紹介してくれた母の兄である故K叔父に100万円の借金があったことをK叔父の奥さんから聞かされました。
正式な借用書はなく、母へ売り込んだ事が記された通帳だけが証拠でした。
K叔父にはお世話になっていたこともあり、退職金の残りと叔母の生活費の残りで返済しました。
2020年には、所在不明株主支援機構というところから、亡くなった父の株が所在不明株になっているとの連絡を受けました。
最初は詐欺かと思いましたが、調べると、企業側にその株を買い取らせる支援を行う機構であることがわかりました。
詳細を確認すると、8年前に亡くなった父が生前に株を持っており、それが所在不明株になっているとのことでした。
書類は残っていなかったので、20%の手数料を支払って手続きを任せた結果、税金や手数料を引いて60万円程度を得られました。
これまで両親からは負債しか受け継いでいませんでしたが、唯一の収益となりました。
また、夫婦生活についても少し触れておきます。
同棲前には、休日に都内のさまざまな場所に二人で出かけ、デートを楽しんでいましたが、結婚して子供が生まれると生活は子供中心になりました。
長女が3歳くらいまでは、一緒にお風呂に入れたり、二人で協力して子育てをしていましたが、次女や長男に関しては、専業主婦の妻に任せきりでした。
もともと妻はあまり話すタイプではなく、夫婦間の会話はそれほど多くありませんでした。妻の母も同じような性格で、彼女の実家での食事も静かでした。見た感じでは、優しさが溢れており、心地よい静けさがありました。
一方、私の両親については、母は商売をしていたためマシンガントークでしたが、父と話す姿を見たことはありません。
食事も含めて、二人が一緒にいる姿を見た記憶はほとんどなく、冠婚葬祭でも別々に出かけ、別々に帰ってくるのが常でした。
両親と私の三人で食事をしたことも、家族旅行をした記憶もありません。
祖母や母側の従妹たちとの遊びだけが記憶に残っています。
そのような家庭環境で育ったため、会話の少ない家庭生活に対して不便を感じたことはありません。
妻から私に相談することはほとんどなく、たいていのことは自分で進めてしまいます。
しかし、40年以上ともに暮らしていると、妻が何か頼みたいことがあるときは何気なくわかるようになりました。
そこで私が声をかけると、やっと具体的な話が出てくるというような関係です。
会話は少ないですが、お互いに干渉せず、良い距離感を保っているからこそ、これまでの関係が続いているのだと思います。
夫婦の営みについても触れておきます。
同棲時代は朝晩2回、結婚後も子供が小さい頃までは週2回、その後も週1回程度、定期的にありました。
しかし、父が同居してからは場所やタイミングの問題もあり、頻度は減りましたが、月1回程度は行っていました。
それが変わったのは、2021年に妻が下肢静脈瘤の手術を受けてからです。
術後保護タイツの影響もあり、その後、コロナ禍も重なって、自然と営みはなくなりました。
営みがあった時から、自慰は別物として、VHS、DVD、そしてファンザとお世話になってきています。
今でも、週1回は紗倉さんにはお世話になっています。
会話もほとんどなく、営みも無い現状ですが、私は満足しており、プーに捨てられない限り、最後まで一緒にいられたらと思っています。
定年に関して記載します。
会社の規定では、58歳で役職定年、60歳で定年を迎え、契約社員として65歳まで延長できます。
給料イメージとしては、58歳までの年収が1000万円、役職定年後が800万円、契約社員では600万円です。執行役員は1500万円、役員は2000万円のイメージです。
役員には定年がありませんが、68歳くらいで辞め、後任に道を譲ることが多いようです。
役員以外は、65歳過ぎての雇用は、原則としてありません。
私は役職定年後、管理職ではないスペシャリストとなり、60歳で定年退職して退職金をもらい、契約社員として65歳まで勤めます。
その後、特別に、1年半パートとして勤めて、昨年の4月に、顧問契約を結んで、現在に至っています。
57歳で役職定年を迎えるまで、私は福島分室と武蔵開発の両方を管理中心で過ごし、実際に手を動かして開発する機会はほとんどありませんでした。しかし、役職定年後は給料が下がったものの、担当長のフォローをしながらも昔のように開発に携わることができ、仕事が充実し、楽しく感じていました。
ただ、労働基準法の改正によりサービス残業が禁止され、時間をかけて進めていた開発が難しくなりました。IT技術の導入による効率化が進んだものの、昔のやり方に慣れていた私はその変化に対応するのが難しかったです。
それでも、自分の開発品が市場に出て売れるとやりがいを感じ、仕事を楽しめました。
しかし、定年が近づくにつれて、長期的で重要な開発の担当から外されることが増えました。
かつてサービス残業で行っていた研究的な業務もできなくなり、新規技術を追加するという開発の醍醐味を味わうことが少なくなりました。
壁にぶつかると諦めることが多くなり、仕事に集中できず、気分も沈みがちになっていきました。おそらく、定年鬱だったのだと思います。
そんな時に、紗倉まなさんという存在を知り、これまで知らなかったイベントやライブに直接参加する楽しさを見つけることができました。これが仕事以外の新しい楽しみとなり、定年鬱を乗り越えるきっかけとなりました。
紗倉まなさんの推し活という新たな目標ができたことで、会社勤務も、推し活資金を稼ぐ目的と割り切れるようになり、再び仕事を楽しめるようになりました。
昨年、パート勤務も終えてサラリーマン生活に幕を下ろしましたが、今では個人として会社と顧問契約を結び、推し活と仕事の両立ができています。
顧問契約は6ヶ月ごとの更新ですが、会社から切られるかもしれないという適度なプレッシャーがあり、推し活という目的もあり、モチベーションを維持できています。
9月に契約更新されれば、来年3月までは契約が続行されるので、年金を受給しながら、推し活生活も続けて楽しみたいと思います。
そして、今回の投稿をもって、思い出を綴るのは最後となります。